最終話: いま、ひとたびの夢を

※最終話とありますが、本編はここで終わり、次のエピローグで終わりとなります


――――――――――――――――



 後年にて、語られた事だ。


 その年の暮れに行われた有馬記念を生身で体感した者たちはみな、レース直前にて目撃したソレを前に、同じ予感が脳裏を過ったらしい。



 ──何かが起こる、と。



 後に、客観的に検証されたのだが、キッカケというか、ソレとは別に、そう考えるに至る理由は幾つかあった。


 まず、その年の有馬記念では、『ホワイトリベンジ』という競走馬が引退を表明していたこと。



 つまり、引退レースである。



 そして、この馬は……非常にドラマチックな経歴の持ち主であり、当時の競馬ブームの火付け役と言っても過言ではない馬であった。


 グッドルッキングホース……というのとは、少し違う。


 美形かどうかは個人の主観によるのだが、その馬は非常に愛嬌があった。


 競走馬とは思えぬぐらいに大人しく、それでいて人懐っこく、時には悪戯をして客たちを楽しませる、心優しい馬であった。



 そして、この馬は……その生まれからは想像が付かないぐらいに、強かった。



 けして、恵まれた血統ではない。生まれると同時に持っていた歩行不安もそうだし、生まれ落ちた牧場の経営的にも、殺処分が妥当とされていた。


 それが、何の因果か、様々な人たちの尽力によって生き長らえ……幾度のレースを経て、当代最強と言われた超良血統の馬にも勝利した。


 一時は安楽死が妥当とされるほどの大怪我を負いながらも、これまた様々な人たちの努力と愛情を受けて持ち直し、再び競馬の世界に舞い戻り……勝利を重ねた。


 まるで、漫画やアニメのような奇跡的かつドラマチックな旅路であった。



 けれども、そんな彼にも等しくやってくる……『老い』というタイムリミット。



 彼は、その年を迎えてからは、まるで勝てなくなった。


 無事に走りきる事は出来ても勝利からは程遠く、場内にその名がコールされることはすっかり無くなっていた。


 だが、それでも……彼のこれまでを見て来た者、知っている者は、心の何処かで予感していたのだろう。



 彼は……また、奇跡を起こすのかもしれない、と。



 事実、彼はこれまで幾つもの奇跡を起こして来た。通常であれば殺処分になるところを、奇跡的に免れた。


 しかし、成長するにつれて歩行不安は改善されたが、それでも不安は消えない。


 それを、引退を決意していた騎手が跨り、強い走りで他を圧倒し……勝利に勝利を重ねる快進撃という奇跡を起こした。



 そして、運命の日、東京優駿……日本ダービー。


 彼は、死の淵から帰って来た。



 彼を知るファンたちの誰もが、走りきるだけで十分だと、勝利する姿を想像すらしなかた。



 だが、彼は勝利を掴み取った。



 逆境を、苦難を、そんな心配など無意味だと言わんばかりに、その足で、その走りで、証明し続けた。


 たとえ、勝ちから遠ざかったとしても。


 彼ならば、もしかしたら……ホワイトリベンジならば、再び奇跡を起こすのでは……と。




 ──だからこそ、ゲートが開かれた、その瞬間。




 一斉に飛び出した各馬。鍛え、磨かれた、研ぎ澄まされた優駿たち。


 その年の総決算とも言われる、GⅠレース『有馬記念』……その栄光を手にする為に、誰もが前を見つめる、その最中。




『──ホワイトリベンジ、殿しんがりを走っている!?』




 ただ一頭……後方へと下がり続け、最後尾に付いたとしても……誰もが、『それでも、もしかしたら……』と思っていた。






 そして、それは……見つめる観客たち、テレビの向こうの人達、実況者たち、馬主たち……騎手たちとて、例外ではなかった。



(ヨシッ! みんな、ホワのステップに掛かっているな!)



