第十二話の裏: 奇跡と言うなれば
※ここから、(表)と(裏)に話が分かれます
まあ、あまり変わらない感じでしょうか
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──ゴール板を駆け抜けた時……いや、その直前から、彩音は己の涙を止める事が出来なかった。
『勝ち負けは考えなくていい、今日は気持ちよく走ってくれるだけでいい、みんなに元気に走る姿をお披露目して』
スタートゲートに入る前に、彩音は相棒であるホワに対してポツリとそう話していた。
それは、レース前日に、馬主である遠藤さんとも相談して決めた事である。
ボテンシャルを信じているとはいえ、療養上がりであるのは事実。足の状態も回復し終えているとはいえ、結局のところは走ってみないと分からないのが現実だ。
短い期間とはいえ、トレセンにて坂路を走って少しばかり体力を戻せた手応えはある。しかし、実際にコースを走ったわけではない。
そう、実際に走るのは人間ではない。人間を乗せた、馬たちが走るのだ。
どれだけの理屈を並べようと、そこは変わらない。
そのために訓練された競走馬に跨り、定められたコースを全力で駆け抜ける……駆け抜けるように命令する、ただそれだけ。
そして、人の言葉など話せない彼ら彼女らにとって……このコースがどういう場所なのか、それを理解しているのかすら、人間たちが本当の意味で知る事は出来ない。
(大丈夫……大丈夫、急がなくていい、焦らなくていい。貴方が足を怪我してしまうことよりも、まずは無事に走り抜ける……それだけでいい)
ホワは……奇跡的に、再び
いや、奇跡という二文字で完結していい事ではないのかもしれない。少なくとも、彩音はそんな言葉で手軽に終わらせたくはなかった。
何故なら、その奇跡に辿り着くまでに、大勢の人々の汗と涙があって、なによりも、ホワ自身が誰よりも耐え忍んでくれたからこその、奇跡であるからだ。
そして、彩音自身もまた……自責の念に苦しみながらも、夫の宗司に支えられ、今日という日を迎えた。
そう、夫である宗司にだけ言葉にして伝えていることなのだが……あの日の事は、今でも悪夢として飛び起きてしまうぐらいのトラウマとして、彩音の心の奥深くに刻み込まれている。
──後悔しなかったことは、一日とて無い。
2400mを逃げ切るよりも後方待機にて足を溜め、最後の直線で一気に差し切る……それに賭けたのは、ひとえにソレが一番高い勝率になると思ったからだ。
ホワの持つ最大の武器は、『逃げ』ではない。その、驚異的な末脚にこそある……と、彩音は思っている。
そして、生来の癖なのかは分からないが、ホワはある一定の速度を出そうとする際、走行を変えて走ることには前から気付いていた。
それが爆発的な加速と、長く伸び続けるという、相反する特性を生み出していることにも、彩音は気付いていた。
いや、彩音だけではない。
おそらく、調教師である置田たちも、気付いていたと思う。
それが、クレイジーボンバーを打倒する為には絶対必要な武器である事にも気付いていたと思う。
だから、あの日、あの時、戻って来た彩音を……誰一人として責めなかった。
それだけの相手なのだ。
それだけの力を振り絞らなければ勝てない相手……それが、『クレイジーボンバー』。厳選された血統と最新の技術とで生み出された、今世代最強の競走馬。
ホワに乗っている彩音自身、二度とお目に掛かれないかもしれないと思わせるボテンシャルを秘めている断言出来る馬なのだ。
だから、そんな怪物に勝つためには、出し惜しみなどしてはいられないと思った。
1人の騎手として、鞍上の許可を出してくださった遠藤さんの為にも、勝つために出来る事を全てやろう……そう思っていた。
……だからこそ、悔いてしまう。
それは、結局のところは己のエゴ。あるいは、ホワに関わる者たち全員のエゴの結果ではないか……そう、思ってしまう。
どれだけ言葉を並べようが、競走馬は経済動物である。勝つために大金を掛けて生み出し、勝つために厳しい訓練をさせる。
人間であれば、ほとんどの者が根を上げるような生活だ。
自由というものはなく、只々走る為だけの日常。老衰を迎えて最後を迎えられる馬など、毎年生み出される馬の数に比べたら、0.1%も居ないだろう。
そんな世界に、ホワは居る。
その気になればいつでも違う道に行ける自分たちとは違い、ホワにはそれがない。よほどの幸運に恵まれない限り、ホワには走る事でしか生きられる道が無い。
──ホワも、同じ気持ち?
