第十三話: 駄目押しに脳を焼く葦毛がいるらしい……
──久しぶりに走るレースは、思いのほか気持ち良かった。
(……なんだろうな、身体が疼く)
そうして、時刻は夜。
トレセンへと戻って来た彼は……食事と水分補給を行い、一眠りした彼はふと、目が覚めた。
身体には、昼間の熱がまだ溜まっている。とはいえ、それは悪い意味ではない。
例えるなら、力いっぱい身体を動かした後……といった感じだろうか。
筋肉痛の予感を覚える。でも、嫌ではない。ギシギシと身体が軋むような感覚も、嫌ではない。
いや、むしろ、今だけは逆だ。
まるで、ヒビ割れつつもへばり付いたままだった表面の皮が剥がれようとしている……といった感じだろうか。
(……駄目だな、これでは眠れん)
よっこらせ、と。
ベッド代わりに使用している藁より身体を起こした彼は、チラリと部屋の外を見やる。
(俺と同じくチラホラ起きている馬はいるようだが、職員の姿は見えない……まあ、夜だし仕方ないか)
チラリ、と。
部屋から確認出来る外の明かりは真っ暗だ。そこから顔を出してみれば、やはり外は真っ暗だ。臭いも、昼間とは違うように思える。
……ここが牧場なら、職員にオネダリして散歩にでも連れて行って貰えるのだが……いや、違うな。
(散歩に連れて行ってくれるのは、何時もキナコさんだからな……キナコさんが特別俺に優しいだけで、普通はこんな時間に散歩なんて連れて行ってくれないか)
こういう時、馬の身体は不便だなと思う。
だって、人間の時のように暇を潰すことが出来ないからだ。
なにせ、彼が寝泊まりする部屋には暇を潰す道具が何一つ無い。寝転がっているには十分だが、散歩感覚で歩き回るには狭すぎる。
テレビだって無い。テレビが無ければ映画やら何やらも見られない。というか、他の馬たちが興奮してしまう危険性があるから、そもそも設置する発想がないのだろう。
これは、中身に人間がインストールされているからこその弊害である。
まあ、視力がそこまで良いわけじゃないから、実際に設置されても見えないだろう。馬の視力で満足出来るサイズとなると、一般家庭では使われないビッグサイズになってしまう。
さすがにもう馬の身体=己の身体になっているから違和感はないが……このギャップがもたらす些細な不満だけは、どうにも完全には解消できないようだ。
(プールでも連れて行ってくれたらなあ……ゆっくり歩く分には問題ないし、スジを伸ばす感覚は気持ちが良いし、それが出来たらよく眠れそうなんだけど)
──まあ、無いモノ強請りをしてもしょうがない。
一つ、ブフフンと鼻息を吹いた彼は、とりあえず、身体の火照りがある程度取れるまで部屋の中をグルグルと回る事にする。
どうせ、する事はない。騒げば監視カメラを見ている職員がすっ飛んでくるだろうが、それはいくらなんでも可哀想だ。
だって……夜勤の辛さを彼は知っているし。
ただ見回りする為の夜勤ならまだしも、生き物を取り扱う類で呼び出されたら、そりゃあもう心労が溜まるなんて話じゃない。
それに、職員が見ているのは自分だけではない。
この場所に居る他の馬たち全員を見ているのだ。
自分が育てられた時だって、そりゃあもう皆が総出で動いていた。少なくとも、その記憶があるうちは……おとなしくしていようと彼は思った。
……だから、一歩踏み込むたびに、意識してゆっくりと行う。
部屋が狭いから、下手に力を入れるとあっという間に壁に身体をぶつけてしまう。なので、必然的にゆっくりとしか出来ない。
でも、感覚的な話だが、それが良かったのかもしれない。
噛み締めるように行うその一歩は、言うなれば深呼吸みたいなものなのだろう。
鼻から吸った酸素が、一歩踏み込むたびにギュンと全身へと浸み込んでいくような感覚を覚える。
なんともまあ、今更ながらに不思議な感覚だと彼は思った。
足を骨折した時にも実感したが、馬にとって足は第二の心臓にも等しい。こうして、再び自由に走れるようになったから、余計にソレを強く実感出来る。
これは、実際に馬になってみないと分からない感覚だろう。
一歩足を踏み込むたびに、ポンプのように熱が足先を通って胴体へと戻ってくる。それを、ゆっくり、ゆっくり……そうしていると、だ。
