第十話: 瞳の中のライバル
季節は巡り、タチバナ・ファームにも雪が降るようになっていた。
立地的に、タチバナ・ファームがある一帯に降る雪の量は少ない。酷い時には1m越えの積雪を記録するが、その年の積雪は比較的少なめであった。
とはいえ、雪は雪だ。
その半分の高さだとしても、中々に面倒が生じる。飼育している家畜なども、基本的に寒さにも強いとはいえ限度がある。
必然的に、気晴らしと空気の入れ替えを兼ねて決められた時間に出入り口を開放するが、そのほとんどは外に出ようとはしなかった。
というか、あくまでも強いだけであって、寒さの中を好んでいるわけではない。初めから低温の中で生きる為の身体をしているならともかく、基本的には温かい場所を好む。
狭い空間を嫌って外へ行こうとするモノがちらほら居たが、雪の冷たさにすぐに引っ込んでしまうモノは多かった。
そんな中……馬である彼は、降り積もった雪もなんのそのと言わんばかりに綱を引かれ、外へと出されていた。
折れた足をぐるっと固定されていたギブスは、もう無い。
つい先日、獣医より許可が下りて外されたのだ。その時の開放感と来たら、とてもではないが言葉で言い表せるモノではない。
キナコさんより──
『ホワ、絶対に走っちゃ駄目だよ、本当に駄目だからね!』
──と、涙目&必死の形相で抱き着かれていなかったら、思わずはしゃいで駆け回ってしまうところだった……と、言えば、いくらか想像も出来るだろう。
まあ、さすがに面食らって我に返れば、もう問題はない。
開放感がもたらした一瞬の高揚感も過ぎ去れば、後に残るのは……人としての意識がもたらしてくれる、冷静な判断である。
(……人間だった時もギブス外してすぐに走り回ることなんてことをするなって言われたしなあ。普通に考えたら、使っていない足腰の部分も衰えているはずだし……焦りは禁物だな)
たぶん、他の馬とかはこういう時でも怪我をしちゃうんだろうな……と。
彼は、ギブスが取れた日の事を思い浮かべながら、キナコに綱を引かれるがまま敷地内をゆっくり歩く。
その速度は、馬の身では欠伸が出てしまうぐらいにゆっくりに思える。正直、自分のペースで歩いたほうがずっと気楽ではある。
けれども、今はまだ我慢だ。そう、彼は内心にて、己へ何度も言い聞かせる。
(違和感……って言えば良いのか分からんけど、確かに前よりも固くなったような気がするな……)
理由は、キナコさんたちからの注意だけではなく……ギブスが解放されてから薄らと感じ取れる、末端の感覚の違いである。
言うなれば、凝り固まった筋肉や関節……といった感じだろうか。
痛みは無いが、歩く度に、固まった部分がギチギチと軋むような感覚がする。まるで、筋肉のスジがボンドか何かで固定されてしまっているかのようだ。
原因は……考えるまでもないだろう。
骨折の治療の為に固定していたからで、ギブスが外れるまでは体重すら極力掛けなかったのだ。凝り固まる程度で済んで良かった……そう考えるべきところである。
(……そりゃあ、走るなって厳命されるか)
冷静になった今だからこそ分かるが、この足の状態で走りまわるのは非常にマズイ。
なにせ、歩く分には僅かばかり違和感を覚えるだけで痛みが全く無い。こんなの、ギブスが外れた当時のテンションで気付けというのが無茶な話だ。
さすがに骨折を再発するようなことはないだろうが、凝り固まった関節やスジをいきなり酷使するのだ。何かしらの異常が後で現れても、なんら不思議な話ではない。
(ゆっくり、ゆっくりだ……まずは、錆びついた身体に油を差していく……そんな感じだ)