そんな寝言、間違っても自分たちが口にして良いことではない。人間がそう思い込んでいるだけなのを、彩音たちは誰一人として否定出来ないのだから。
そうだ、何か一つでも違う選択を取っていたら……そして、誰よりもホワが諦めなかったからこそ、辿り着いた今ではある。
──けれども、それでも、だ。
足のギブスが取れ、一歩、また一歩、噛み締めるように始まったリハビリの中で、彩音は何時の頃か、とある疑念が脳裏を過るようになっていた。
──人の言葉など分からないホワにとって、本当に
ただ、キナコたちと一緒に居たかっただけ。レースに勝てばキナコたちが喜ぶだけで、本当はレースになど出たくないのでは……と。
(遠藤さんは、『ホワは全てを分かったうえで走ってくれている』って言っていたけど……でも……)
ホワが賢いのは知っている。けれども、己が女だからだろうか。
どうしても、もう走らなくて良いのではと心の端っこで考えてしまう。柊彩音という1人の女としては、もう十分過ぎるほどに頑張ったと……綱を引いてしまいたくなる。
でも、騎手としての柊彩音は、その逆だ。
騎手としての矜持があるから、乗るからには全力を出す。『天皇賞(春)』に出る為にも、勝ちに行かなければ……そう考えて、ホワの頭を押してしまいたくなる。
だから……ゲートが開いて、『阪神大賞典』がスタートした、その瞬間……彩音は、全てをホワに任せた。
どっち付かずの、最低な判断である。
過去の己が見たら、頬を叩かれた後にこれでもかと罵倒されるぐらいの、騎手失格の所業である。
でも、彩音には選べなかった。
脳裏を過るのは、日本ダービーの最後の直線。
激痛に嘶きつつも、己を落とさないように減速し、転倒だけはしなかった……ホワイトリベンジ。
──また、そうなってしまうのではないか。
──次にそうなったら、もう助からない。
──でも、ここで勝って次に繋げなければ。
──ホワが寿命を迎える為にも、勝たなければ。
そんな、相反する言葉が脳裏をグルングルンと回る中……ふと、彩音は……スルスルッと加速してハナへと来たホワに軽く目を見開いた。
掛かっている──いや、違う。
跨ったホワの背中より伝わってくる熱と鼓動に、異常は見られない。パドックに居た時には少しばかり緊張を感じ取れたが、レースが始まればもうそれは感じなくなった。
──ただ、走っているだけ。
──ただ、自由に駆け抜けているだけ。
たったそれだけなのに、ホワが先頭を走っている。あまりに速過ぎて、勝手に戦法が『逃げ』になっている。
これは、まるで……新馬戦のあの時のようだ。
そうだ、初めてホワとレースに出たあの時に感じた、力強さ。
どこまでも駆け抜けて行くような、そんな気持ちにさせてくれた、あの時と同じだ。
気付けば、彩音は先頭の景色の中に居た。後方より追いかけてくる
緩やかに下り続けるコーナーを通り過ぎ、観客席より向けられる歓声を背中に受けながら、数多の競走馬たちを苦しめる坂を軽やかに駆け昇る。
先頭の景色は、変わらない。風を切って突き進む葦毛の馬体が、何処までも先へと向かって行く。
そうして、最終コーナー手前。
何処かで垂れて落ちてゆくのを期待していた後続馬たちが、続々と速度を上げ始めてゆく。
これも、何時ぞやと同じだ。
逃げるホワの足が鈍るのを待っていたのに、いっこうに落ちないのを見て慌てて加速を始める……何時ぞやの時と、全く同じだ。
──ホワは、帰って来た。
徐々に近づいて来るゴールラインを前に、彩音の脳裏を過るのは……ダービーの、あの時。
──また、ホワを傷付けるのか。
あの時とは、違う。
馬の限界を超えた加速をしているわけではない。結果的に『逃げ』となったこの状態で、駄目押しに加速するだけのこと。
──次は、助からないかもしれない。
あの時とは、違うのに……それなのに、彩音は……持っている鞭を振るえなかった。
徐々に、近づいて来る蹄音。この様子だと、最後の辺りで差されるかもしれない。
それは、分かっている。騎手としては二流でも、それぐらいの予感は出来るし、予想も出来る。
──なのに、最後の一押しが出来ない。
アレは、誰の責任でもない。
それは、分かっている。
でも、己はまだ納得出来ていないのだ。
己が、もう少し冷静な判断が出来ていたら。
1着は逃しても、掲示板入りが出来たのではないか。
ホワに長い苦しみを与えることなく、レースを終える事が出来たのではないか。
そんな言葉が、グルグルと脳裏を過る。
──誰よりも、自分自身が己を責める。
今度こそ、取り返しのつかない怪我を負わせてしまうのではないか。
その鞭が、今度こそホワの命を奪う切っ掛けになってしまうのではないか。
そんな迷いが、彩音の中をグルグルと──は、回らなかった。
──ダイジョウブ、ダ!
