第十五話: それもまた、穏やかな日々
忙しなくも長閑な空気が流れているタチバナ・ファームだが、この日の空気は……何時もとは少しばかり違っていた。
『いいよ~こっち向いて~』
──キリッ!
『かっこういいね、キマッているよ~』
──キリッ!
『こっち向いて~振り返って……そう、そう、そうだよ、それそれ~』
──キリリッ!!
梅雨真っ盛りのその日、写真撮影だとかでやってきたカメラマンに対して、彼は……これまで以上にキメ顔を披露していた。
『いいね~いいよ~』
──そうだろ?
ヒヒン、とちょっと自慢する感じで嘶く彼を他所に、順調に撮影を進めていくカメラマン(他、スタッフ含め)は笑顔であった。
それは、単純に楽……だけが理由ではない。
動物を専門に取るカメラマンからすれば、中々に珍しい体験であり光景であったからだ。
と、いうのも、だ。
馬に限らず、動物というのは基本的に警戒心が高い。
完全室内犬や室内猫のように、生まれた時から四六時中人間が傍に居る状態であったとしても、見知らぬ人間に対しては強い警戒心を露わにするのは、なんら珍しいことではない。
そんな繊細な生き物である動物……そう、馬にとって。
只でさえ見知らぬ人が現れたことに警戒心が刺激されるというのに、『撮影機器』という未知の道具まで持って来られたら、そりゃあ怖がって離れても不思議ではない。
もちろん、全然怖がらない馬もいる。逆に、人を小馬鹿にして楽しむ賢い馬だっている。
しかし、それはあくまでも気心知れた厩務員等が傍に居たり、人へ警戒心を持たないよう色々と訓練をしたり……そういった処置を既に行っている場合がほとんどだ。
そして、そういう訓練をしたとしても、100%安全かと言えば、そんなわけがない。
なので、まず馬の方に『この人は敵じゃない、警戒しなくていい』と納得し、安心させてから撮影を始めるのが、ある種のスタンダードなやり方であった。
……だからこそ、この日、『ホワイトリベンジ』の撮影を行っているカメラマン一同は……率直に驚いていた。
だって……噂で聞いていたよりも、ずっと図太い性格をしていたからだ。
フラッシュ等、音や光で怖がらせたり驚かせたりしないよう注意を払っているが、それでもハッキリと、図太いのが分かる。
熱中したカメラマンがグルグルとホワイトリベンジの周囲を回っても、欠片も気にした様子も無く、声を掛ければ振り返ってくれる。
後ろ姿や横顔も良いが、やはり、視線を向けている瞬間はレアだ。
右を見て、左を見てと、ある程度は指示に従って視線を向けさせることは出来るが、特定の場所を見ろという指示は理解してもらえない。
なのに、ホワイトリベンジは、見てほしい場所を指差せば、そちらに視線を向けてくれる。
これが、カメラマンとしては非常にありがたい事であった。
……。
……。
…………まあ、そんなカメラマンたちも、さすがに気付くことはないだろう。
自らが撮影している競走馬が、実は人の言葉を理解している事を。更には、人の魂が入っているなどとは……夢にも思うまい。
(う~ん、いったい何枚取るのやら……カメラマンの仕事も大変なんだな)
テンションが上がっているカメラマンの姿に、内心『良かった、これで正解か』と安堵のため息を零しているとは……想像すらしていないだろう。
(……そういえば、馬の写真が入っているカレンダーとか見掛けた覚えがあるけど、コレか?)
実際、どうなのだろうかと……写真を取られながら、彼は考える。
正直、人間だった時は競馬に興味などほとんど無かったし、カレンダーの馬だって、どのようなエピソードを持っている馬なのかすら知らない。
というか、今回のコレが競走馬の世界では『あるある』なのか、けっこう異例な事なのか、それすら彼は全く知らない。
(わざわざ撮影に来るぐらいだから、俺もそれなりに有名になったってことなんだろうけど……う~ん、いまいち基準が分からん)
だから、仮にもこの写真がカレンダーに使われ、それが店頭に並ぶ時が来れば今よりも有名になるのだろうかと、そんな疑念すら彼は覚えていた。
……たぶん、有名になるのだろう。そう、彼は思った。
そうだ、前回のレースの時だって、これまでに比べて比較的若い子が増えていた。たぶん、昔に比べたら有名になっているのだろうな……っと。
(うお、びっくりした!)