溶けて固まった氷雪ならともかく、一度も解けないままの雪は見た目以上にフカフカとしている。
雪の感触はまあ冷たいかなと首を傾げる程度だが、そんな事よりも、このフカフカさは色々な意味でちょうど良い。
柔らかすぎず、固すぎず。
芝の上も柔らかいが、降り積もった新雪は、少しばかり力を入れてもギュッと体重を受け止めてくれる。
ここをレースと同じように走るとなれば相当に勇気と覚悟を持たなければならないが、歩く分には平地よりずっと楽だ。
むしろ、自分の事よりも、頬を赤く染めながら綱を引くキナコの方がよほど心配で、無理をするなと彼は思わずにはいられなかった。
『あ、ホワ、あそこの雪の塊に野菜が埋めてあるけど、掘り出して食べちゃ駄目だからね』
いや、思ったよりも元気そうだ。
ヒヒン、と返事をした彼は、改めて、意識を自分の身体へと向ける。
……構造に違いがあろうとも、原理は同じだ。
身体の硬さは、そのまま故障リスクへと繋がる。次の負傷を避ける為には、避けては通れない道。
硬くなってしまったスジの柔軟性を取り戻すには、時間をかけて少しずつ解し、身体に慣らしてゆくしかない。
だからこそ、焦りを覚えていても、今は耐えて、ゆっくり解し、鈍った身体を元に戻すのが先決だと……彼は、何度も己に言い聞かせた。
そう、問題なのはなにも、折れた足の部分だけではない。
治療が終わる先日まで、ロクに身体を動かしていない。そのうえ、動かない事を前提に食事の内容も変わっていた。
その結果、彼は……骨折する前に比べて、己の体力が衰えているのをハッキリと自覚していた。
筋力は……実際に走ってみないと分からないが、けれども、体力は分かる。
前は、身体の奥底から噴き出していた体力の飛沫が、今は無い。身体を治す為に使ってしまったのか、底が見え隠れしている。
(やる事は、前と同じだ。よく食べて、しっかり身体を動かして、よく寝る。今の俺に出来るのは、これだけだ)
しかし、それだけでは駄目だ……彼は、内心の奥底にて静かに息を吐く。
クレイジーボンバーのような馬が出て来たら、間違いなく負ける。アレは、生半可な状態で挑んで勝てる相手じゃない。
ダービーの時のように、持てる力の全てを振り絞ってようやく勝てる相手だ……が、しかし、だ。
その度に、今回のように大怪我をしていたら話にならない。
今回はキナコさんたちが毎日交代して朝も夜も頑張ってくれたからこそ、ここまで回復できたが……毎回同じようになっていたら、キナコさんたちが倒れてしまう。
いや、それどころか、次も復帰できるかどうかすら、分からない。
今回は、運が良かっただけで、次は無い。
そう、思っておいた方が良いだろう。少なくとも、それぐらいの気持ちで己を戒めるぐらいでないと、また怪我をしてしまう。
(……とはいえ、どうしたものか。俺が出るレースにアイツが出て来ないのが一番なんだが、おそらくぶつかるよな)
……で、だ。
キナコの後ろを歩きながら、彼は……今後のレースで勝利を得る為に何をすれば良いのかと、思考を巡らせる。
(アイツに勝つ為には、『例の走り方』無しでは無理だ……が、アレは負担が大き過ぎて短い時間しか使えないし、それ以外にも武器がいる)
(しかし、馬にとって速度の出る走り方ってどうやれば……う~ん、人間だった時のように要所でちょこっと変えてみる……とか?)
それは……ある意味、人間の魂を持つ彼だからこそ出来る、『こうすれば良いのでは?』という、仮説を立てるという行為であり。
(コーナーとかは遠心力が働くから、意識して足を小刻みにして外へ膨らんでしまうのを抑える)
(逆に、直線コースになったら歩調を戻して息を入れるようにして……ん~、やれるか、コレ?)