(……? プールの時にやるストレッチとはちょっと感覚が違うが……なんだろうな、こもっていた身体の熱気がスーッと晴れていくような感覚が気持ちいいな)
どう、言葉に言い表せば良いのか分からないが、これは怪我の功名というやつなのだろうか……まあ、なんでもいい。
人間の身体だって、そうだ。
身動き出来ないぐらいの痛みが走るならともかく、動けるぐらいの筋肉痛なら、むしろ積極的にストレッチをして溜まった乳酸を血中内に押し出した方が良い。
確かに、使わなければ回復は早まる。しかし、使わないとその分だけ衰えてしまうし、使わなさ過ぎるのは逆効果になってしまう。
むしろ、痛みは有っても身体を動かして血流を促し、豊富な栄養を全身に巡らせ、体内に溜まっている疲労物質を吐き出させた方が結果的には早く回復するのだ。
(う~ん……でも、こうしているとお腹が空いてくるんだよなあ……まあ、朝になったら大目に食えばいいか)
……馬の身体は人間とは違う。だから、他の馬がコレを実践して回復するとは限らない。
しかし、彼だけは違う。
人の魂がインストールされた彼は、聞きかじりではあっても知識としてソレを理解しているし、その重要性も知っている。
一般的な馬ならば苛立ってしまうような事でも、彼は必要性を理解して耐え忍ぶことが出来る。
馬からすれば意味不明で理解不能の事でも、彼だけは、未来のために黙々と繰り返すことが出来る。
(……次のレースは『てんのうしょう』とかいうやつか。よく知らないが、天皇と同じ名が付いているんだ……相当に格の高いレースになるだろう)
それが、彼の強み。
(勝つぞ、次も……みんなのために、俺はもう負けねえからな)
他の馬たちには……クレイジーボンバーですら真似できない、彼の強みであった。
……。
……。
…………さて、それからは……何時も通りといえば何時も通りであった。
まあ、考えてみなくとも当たり前である。
滝に打たれて精神修行とか、山に籠って奥義習得とか、奥歯のスイッチを押して加速なんてのは漫画の世界。現実でやれるのは、何処までも地味な反復練習である。
そして、それは馬の世界でも同じこと。
たくさん飯を食って、たくさん走って、たくさん寝て、体力と筋肉を付けるしかない。走り方の改善など色々とやる事はあるが、それもフィジカルがあってのこと。
それを、これまでの経験から学んでいた彼は……とにかく『そのうちやってくる次のレース』に備えた。
『うん! 良い調子だよ、ホワ!』
加えて、その準備期間の最中、彼のモチベーションを保たせてくれた彩音の影響は非常に大きいと言っても過言ではない。
事情が有って来るのが遅い時は別の人が乗るけれども、やはり彩音の方が一番波長が合うというか、しっくり来る。
それに、彩音は他の人に比べて、よく褒めてくれる。本当に、些細な事でも『頑張っているね、その調子!』と声を掛けてくれる。
これがまあ、現金な話ではあるが、彼としては非常に嬉しい。
人間(今は馬だけど)は、美人に褒めてもらえてやる気になる生き物なのだ。特に、打算抜きで美女から褒められて嬉しくならないわけがない。
そのおかげで、彼は繰り返される厳しくも熱のこもったトレーニングをこなしながら……無事に、レースの日を迎えた。
……で、車に乗せられて競馬場へと連れて来られた彼だが……そこで、彼は二つのことで面食らった。
(……アレ、クレイジーボンバーだよな? なんでずーっとこっちを睨みつけてくるんだろ)
まず、一つ目は……自分より5頭分先を歩いている、糞強過ぎて出来る事なら戦いたくない馬の存在である。
(……俺、何かしたっけ?)
内心、彼は首を傾げた。
思い返せば、最後に日本ダービーにて戦ったきりだが……しばし思い返そうと頑張ったが、それっぽいモノを何一つ思い出せなかったので、諦めた。
──というか、コイツ出て来るのかよ。
思わず、彼はブフフンと鼻息を吹いた。正直、コイツが出て来るだけで勝利から遠ざかるのだが……まあ、これも競馬だ。
向こうだって、出来る限り賞金の高いレースに出したいはずだ。だから、今回のようにブッキングするのは致し方ない。
(……やっぱり、見間違いじゃないよな)
で、話を強敵から会場へと向ける。
(アレ、俺の名前? あの旗、あの幕も、もしかしなくても俺の名前が入っていないか?)