ぼんやり考え事をしていた彼の視界に唐突、ヌウッとカメラマンの前に顔を覗かせたのは、クレイジーボンバー。
どうやら、誰も彼もが撮影に集中し過ぎていたせいで、接近に気付けなかったようだ。
春の天皇賞馬。
そして、ダービー馬。
彼に自覚は薄かったが、このGⅠ馬の称号……特に、ダービー馬の称号を持つ馬は、特別視される傾向にある。
競走馬の撮影に来ているカメラマンなのだから、素人ではない。
厩務員には及ばないが、写真を取る為に馬の勉強はしているし、その称号が如何に重く、得難いモノであるかを知っている。
「うぉ、ちょ、これ、どうしよう?」
だからこそ、カメラマン一同は困ってしまった。
ホワイトリベンジ……彼の場合はおとなしく、こちらから害するような事さえしなければ、好きにさせておいた方が安全だとすら思える。
しかし、クレイジーボンバーは違う。
カメラマンが事前に調べた限りでは、ちゃんと指示に従う賢い子ではあるが、中々に気難しい面があるらしいし、実際にそうだと説明を受けた。
言うなれば、一部の面ではとても繊細な子なのだ。
特に、ホワイトリベンジに対しては顕著であり、負けず嫌いの気もあるらしく、事あるごとに張り合おうとするのだとか。
なので、此度のコレも、クレイジーボンバーなりに張り合おうとしているのは……言われずとも、誰もが察していた。
だが、どのような形で張り合おうとしているのか、それがカメラマンには分からなかった。
このまま撮影を一旦止めるべきか。
でも、それをしたことでクレイジーボンバーの機嫌を損ね、何かしらのトラブルが起これば……かといって、続けるべきなのか、誰も判断出来なかった。
「どーどー、落ち着け。クレイジー、落ち着きなさい」
──ブフフン!
「うーん、弱ったな……キナコちゃんなら、すぐおとなしくなってくれるのに……」
こういう時の為に付き添っていた厩務員が、急いでなだめようとするが……興奮しているクレイジーボンバーを落ち着かせるには至らない。
普段ならば、これで言う事を聞いてくれるが……どうやら、今回はちょっと負けん気の面が強く表に出たようだ。
困った事に、今回の撮影にて付き添ってくれているのは、クレイジーボンバーが一目置いている、タチバナ・ファームの娘であるキナコではない。
撮影が始まる直前、どうしても手が離せないということで、急遽変わったのだが……誰しもが、彼女を呼びに行くべきかと考え始めた……そんな時であった。
(静かにしろ! クレイジーボンバー!)
──ヒヒン、と。
まるで、弟に言い聞かせるかのような、ホワイトリベンジの嘶き。
実際に、ソレを受けたクレイジーボンバーは、ピコンと立てていた耳を垂らすと……傍目に分かるぐらいに、ショボンと気落ちしてしまった。
……。
……。
…………おおお、と。
この場に居た者たちはみな、ホワイトリベンジの行動にどよめいた。
確かに、今しがたの光景はそのようにしか見えなかったのだから、そう捉えてもなんら不思議ではなかった。
(……通じた? え、本当に通じた? ヒヒンで通じるとは思わなかったけど、通じたと思っていいの、これ?)