(でも、上手く使いこなせたら、あの走り方を使わなくとも余裕を持てるようになるかもしれないし……)
(考えてみたら、坂道とかは人間だった時も大股で昇るようなことはしなかったし……馬だって、同じなのかもしれない)
──とりあえず、もうしばらく身体が元に戻ったら試してみるか。
そう、結論を出した彼は、そのまま一旦思考を切り上げ、鈍った身体のリハビリへと意識を向けるのであった。
……。
……。
…………彼は、気付いていなかった。
それこそが……クレイジーボンバー、いや、普通の馬にはない、彼だけが持ち得ている最強の武器でもある事に。
自ら反省し、レースに勝とうと試行錯誤し、それで得た事をそのまま次へと活かす。
その、絶対的なアドバンテージの本当の強さに、彼はほとんど気付いていなかった。
……。
……。
…………まあ、落ち着いて考えれば気が付きそうな事ではあるけれども。
『クレイジーは、ジャパンカップも出て有馬にまで出るってマジか?』
『おお、マジらしいぞ。この時代に、菊花賞・ジャパン・有馬のローテを見るとは思わなかったな』
『まあ、勢いは確かにあるけど……向こうの運営はどんな考えで動いているかは分からんな』
『あ~、たしかレコード勝ちでしたっけ?』
『有馬出走は確定らしいし、さすがに休ませるべきだと思うが……下手するとクレイジーが潰れないか?』
『菊花賞から有馬ってのはよく聞くけど、合間にジャパン入れて勝っている馬っていたか?』
『いや、あまり聞いた覚えは……よっぽど頑丈な馬じゃないと無理とは思うな』
『頑丈ではあっても、3000m走った後に2400mはかなりキツいローテな気はするけど』
『それでも、今年のグランプリホースはクレイジーで確定っぽいし、伊藤牧場としては勝てると思ったんだろ』
『しかし、すげーよな……クレイジーが他のやつらを押し退けて圧倒的に1位だぞ』
『そりゃあ、菊花賞でレコード勝ちだからな……あれだけ鮮やかに強さを見せ付けられたら人気にもなるわな』
『雑誌のコラムでも凄いよな、クレイジー快進撃を阻むモノ無しって感じでどこもかしこもクレイジーって』
『そりゃあ、皇帝の再来って呼ばれているぐらいだからな』
……。
……。
…………まあ、そんな感じで。
(クレイジー……やっぱりアイツ、滅茶苦茶強かったんだな。有馬記念に出て来るぐらいだから、そりゃあそうなんだろうけど)
チラホラと、職員たちの雑談に混じる単語によって気が散ってしまい、彼がその事に気付くことはなかった。
……。
……。
…………。
……。
……。
【行く年】第○○回有馬記念【来る年】
1 競馬一筋12ハロン
これはもうクレイジー勝利で確定だよな
2 競馬一筋12ハロン
>>1乙
3 競馬一筋12ハロン
>>1乙じゃなくてこれはポニーテールうんたらかんたら
4 競馬一筋12ハロン
>>1乙(AA略
5 競馬一筋12ハロン
>>1盛大なネタバレは止めろ
6 競馬一筋12ハロン
クレイジー勝ってほしい気持ちあるけど、運営は何を考えておるんやろうな
菊花賞でレコード勝ち
ジャパンカップでレコード勝ち
その次は有馬記念とか、率直に言って馬を潰すつもりかいな?
7 競馬一筋12ハロン
天皇賞からジャパンカップとかはまあ見掛けるけど、菊花賞からジャパン → 有馬ってのはあんまり見ないな
やっぱり、馬の体調的にキツイのか?
8 競馬一筋12ハロン
>>7
まあ、昔に比べて合間が伸ばされてはいるけど、月一レースは色々と考えないと駄目だろ
特に、GⅠレースともなれば二ヶ月は休みを与えた方が良い。ていうか、そう考えている馬主が多いから、だいたい菊花賞 → 有馬のコース選ばれている
古馬だって、だいたい天皇賞(秋)→有馬のコース選ぶしな
9 競馬一筋12ハロン
よっぽど思い入れがあるならともかく、菊花→JC→有馬のローテは馬への負担がデカいからな
確実に勝利を狙うなら、間のジャパンカップを捨てるから、初めから有馬は狙わないかのどちらかじゃないの?
10 競馬一筋12ハロン
え、エリザベス女王杯(震え声)
11 競馬一筋12ハロン
>>10
エリザベスとかお前、中々強気のローテやないけ
よっぽど自信と能力が無ければ狙わんぞ
12 競馬一筋12ハロン
牝馬で有馬狙う時点で相当強気
というか、それで勝ち負け狙える時点で女傑過ぎてやべーよ
13 競馬一筋12ハロン
たまにやべー牝馬が出てくるけど、やっぱり総合的に見たら牡馬の方が強いの多いしな
エリザベス勝てている時点で種付けの依頼来るだろうし、後は年内休ませて年明けの愛知杯とか日経新春杯とか行けばいいんじゃね(素人考え)
14 競馬一筋12ハロン
実際、クレイジーが有馬で勝てると思う?
いや、俺もクレイジーにぶっこむつもりだけど……どう思う?