 小気味よく次々に加速を続けてゆくライバルたちの背中を見送りながら……将は、まるで力負けしているかのように装って、スルリと最後尾に付いた。


 どうして、最後尾に付いたのか……いや、違うのだ。


 確かに、状況だけを見れば将とホワは最後尾に付いたように見えるだろう。けれども、走っている者たちの中では違う。



 ──1ハロン(約200m)を走った時点で、彼らは気付いた。何時もよりも、ペースが速いことに。



 と、同時に、彼らはもう一つの事に気付いた。


 掛かっているのは、馬だけではない。自分たちもまた、ホワイトリベンが見せたテイオーステップを見て、無意識の内に掛かってしまったのだということを。



 それは、二度とは通用しない現象であり、偶発的な重なりであった。



 幾度の奇跡を起こし、幾度の逆境を跳ね除け、そして、ステップを見せたその時の、鮮やかな勝利を騎手たちは見ていた。


 昔ならいざ知らず、感覚的だけではなく、理論的なアプローチも必要であると思っている者ほど、それは強く作用した。


 頭では、分かっている。ピークを過ぎた5歳馬が、絶頂期である自分たちの相棒を越えられるわけがない、と。



 しかし、同時に、不安も過った。



 そんな当たり前を、何度も破ってきた馬は誰だ……そう、自分たちと共に走っている、ホワイトリベンジではないか、と。


 そんな、心の片隅にジワッと染み出た不安が……彼らの手綱さばきと感覚を、ほんの僅かばかり狂わせた。




 しかも……不安を覚えたのは、騎手たちだけではなかった。




 騎手たちを乗せている優駿たちもまた、僅かばかり不安を覚えていた。


 それは、普段であればほとんど気にも留めず、一歩二歩と距離を取るだけで解消される程度の淡い不安であった。



 だが、この時、この瞬間、優駿たちの不安を増大させたのが……騎手たちの、そして、観客たちの反応であった。



 有馬記念に出て来る優駿たちは、競馬というものを中々理解出来なくとも、自分たちが走る時は色々と騒がしいことになる……それは理解していた。


 しかしそれは、コースに出てきた時か、甲高い音が流れた時か、皆で一斉に走っている時に人々の前を通過した時か、であった。



 ……けれども、この日。



 何時もと違うタイミングで、人々が集まっている方向から騒がしくなったことに、集まっている優駿たちは違和感を覚えた。


 本来ならば、その違和感も、どっしりと構えている騎手たちに引っ張られて落ち着いてゆくのだが……コレも、この時は違った。



 ──ほんの僅かではあるが、その身体より伝わってくる緊張感を……優駿たちは感じ取ってしまった。



 それは、馬としての本能であった。調教された優駿たちであってもどうにもできない、馬の……いや、動物としての本能。


 何時もとは違うという、未知に対する警戒心と不安が……それが、ジワッと優駿たちの心の片隅に滲んでしまった。


 しかも、自分だけではない。自分に乗っている者だけでなく、同類に乗っている者たち全員が、一人を……いや、白いアイツを注視している。




 ──なんだ、アイツは? 




 奇しくも、優駿たちは同じことを思った。


 と、同時に、優駿たちは互いが同調し合う形で、『みんなが警戒しているなら、離れるべきか?』とも考えてしまった。


 その結果……ゲートが開かれると同時に、優駿たちはみな……同じように逃げようとする同類たちに合わせて、いつも以上の加速をしてしまった。


 自らの背に乗った人たちの、『加速しろ』という指示もまた、影響があっただろう。



 ゆえに、騎手たちが気付いたところで、全ては遅かった。



 そう、中山競馬場の芝2500mというコースは、タフさを要求されるレースでもある。


 現在の芝は昔より水はけが改善され、重馬場ほど悪くなってはいない。


 しかし、それでも良馬に比べて走り辛く、普段通りに走れば最後までスタミナが持たないだろう。


 だから、普段であればソレも考慮したうえでのレース運びを行っていたところだが……この時ばかりは、そうならなかったのだ。



(──へへ! 一度前を行った馬がいきなり速度を落とせるかよ! 下手にタイミングがズレると、そのまま馬がやる気を失ってしまうぞ!)



 最後尾より、前方を走る馬たち全体の様子を確認していた将は……内心にて、作戦が半ばまで上手く行っているのを理解した。


 既に、将たちは1000m近く走っている。全体的に、ハイペースにレースは進んでいる……といったところだろう。


 良馬場であるならまだしも、この芝の重さで、そのペースを続けるとなれば、相当に苦しいレースになるだろう。


 実際、将が確認出来る限りでは、半数以上の騎手がどこかで息を入れようとしている。


 そうしなければ、馬たちの息が続かないからだ。しかし、それを入れるタイミングが中々見付けられていないようだ。


 加えて、先日の雨と、直前までパッとしないままだった今日の天気によって、多量の水分が含まれたままの馬場は良馬場よりもパワーを必要とする。


 それに、他の馬に追い抜かれるという感覚、それが馬にもたらす影響は、調教された優駿たちであっても、けして軽く見てよいものではない。



 不運にも彼らの馬はみな、少しばかり掛かってしまっている。



 有馬記念の雰囲気に呑まれてしまったのか、ホワを除く全頭が前へ前へと行こうとしていることもあって、命令を受けたとしても、自分だけ競り負けるという状況を中々に作れなかったのだ。


 それは……クレイジーボンバーの全弟である『ダンシングジェット』も、例外ではなかった。



(ジェット……分かるぜ、お前の気持ちを。何時もと違うレースの流れに、戸惑っているな?)