それは、何時ものように来てくれた観客たちにお披露目する、グルグル会場(彼・命名)でのこと。
何時ものようにカメラが向けられるのを見つけては、キリッとすまし顔で応対している最中……目に、入って来たのだ。
『復活! 葦毛の復讐者!』
その文字が入った応援旗と応援幕と……それを持つ者たちの歓声が。
正直、めちゃんこビックリした。
だって、旗や幕を持って広げている人たちの中には、若い女性もいるのだ。これが、彼にとっては青天の霹靂ぐらいに驚くべき事であった。
だって、競馬だし。
彼のイメージする競馬は、言ってしまえば鉄火場(てっかば:賭場の別称)である。実際、彼が初めてレースに出た時も、客のほとんどは男であった。
それが、どうだ。
視力が悪いので顔までは分からないが、ぼやけた輪郭や声でも十分に分かる。だからこそ、彼は驚いている。
わざわざ、旗と幕まで用意してきた……少なくとも、若い女性がそんなモノを用意して競馬場に来るだなんて、前世にも聞いた記憶が無かった。
金が掛かっているから、熱が入るのは分かる。だって、ギャンブルだから。
生産者であるキナコ達がそうなるのは分かる。だって、彼が勝利をすればするだけ、キナコ達の生活が良くなるから。
でも、旗や幕を持っているやつらは違う。
ギャンブルに対する熱の掛け方とは、明らかに違う。
なにせ、競馬場というのは都心から離れている。ただ来るだけでも、けっこう金が掛かるわけである。
それなのに、これではまるで……アイドルを見ているかのような熱の入りようだ。
というか、ような、ではない。完全に、アイドルへ向ける視線だ。その、これまでとは違う視線に、思わず彼はカッポカッポと距離を空けた。
『ホワ、大丈夫だ。アレはおまえが大好きで来てくれた、おまえのファンだ』
黙って通り過ぎれば良いのか、何かしらのサービスをしてやればよいのか。
いまいち判断に迷っていると、綱を引いている置田よりそのように声を掛けられ、首筋を撫でられた。
(……え、マジ?)
思わず、足を止めかけた。実際に止めると怒られるので、ギリギリのところで止まりはしなかったが……とにかく、それぐらい驚いた。
いや、まあ、今までもレースを走る前に、ファンっぽい人たちがカメラを向けてくれることはあった。
(う~ん……彩音さんじゃなくて、俺にファンが出来る日が来るとは……)
だが、ここまで熱烈なされる日が来るとは……夢にも思っていなかった。
嬉しいような、恥ずかしいような、なんとも言い表しようがない感覚にドキドキしていると。
──とま~れ~~!!!
号令が掛かった。
指示に従うがままに足を止めれば、少しばかり遅れて騎手たちが一斉に駆け寄って来る。
その中に、彩音の姿を見付けた彼はそちらに目を向ける。『お待たせ、ホワ』ニッコリと笑みを浮かべた彩音は、置田の手を借りてフワリと彼の背に跨った。
『……ホワ、何かあった?』
直後、首を傾げた彩音より声を掛けられた。
いや、何かってそれは……ねえ。
『こいつ、応援されて喜んでいるんだよ。柊の言う通り、周りが喜んでくれているって思っているのかもな』
『あはは、そうですか。うん、大丈夫、何時も通り走れば良いだけだからね』
ポンポン、と首筋を叩かれた彼は、そういうものかなと、そっと身体から力を抜いた……っと。
『そういえば、遠藤さんはもう馬主席に向かったんですか? パドックを一目覗いてから向かうと仰っていましたけど……』
──なぬ!? 遠藤さんが来ているのか!?
聞き捨てならない単語に、彼はピクッと耳を立てた。
彼は、しっかり恩を覚えている。遠藤さんというあの老人が金を出してくれなければ、己は殺処分されていたことに。
だから、彼にとってはキナコさんの次に頭が上がらない相手である。
予定が合わない時を除けば、レース前に顔を見せに来ていたが……年齢が年齢なので、今日はもう来ないのだと思っていたところだ。
『この人だかりだからな。下手にパドックに来ると、自分の足では馬主席に戻るまで大変だから、初めからそっちから見るってよ』
『まあ、それは……でも、今回は客入りが凄いらしいですから、仕方ないですね』
『しかし、どうして今日はこんなに多いんだろうな。春天だから人が来るのは分かっていたけど、前に来た時よりもずっと多いぞ』
『あら、知らないんですか?』
『なにが?』
『2ヶ月ぐらい前から、ホワをモデルにドラマが放映されているんですよ』
『え、マジで!?』
──え、マジで!?