15 競馬一筋12ハロン
勢いは間違いなくクレイジーに流れている
でも、そんなのは俺たちがそう感じているだけで、現実がそうなる保証は何も無い
16 競馬一筋12ハロン
とはいえ、菊花賞レコード勝ち&JCレコード勝ちってのはマジで勢いヤバいからな……
SNSとかだと、有馬もレコード勝ちするんじゃないかってめっちゃ話題に出ているから、個人的には有り
17 競馬一筋12ハロン
そのヤバいクレイジーをぶっちぎったホワイトリベンジ……
18 競馬一筋12ハロン
>>17その話はヤメロ!(建前) ヤメテ(本音)
19 競馬一筋12ハロン
ダービーは……マジで悲鳴が上がりましたね
20 競馬一筋12ハロン
映像見返したけど、あの加速はえげつない
理想的な競馬をしてアレだけ距離を稼いだのに、あっという間に差されそうになったってのが……
21 競馬一筋12ハロン
ワイ、当時現地におったけど、マジでワイを含めて回り全員が『あっ!!』って声を出してからずっと無言だったやで
22 競馬一筋12ハロン
勝負は時の運、結果が全てや
クレイジーの強さは菊花賞とJCで見せ付けられたから、今更ダービー馬の称号に文句を付けるやつはおらんやろ
23 競馬一筋12ハロン
>>22
文句言っているやつは始めから伊藤牧場アンチなだけや
対抗馬がホワイトリベンジ一頭なだけであって、クレイジーの能力を疑っているやつはアンチ意外におらんぞ
24 競馬一筋12ハロン
しかし、どうして伊藤牧場は菊花→JC→有馬のローテにしたんやろ?
この能力なら5歳になってもやれそうやし、もっと大事にせんと4歳半ばでラストランとか普通に有り得てしまうぞ
25 競馬一筋12ハロン
う~ん、ホワイトリベンジのところは限界ヲタクの女性従業員(意味深)がけっこうな頻度でお知らせという形で報告してくれるから分かり易かったけど、伊藤牧場はなあ……
26 競馬一筋12ハロン
いや、普通はそんないちいち報告なんてしないから(苦笑)
27 競馬一筋12ハロン
アレは限界ヲタクであるキナコちゃんと、そこらへん全然気にしない馬主と、カメラ向けるとキリッとすまし顔するホワが悪いだけだから……
28 競馬一筋12ハロン
ほぼ全員悪いやんけ!
29 競馬一筋12ハロン
常識的に考えたら、自分の馬の調子をわざわざ公表するやつおるんか?
30 競馬一筋12ハロン
スタッフが写真とか映像とかSNSに貼り付ける事はあるけど、レース前の気が貼っている時期にやるやつはおらん
だいたい、そういうのは引退した馬の場合がほとんど、現役の競走馬でそれやるやつは……うん、まあ、タチバナ・ファームがおかしいだけやね
31 競馬一筋12ハロン
まあ、クレイジーの陣営もそこらへん百も承知だろうから、細心の注意を払っているやろ
もしくは、レースに出さないとアカン理由でもあるんちゃう?
32 競馬一筋12ハロン
レースに出さないと駄目な理由……ポンポコの呪い?
33 競馬一筋12ハロン
ポンポコプリンセスの話はヤメロwwww
34 競馬一筋12ハロン
プリンセス、写真判定の横並び状態だったとはいえ、ちゃっかり菊花賞3位に収まっているのマジで化け物やろコイツ……
35 競馬一筋12ハロン
牡馬相手に3000m3位とか、ステイヤーの馬を狙うなら是が非でも欲しがられる馬やろ
ただし、ポンポコの呪いには目を瞑る必要があるけど
36 競馬一筋12ハロン
>>35
デメリットがキツ過ぎるっぴ!!
37 競馬一筋12ハロン
ギャンブルしている最中にさらにギャンブルを勧めるのはNG
38 競馬一筋12ハロン
ダービーを狙える素質が引き継がれる可能性はあるけど、男好きという最悪のデメリットも引き継がれる可能性あるんだよなあ……
39 競馬一筋12ハロン
視点を変えよう!
1位は取れないけど、掲示板入りは常に狙える馬だってことを!