 クレイジーに匹敵すると言われているその馬と、真正面からぶつかり合えば、負けるのはこちら側だ。


 けれども、レースに絶対は無いように、クレイジーも、ジェットも、絶対的に強くとも、絶対の存在ではない。


 ハイペースに進めば息が切れ、戸惑い続ければ足が鈍り、それらが続けば前へと行けぬ苛立ちとなって、負のスパイラルが生じてしまう。


 とはいえ、それでもさすがはダンシングジェット……その実力は確かであり、前目にて走り続けていた。



(……でもなあ、ジェット)



 ぎらり、と。


 改めて前方を見据えた将の視界に映る、徐々に近づいて来るあの馬たち……いや、少し違う。


 近付いてはいるが、それはホワが速くなっているのではない。


 上手く息を入れられないままに走り続けていたせいで、ついに、息切れし始める馬が現れ始めたのだ。



(中山の有馬は、後半に行くにつれて、どんどんしんどくなるぞ!)



 だが、それでもなお……将は、ホワの気を宥め、ひたすらに耐え忍ぶ選択を取った。


 まだ、早いのだ。


 これまでペース配分を崩さず、ひたすらに待ちの姿勢で耐え忍んだホワとはいえ、まだまだゴールまでは遠い。


 もっと、ギリギリまで行かなければならない。そうでなければ、競り負けてしまう。


 だから、耐えるのだ。一頭、また一頭、緩やかに抜かしていくにつれて、高揚してゆく本能を……抑えなければならない。



(ホワ、耐えろ! 俺が合図をするまで、我慢の競馬だ!)



 人間ですら、高揚してしまうであろう状況。


 ここが攻め時だと、勘違いしてしまうであろう状況。



(──っ! さすがだぞ、ホワイトリベンジ!)



 その中で……ホワは、静かに耐えている。それを、将は確かに感じ取っていた。


 沸々と湧き起こる熱を抑え込んでいるのが、手綱を、跨った身体より、脳天へとハッキリと伝わってくる。


 それはまるで、マグマだ。


 ボコボコと、今にも爆発しそうなソレを抑えたまま、ホワが己を信じて待っているのを……将は、確かに感じ取っていた。



(……認めたくねえけど、やっぱりおまえは……クレイジーに無いモノを持っているんだな)



 だからこそ、将は……約束通り、速度を落とさないままに緩やかに外へと僅かばかり膨らませ、ゴールへ向けて遮る物が何一つない、その位置へと辿り着かせると。



(──ぶっち切れ、ホワイトリベンジ! クレイジーすらも置き去りにした末脚──掴み取れ! おまえの奇跡を!)