何故なら、その瞬間……確かに、彩音は感じ取ったのだ。
(──え?)
それは、言葉ではない。ましてや、文字でもない。
ただ、ナニカが伝わってきた。
強くも激しく、けれども優しいナニカが、綱を通じて……そして、己の真下より伝わって来たのを、彩音は感じ取った。
──オレは、ダイジョウブ、ダ!
──オレは、マケナイ!
──オレは、カチツヅケル!
──オレは、ダイジョウブ、ダ!
それは、初めての経験であった。
けれども、不思議と彩音は落ち着いていた。
己の中に渦巻いていた様々な感情が、伝わってくるナニカと共に何処かへ流されて行くのを感じた。
──ダカラ、ムチをクレ!
──カツタメニ、ムチをクレ!
──オレは、ソノタメニ、ハシッテイルンダ!
「……分かったわ、ホワ。情けない相棒で、ごめんね」
じわり、と。
涙が滲んで、視界が少しばかり歪む。
けれども、心は自分でも信じられないぐらいに軽くなっていた。
まるで、翼が生えたかのように……どこまでも、飛んで行けそうなぐらいに。
……振り上げた鞭が、覚悟を固める。
今まで、数えきれないぐらいに鞭を振ってきた。
けれども、ここまで重く、ここまで熱く思えたのは初めてだ。
「──行こう、一緒に……みんなに、ホワの復活を見せ付けましょう!!」
その瞬間──下ろされた鞭がホワのトモを叩いて──直後、彩音とホワは風となった。
……
……。
…………それは、傍から見れば何とも不思議な光景であった。
親戚一同が集まった時ぐらいしか使われない、一般家庭では設置することすら不可能なサイズの特注テレビ。
それが、外へと向けられている。そう、設置された大型テレビが、何故か庭先へと向けられている。
庭先に、大勢集まっているのか……いや、そこには数えるぐらいしかいない。加えて、その中には……馬が居た。
名を、クレイジーボンバー。
既にGⅠを四つも得た世代最強とも目されている競走馬が、厩務員に綱を引かれた状態で悠然と立っていた。
クレイジーは、レースにおいては無類の負けず嫌いを発揮するが、普段はおとなしい従順な馬である。
懐いている厩務員には甘えるし、気分が乗らない時は好き嫌いもする。伊藤牧場においては、色々な意味でアイドルホースとして愛されている馬である。
その馬は……何の興味も無しに、真っ暗なテレビを眺めている。
通常、馬は臆病ではあるが好奇心は強い。周囲に顔馴染みの厩務員が居れば、好奇心が前に出てテレビに顔を近付けるモノだが……クレイジーの場合は、違った。
ただ、視界に入っただけ……そう言わんばかりに、興味なさそうにそっぽを向いている。
その姿に、比較的よくクレイジーと触れ合う機会の多い一部の厩務員は……どうしたものかと互いに顔を見合わせていた。
……クレイジーがこうなったのは、年が明けてしばらく経ってから。
何が決定打になったかは分からないが、1月のある時を境に……目に見えて『やる気』というものを感じ取れなくなったと厩務員が零すようになった。
見た目には、全く変化は無い。
食欲はあるし、体力維持のための調教にはしっかり従う。併せ馬をすれば競り勝とうとするし、反抗的になったわけでもない。
だが、分かるのだ。
特に近しい位置に居る厩務員たちには、クレイジーの変化に気付いていた。この変化はマズイと、誰もが考えていた。
でも、何も出来なかった。
あの手この手で『やる気』を引き出そうとしても、無駄に終わった。『この状態で下手にレースに出すのは危険だ』と判断されてしまったのは、2月末の事だ。
誰も彼もが危機感を抱いている。しかし、解決策を誰も出せないまま……気付けば3月末になろうとしていた。
「──将さん、準備出来ましたよ」