40 競馬一筋12ハロン
プリンセスの新馬戦を勝たせた騎手さん、疲労困憊でフラフラな映像を見る度にフフッと笑えてくるの卑怯
……。
……。
…………。
……。
……。
……その日の夜、とある料亭の一室は、チラホラと振り続ける雪を溶かしてしまうぐらいの熱気が満ちていた。
とはいえ、そこには喧騒といった緊張感は無い。
あるのは、陽気さだけ。
その証拠に、畳張りの品のある掛け軸やら何やらでインテリアされたその部屋からは笑い声が絶えず聞こえており、傍目にも宴会なのが分かるぐらいであった。
……そう、その部屋(+両隣の部屋)は今日、宴会場として使用されている。
とある団体が貸し切っており、幾つものテーブルが並べられたそこには、正月が来たのかと思ってしまうぐらいの御馳走が所狭しと並んでいた。
いったい、何が有ったのか。
その答えは、集まった者たちの顔ぶれ……よりも雄弁に物語る、部屋の出入り口に設置された立札に記された。
『──祝!! 有馬記念大勝利!!! ──』
その、言葉が……内情の全てを教えてくれていた。
事情を知らない者からすれば、なんじゃそりゃあといった感じだが、事情を知る者からすれば、そりゃあ宴会の一つも開くよなと納得する言葉であった。
と、言うのも……だ。
有馬記念と呼ばれているレース……競馬のGⅠレースなのだが、なんといっても賞金の桁が違う。
1着、4億円。それが、現在の有馬記念の一着賞金である。
もちろん、全額が入ってくるわけではないが、億単位の賞金を得られるのだから、喜んで当たり前である。
加えて、今年の有馬記念に勝利した馬……それは、世界中において一頭しかいない。
名を、『クレイジーボンバー』。
菊花賞、ジャパンカップ、有馬記念、この三つのGⅠレースを制した、今年度の最強馬として目されている馬である。
そう、つまり、この部屋を貸し切った団体とは伊藤牧場であり、クレイジーボンバーの勝利によって得た賞金額が。
有馬記念──4億円。
ジャパンカップ──3億円。
菊花賞──1億2000万円。
合計、約8億2000万円となり……そこから税金で引かれる分を差し引いても、喜ぶのは当たり前であった。
「──あれ、将くん、何処へ行くんだい?」
「すいません、ちょっと昔の友人から電話が……たぶん、有馬記念勝ったことへの恨み辛みかと思います」
「あ~、それって……」
「違います、彼女じゃないですってば。こいつ、何時も大穴狙って素寒貧になるから、今回も俺への文句でしょう」
「ふ~ん、それなら無視しちゃえばいいんじゃないの?」
「あははは、それが、コイツけっこう良いやつでして。ちょっと駄弁って来ますんで、みんなで楽しんでいてください」
「おう、そうか。それじゃあ、車を使え。そこなら静かだし、邪魔も入らんだろ……でも、早く戻らんとカニやフグも無くなるからな」
「はは、気を使ってありがとうございます」
そして、そんな最中……この場においてはクレイジーに続く、この三つの勝利を導いた立役者である伊藤将は……そう言い残して、スルリと部屋を出る。
「…………」
その顔を、仮に室内の誰かが目にしていたなら、さぞ驚いただろう。
今しがたまで朗らかに浮かべていた笑みが、そこにはない。温かみなど一つも無い無表情が、そこにあるだけであった。
そんな……異様な雰囲気を放つ伊藤将……将は、足早に廊下を進む。
そのまま、偶々鉢合わせた料亭の従業員に軽く挨拶をしてから、外に出て……自販機より缶コーヒーを一つ買う。
そうして、駐車場に止めてある車へと乗り込んだ将は、一つ息を吐くと……おもむろに、スマホをタップした。
『……将だな? それでは、説明してもらおうか』
長いコール音の後に応答してくれた電話の相手は……伊藤牧場のトップであり、将の父親である。
将の父は、此度の宴会に参加していない。
いや、正確には最初に軽く挨拶をした後、馬主関係の集まりに向かったので、この場にはいないのだ。
……で、将は事前に電話する事を伝えていた。
有馬記念が無事に終わった後、宴会の合間に抜け出して必ず電話をする、と。時間は取らせないから、諸々の説明を真っ先にする……と、告げていた。
その内容は、『クレイジーボンバーについて』。より正確には、此度のローテに関してだ。
そう、此度のクレイジーボンバーの菊花賞→ジャパンカップ→有馬記念のローテーションを提言して押し切ったのは、他でもない……将なのである。
……実は、今回のローテーション……将以外は負担が大き過ぎると言って反対されていたのだ。