奇しくも、置田と彼の内心が一致した。
『マジですよ。おかげで、競馬場に来る若者が増えているらしくて……さっきの子たちみたいなのは、元々馬が好きな子たちだと思いますけど』
『へー……時代は変わるものだな』
──本当、俺もそう思います。
思わず、彼は置田のため息と共に零した言葉に賛同した。
いや、まあ、驚くなというのが無理な話ではあるが……とまあ、そんな事を考えている間に、彩音を乗せた彼はコースへと足を踏み入れていた。
……天気は晴れ、心地良い風が吹いている。
見やれば、観客席にはこれでもかと人が押し掛けて居るのが馬の目でも分かる。蠢いているように見えているうえに、距離があるから旗や幕も見えなくなったが……と。
『よお、久しぶりだな』
──うわ、出た。
いつの間にか近くまで寄って来ていた伊藤将騎手の姿に、彼は
思わず内心にて苦々しく吐き捨てた。
何故かと言えば、将騎手が来るということは、だ。
必然的に、クレイジーボンバーも近づいて来るからだ。
そして、フンフンと鼻息荒く顔を近付いて来て、彼はどうしたらよいか分からなかった。
彼としては、強敵以外の何物でもないのだが……どうやら、クレイジーボンバーにとってはそれだけではないようだ。
(馬の身になったのに、未だに馬の言葉はサッパリ分からんからな……まあ、嫌われているようには見えないから、そこらへんは安心……か?)
とりあえず、どうしたら良いのか困っていると。
『ほら、クレイジー、決着はレースで決めるぞ』
将騎手はそう言ってクレイジーボンバーを離した。
クレイジーボンバーも分かっているのか、名残惜しそうにしつつも緩やかにこの場離れて行った。
……。
……。
…………あ、そうだ。
ひとまず、安堵のため息を内心にて零した彼は、『クレイジー……よっぽどホワをライバル視しているのかな?』と首を傾げている彩音を他所に、キョロキョロと観客席を見回す。
『……もしかして、遠藤さんを探しているの? 分かるかな、ほら、あそこだよ』
ソレを見て、察してくれた彩音が彼の目線に合わせて腕を軽く伸ばし、観客席の上の方を指差す。
(──み、見えねえ! さっぱり分からん!)
その指先が指し示す先にいるのだろうが、あいにく、馬の目ではモノクロっぽい感じがワサワサとぼやけていて、さっぱり分からない。
せめて、近づいて確認が出来れば良いのだが……これからレースが始まるし、途中には柵があるから渡る事が出来ない。
『う~ん、たぶん、こっちを見ていると思うけど……距離があるから、もしかしたら向こうも探しているかも……?』
遠藤さん自身が高齢だし、実際に馬主席に行った事はないからどう見えるのかは……そうポツリと零した彩音に、彼もう~んと頭を悩ませ……そこで、だ。
──そうだ、目立つ事して場所を教えたらいいじゃん。
ふと、思いついた彼は嘶いて教えようと──考えて、止めた。
何故かといえば、理由は単純。これからレースが始まるというのに、嘶いて周りの馬たちを驚かしてしまえば、最悪失格になるかも……と、思ったからだ。
実際、それで失格になる事は早々ないのだが、可能性としては0を否定出来ない以上は、彼の直感は中々に正解を掴み取っていた。
……で、だ。
近づくのも駄目、嘶いて知らせるのも駄目。かといって、一頭だけポツンと離れて移動すると、彩音が心配してしまうから駄目。
──それなら……少しの間だけ、他とは違った動きをすれば目立つのではないだろうか。
(よし、それじゃあ何か月にも及ぶストレッチの成果を見よ! ほれほれ、スキップが出来るようになったんだぜ)
そう、考えた彼は……その場で軽くスキップをした。
『え、ちょ、ちょっと!?』
──あ、ごめん。でも、これで俺が何処にいるか分かっただろう。
足を止める。時間にして、十秒もない。けれども、スキップをする馬なんて、目立つに決まっている。
(よし、後は走って勝つだけだ……クレイジーだろうが何だろうが、勝つのは俺だ!)
気持ちを新たに、意気揚々と──。
『テイオー、ステップ……!』
ヒヒン?
『……行くよ、ホワ! 勝つのは私たちだよ!』
ヒヒン!
──ゲートへと向かうのであった。
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