そんな中、この牧場の経営者の御子息であり、リーディングジョッキーでもある伊藤将が、汗だくで突撃して来たのは、今朝の事だ。
最初は、誰もが突然の訪問に面食らった。
将にとって実家ではあるが、現役騎手として忙しい彼は、そう何度も実家に帰って来られるほどに暇ではないからだ。
「あのデカいテレビを庭へ向けてくれ。もちろん、ブルーレイが映る状態で」
「え、あ、アレをですか?」
「ああ、そして、クレイジーを庭に連れて来てくれ」
しかし、そんな驚きも……血走った眼でそう言われてしまえば、ひとまずは指示に従うのだと動き……そうして、この状態になったわけである。
「あの、将さん、これはいったい……」
「クレイジーの心に火を点けるための、最強の着火剤さ」
「……はい?」
「みんな、危ないからクレイジーから離れていてくれ。大丈夫、クレイジーが怪我をするような事にはならないから」
「は、はあ、そう仰るのでしたら」
意味が分からずに首を傾げる厩務員たちは、とりあえずクレイジーから離れる。
一頭だけ、ポツンとその場に残されたクレイジーは、ここで初めて違和感に気付いて振り返り……将を、そして、その横で映し出された映像を見つめた。
……。
……。
…………馬の視力は、人間に比べたらあまり良くない。
というより、人間の視力があまりに良過ぎるだけなのだが、とにかく、視力で例えたら、だいたい0.6前後ぐらいだと言われている。
言うなれば、裸眼だと少々視界がぼやけて億劫になるぐらい……なので、馬は視界と同じレベルで、『音』と『臭い』を頼りにしている生き物でもある。
「──っ」
だが、この日、この時……厩務員の誰もが、それを見た。
『やる気』がなさそうに少しばかり垂れ下がっていた目が、大きく見開かれてゆくのを。
合わせて、大きく広がった鼻はフンフンと息を吹き始め、忙しなく動いていた耳は真正面へと向けられ、固定する。
……こ、これは、大丈夫なのか?
誰が言うでもなく、不安を覚えた厩務員たちは顔を見合わせ、次いで、将へと視線を向けた……そんな時であった。
──ヴゥイ、ヒッヒヒーン!
突然、そう、突然、クレイジーが嘶いた。
その力強さは、慣れている厩務員たちですら、思わず肩を跳ねさせてしまったぐらいだ。
しかも、クレイジーの異常はそこで止まらなかった。
まるで、体内で爆発が起こったかのように、ドッタンバッタンとその場で跳ね始めた。そのまま、我慢できないと言わんばかりにグルグルと旋回すら始めたのだ。
「ま、将さん、いいんですか!?」
これには堪らず、厩務員たちは悲鳴を上げた……が、それに対して将は、辛抱堪らないと言わんばかりに笑みを浮かべると。
「──クレイジー!!!」
その名を、叫んだ。
途端、我に返ったクレイジーはピタリと動きを止めた。思わず、周囲が面食らうほどに、静かになった。
けれども、内より湧き出る衝動を抑えきれないのか、身体を小刻みに揺らしていた。
……。
……。
…………誰しもが呆然とするしかない中で、将だけはのっしのっしとクレイジーへと歩み寄ると……綱を掴み、クレイジーの首に腕を回した。
「クレイジー、イジけている暇はないぞ。あちらさんは、春天への出走を決めた。いいか、もうそこまで猶予はない」
そのまま、フンフンと鼻息荒いクレイジーの首筋をポンポンと叩けば。
「雪辱を果たす時が来た。最強は、誰よりも速いのは、お前だ……クレイジーボンバー!」
──ヒヒン!
ひと際強く、クレイジーは……牧場全てへと響かせんばかりに嘶いたのであった。
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