だが、実際のところは、言い聞かせたわけでも何でもなく、通じてくれと祈りながら鳴いたに過ぎない。
ぶっちゃけ、彼の主観からすれば、『ヒヒン!』と一鳴きしただけだ。比喩でも何でもなく、ヒヒン、と彼は声に出しただけ。
正直、通じるとは思っていなかったから、彼の方が内心にて驚いていたのだが。
……この場に居る誰もがそれに気付くこともなく、遅れてやってきたキナコの参入によって撮影が再開され……結局、そういう事がありましたねという程度の話で終わった。
……。
……。
…………まあ、そこで終わらないのが、クレイジーボンバーの負けず嫌いなのだけれども。
その後も、色々とあった。
雑誌の取材に訪れた記者の前にも、ヌウッと顔を出して……今度は付き添っていたキナコに『駄目だよ、メッ!』と怒られてしょんぼりしていたり。
ドラマの最終話記念とかで、なにやらイケメンみたいな感じ(馬なので、ちょっと視界がぼやけるので)の人がやって来て、腹の横を撫でられたり。
あまりにもしつこく絡んでくるから逃げようとすれば、それを追いかけっこだと勘違いしたクレイジーボンバーによって、ダラダラと原っぱを走り回ったり。
まあ、色々あった。気分は、元気盛りの子供の面倒を見ている感じだった。
とはいえ、そんなクレイジーとのお約束も、そう長くは続かなかった。
それは、それから更に一か月後の猛暑の頃。
『タチバナ・ファーム』がある土地は、全国的に見ても気温が低いとはいえ、暑い時期はちゃんと暑い。
ただ、コンクリートジャングル(つまりは、アスファルト)がもたらす夜間の放熱が軽いこともあって、都会に比べたら、ずっと涼しい。
なので、都会特有の、全ての命を奪い取る、茹るような熱気を覚えている彼にとって、今生の夏はそれほど嫌なモノではなかった。
(……いいなあ、クレイジーのやつは)
ただ、あくまでも、それほどなだけであって。
(金持ちだから、部屋にエアコンとか付いているのかな……)
比較的マシなだけであって、やっぱり、暑いモノは暑い。
彼の部屋には扇風機の風が入るようになっているが、それでも、エアコンの冷風に比べたら雲泥の差だ。
けれども、それも致し方ないだろう。
人間の部屋とは違い、馬が住まう部屋は隙間だらけ(馬が、狭い場所を嫌うので)であり、ただエアコンを付けるだけでは冷えない。
それこそ、建物全部を冷やすぐらいにしなければならないが……そうすると、それはそれで馬にとっては圧迫感を与える事になりかねないし、なにより、費用が高すぎる。
なので、扇風機の風が当たる位置でぐでっと寝そべりつつ、地面に体温を逃がしながら、彼は……数日前にここを離れたクレイジーボンバーの事を思い出していた。
……どうして、クレイジーボンバーは『タチバナ・ファーム』を離れたのか。
それは、クレイジーボンバーとて夏の猛暑を嫌がったわけであり、ここの暑さに耐えきれなくなったようで。
(あいつ、こういう時だけは自分から車の中に入っていったよな……変な所で現金なやつだ)
『タチバナ・ファーム』が夏本番を迎えるに合わせて、『伊藤牧場』へと戻る際には、自ら進んで入って行ったのを思い出していた彼は……ブフフン、と鼻息を吹いた。
なんというか、疲れた。
そこまで嫌というわけではないが、朝から晩まで振り回されている感じがして、気疲れが酷い。
ある意味、レースに出た方が精神的には楽かもしれないとすら彼は思った。
『あ、ホワ~、氷砂糖と岩塩持って来たから、シャワー浴びている間にちょっと舐めててね』
(うい~っす、脱水予防頑張ります)
まあ、その代わりと言ってはなんだが。
『ご苦労様、クレイジーも向こうで調子良さそうだし、感謝の電話が来たよ』
手綱を引かれ、案内されたシャワールーム。そこで、パシャパシャと少しばかり生温い水を掛けられながら。
『果物もいっぱい送ってきてくれたから、後で切って持って来るからね。みんなの分もちゃんとあるから、遠慮しなくていいよ』
(ヒュー、さすがは金持ち、そういうところは太っ腹だな)
『ホワ、果物で反応するの速過ぎだよ……大丈夫、果物は逃げないから、まずはシャワーね』
(う~ん、なんだろう、林檎とか西瓜とか? あれ、馬って西瓜は大丈夫なのかな?)
──ヒヒン、と。
もうすぐやってくる、おやつタイムによって、あっという間に気力を持ち直した彼は。
……またクレイジー来てくれないかなあ……と、現金かつ先ほどとは真逆な事を考えていた。
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