 音も無く振り上げた鞭で──ホワへと、合図を送ったのであった。




――――――――――――――――――





『湿り気混じる師走の風を振り払い、いま、コーナーへと差し掛かり、最後の力比べが始まろうとしております』


『前半、半ば、後半と今年の有馬記念はハイペースな競馬となっておりますが、どの馬が有馬の栄光を掴み取るのか!』


『各馬一斉に準備に入る! 入り乱れる! 各馬が入り乱れて大混戦! 押し合いへし合い、さあさあ最後の直線だ!』


『さあ、鞭が出る! さあ、鞭を振るう! 中山の短くも苦しい急坂を乗り越える為に、各馬が最後の力を振り絞る!』


『先頭はやはりこの馬、ダンシングジェット! 全兄のクレイジーボンバーと同じく、有馬の冠を手にするのか!』


『その一馬身後ろをバーニングが追走! 若造に負けてたまるかと猛追! 一歩も引かない! 一歩も引かない! ぐんぐんと後続との差が広がってゆく!』



『二頭のつばぜり合い! やはり、この二頭がしのぎを削り合う! 後続との距離は縮まらず、二頭が独走――いや、大外から来ている!?』



『大外からホワイトリベンジが来ている!?』


『ホワイトリベンジだ! 葦毛の雑草魂ここで来た!』


『幾度の奇跡を起こした葦毛が、ここで上がって来た!』



『さあ、頑張るぞ! ホワイトリベンジ!』



『先頭は変わらずダンシングジェット! 兄に続けと前を行く! 粘る! 先頭を譲らない!』


『その半馬身後ろを猛追! バーニング! ジャパンカップを制したのは伊達ではないぞとジリジリ迫る!』


『そして、リベンジが来た! 直線一気! 最後の奇跡を起こすかホワイトリベンジ!』



『ジェット!』


『バーニング!』


『リベンジ!』



『ダービー馬の意地を見せるかダンシングジェット!』


『世界に名を轟かせたバーニングが突っ切るのか!』


『幾度の奇跡を、ここでも起こして有終の美を飾るかホワイトリベンジ!』



『ジェット! バーニング! リベンジ――リベンジか!?』


『リベンジ伸びた!』


『ホワイトリベンジが差した!』


『ホワイトリベンジが――差し切ったぁあああーーーー!!!!』




『やったー! 見事に決めた! 葦毛の雑草魂が奇跡を見せた!』




『勝利から遠ざかった一年間! それでも不屈の戦士は最後まで諦めなかった!』


『ライバルはレースを去り、切磋琢磨した同期たちもレースから遠ざかりつつあった、苦悩の一年間!』


『その一年間の集大成! 最後の最後で、ホワイトリベンジがやりました!』



『確定! 改めて、確定となりました』



『ホワイトリベンジ、1着! 今年の有馬を制したのは、ホワイトリベンジだ!!!!』



『2着に、ダンシングジェット! 3着に、バーニング!!』


『どの優駿が勝ってもおかしくなかった! そんなもしもを思い起こさせるような、暮れの総決算!』


『自らの道は、自らで飾り立てる! そう言わんばかりに、勝利の花で飾り立てた引退への道を、ホワイトリベンジはやり遂げました!!!』



『ありがとう、ホワイトリベンジ!』



『幾度の夢を、ありがとう! 場内に響く、リベンジコールと共に……今、ホワイトリベンジがスタンド前に戻ってきました!』


『伊藤将、右手を掲げてガッツポーズ! 天才が魅せた、最後の復讐劇!』


『ありがとう、ホワイトリベンジ! また、どこかで会うその時まで、ありがとう!』



 …………。


 ……。


 ……





――――――――――――――――――



 ……。


 ……。


 …………ホワが頭一つ突き抜けてゴール板を駆け抜けた、その瞬間。



「……やったな、ホワ」



 ぽろり、と。


 車いすに座っていた遠藤は、小さく涙を零した。


 それは、『天皇賞・春』を制した時に比べたら、染み出たかのようなか細いしずくであった。



 しかし、その涙に込められた想いは、その時に匹敵する程に大きかっただろう。



 ちらり、と。


 遠藤は、涙で滲む目を、隣のキナコへと向ける。



「……っ! ……っ!」



 キナコは、泣いていた。ただ、それはこれまでパドックで見せていた派手な涙ではない。


 両腕で顔を隠し、それでもなお堪えきれない嗚咽が隙間から零れ出ている。時折鼻を啜る音が聞こえるあたり、当分は激情を抑えられないだろう。



(……ありがとう、キナコちゃん。最後に、こんな素敵な光景を見させてもらって)



 その、静かに泣く姿を見やった遠藤は……ニッコリと、心からの笑みと共に、再びガラス向こうの……スタンド前にて悠然に歩いているホワを見詰めると。



「ありがとう、ホワイトリベンジ。最後に、良いお土産が出来たよ」



 その言葉と共に。



「……さて、キナコちゃん。泣いているところ悪いけど、ホワを迎えに行こうか」



 遠藤は……己がする、最後の仕事の為に……気合を入れるのであった。







 ──第○○回・有馬記念(GⅠ)


 ──勝者・ホワイトリベンジ号




 通算成績15戦9勝(競争中止:1)


 『 主な成績 』


 新馬戦・芝1600m(1着)


 芙蓉ステークス・2歳OP(1着)


 デイリー杯2歳ステークス・GⅡ(1着)


 ホープフルステークス・GⅠ(2着)


 共同通信杯・GⅢ(1着)


 皐月賞・GⅠ(1着)


 東京優駿・GⅠ(競争中止)


 阪神大賞典・GⅡ(1着)


 第○○回天皇賞春・GⅠ(1着)


 天皇賞秋・GⅠ(1着)


 第○○回有馬記念・GⅠ(2着)


 第○○回天皇賞春・GⅠ(5着)


 第○○回有馬記念・GⅠ(1着:引退レース)




 幾度もの苦難に見舞われながらも、立ち上がり続け


 『葦毛の雑草魂』と親しまれた、稀代のアイドルホース



 ××××年、12月○○日



 引退レースにて、見事に有終の美を飾りたて


 約13万人の観客たちに見送られながら


 その、競走馬としての戦いを終えるのであった


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