本来ならば、天才と称えられている騎手とはいえ、父親に一喝されて終わるところだ。
だが、今回ばかりは将が土下座までしてレースに出すことを懇願し、根負けした結果、このローテになった……という経緯があった。
当然、父親を含めて誰もが理由を求めた。
しかし、『レースが終わった後で全て話す、クレイジーに何か有れば騎手を辞めてもいい!』という、息子からの信じ難い発言までもが飛び出して……で、だ。
『おまえらしくもない。だが、何か理由があっての事なのだろう? いったい、何を考えているのか……話してくれるんだな?』
「ああ、話すよ、全部話す」
親父は、無理を通してくれた。ならば、将も……罵倒されるのを覚悟して、己が抱えていた真実を語る他なかった。
「親父……クレイジーはもう、走らないかもしれない」
『……走れないのではなく、走らない、か。それは、どういう意味だ?』
驚愕が、沈黙から伝わる。少しばかり間が空いたけれども、親子だ。
言わんとしているニュアンスを正確に察したその問い掛けに、将は……堪らず頭を掻いた。
「前にも話したと思う。クレイジーは、ホワイトリベンジに夢中だって……覚えているか?」
『……ああ、覚えている。ダービーのアレは、本当に残念だと思っているよ』
「そう、本当に残念だった。でも、事はそれだけじゃないんだ」
『なに?』
「なあ、親父……クレイジーにとって、ホワイトリベンジってのはどういう馬だと思っているか……知っているか?」
『……己を負かした馬、以外にあるのか?』
「いや、それで正解。でも、その重さと深さは、俺たちが考えている以上だった」
フーッ、と。
次から次へと浮かんでくる言葉。以前よりずっと溜め込まれていた言葉。その二つが交互に胸中より飛び出してくるのを抑えながら、将は……ハッキリと、告げた。
「親父……クレイジーにとって、『ホワイトリベンジ』というのは絶対に越えなければならない壁だったんだ」
『壁……と、言うと?』
「初めて敗北を与えた馬が、ホワイトリベンジだった。そして、あの日……最後の直線にて追い抜かれた瞬間、クレイジーは……己の敗北を悟ってしまった」
『…………』
「今のクレイジーの心にあるのは、敗北感だけだ。レースの結果なんて、どうでもいい。ホワイトリベンジに勝てなかった、その敗北感でいっぱいなんだ」
そう言い終えた直後……強い喉の渇きを覚えた将は、コーヒーで喉を湿らせつつ……そのまま、言葉を続けた。
「あの日から、クレイジーの目にはホワイトリベンジの後ろ姿が焼きついてしまっている」
「寝ても覚めても、俺が背中に乗っても、放牧の中に居ても、クレイジーの心には……あの日の敗北感がどっしりと腰を据えてしまっている」
「俺は、それをどうにかしたかった。それをどうにかしなければ、遅かれ早かれクレイジーは走らなくなると……思っていたし、今も思っている」
「だから、リスクを承知で俺は菊花賞・ジャパンカップ・有馬記念のローテを提案した」
「クレイジーの心に根付いた敗北感を少しでも……他の強敵たちを相手にレースをすれば、少しは晴れてくれるだろう……そう、期待していた」
……。
……。
…………だが、しかし。
「それでも、クレイジーの心は全く晴れなかった。いや、むしろ、走れば走る程に、クレイジーの心は空虚になっていった」
『……長期の放牧に出せば、なんとかなるか?』
「親父、放牧では駄目だ。ホワイトリベンジ……そう、アイツに勝たない限り、クレイジーの心は二度と晴れない」
『だが、ホワイトリベンジは……』
「そう、リハビリに励んでいる。復帰出来たとしても、前のようには走れない。そして、そんなホワイトリベンジに勝ったところで意味はない」
そこまで話した辺りで、将は大きなため息を零した。
「今回の有馬が、最後だ。もう、クレイジーに走る気力はない。誰に負けようが、今のクレイジーにはどうでもいいことなんだ」
『……なにか、手段は無いのか?』
「はっきり言おう、無いよ。少なくとも、俺には何も出来ない」
縋る様な……電話越しに伝わる父親の内心を想いつつも、将はキッパリと告げた。
「祈るしかないよ……ホワイトリベンジが骨折を乗り越え、ダービーの時以上の力を得て……
『それは……』
「それしかないんだ、親父」
ため息が白く変わる、冷え切った車内に。
「それ以外に、その瞳の中を走るライバルから、クレイジーの心を解き放つ手段なんて無いんだよ、親父……」
父親以上に、縋る様な将のその言葉が……空しく響いた。
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