第九話: 手探りの牛歩

※これから数話ぐらい、場面と時間が飛び飛びになります

視点が過去に行くことはないと思いますので、ご容赦を




――――――ここより↓本編――――――――





 競馬場にて必要な処置を終えた彼が向かったのは、トレセン……ではなく、彼の生まれ故郷である牧場であった。


 詳しくは知らないが、少しでも精神的ストレスを減らす為に、そうすることになったようだ。


 本来は危険ではあるが、馬運車の中にてキナコより『足を動かさないで、良い子だから』と、首筋を撫でられながら彼は聞いていた。



 ──足の骨折。



 人間として生きた時にも骨折の経験はあったが、馬の身体に成ってからのソレは、人間だった時とは比べ物にならないぐらいの苦痛であった。



 まず、身体を動かしてはならない。



 正確には、骨折している箇所を傷付けてはならない、だろう。人間の時とは違い、馬の足というのは横への可動域が非常に狭い。


 痛みから無理に力を入れてしまって、無事な関節を痛めてしまう場合が多い。馬に、『骨折』を理解しろというのが無茶は話だ。


 だから、現在の彼は……天井から吊り下がるようにして、骨折した足が僅かばかり浮いた状態を維持し続けていた。


 言うなれば、身体全部を三角巾で支えているようなもので、今の彼は天井から垂れ下がるシーツのハンモックに身体を預けているような状態であった。


 その状態で、彼は……一日に何度も、身体の姿勢を少しばかり変えられる。


 方法は単純明快、天井より伸びるシーツの具合を変えることで、身体の向きを動かしているだけだ。


 当然ながら、動かせてもせいぜい十数度が限度。


 しかし、それでも、圧が掛かる部分が変わってくれる時は、ホッとため息が零れてしまうぐらいには、しんどい事であった。


 彼が普通の馬であったならば、状況がまるで理解出来なかっただろう。パニックのままに足を動かして……そのまま怪我を悪化させていたところだろう。


 だが、幸いにも彼の心は馬ではない。そして、職員たちの……知った顔ばかりの、牧場のみんなの必死な対応を理解し、協力出来る頭を有している。



(キナコさんたちがこんだけ汗だくになって頑張っているんだ……俺が頑張らないで、誰が頑張るって言うんだよ!)



 その中には、キナコも居る。


 いや、キナコだけではない。毎日ではないが、彩音も駆けつけてくれて、色々と作業の手伝いをしてくれる。


 彩音もキナコは、人間として見ても大柄ではない。筋肉は付いているだろうが、どう見ても力持ちには見えない。


 そんな女が、彼の体位を変換させる際には、顔を真っ赤にして、汗だくになって位置をずらしてくれる。


 そんな恩人を前に、弱音を吐くだなんて……馬の身に成ったとしても、男である彼には意地でも出来ないことであった。



 ……。



 ……。



 …………さて、だ。




 ──立てない。文字にすれば、たった四文字だ。



 しかし、それが如何に馬にとって死活問題なのかを、彼は骨折したことで改めて実感していた。


 人間とは違い、馬には自由自在と言っても過言ではない腕が無い。四本の足が有って、初めて立ち上がる事を可能とする生き物だ。


 なので、片足(つまり、3本しか動かせない状態)が骨折してしまうと、もうその時点で自力での立ち上がりがほぼ不可能な状態に陥ってしまう。


 そして、立てないということは……血流を回すポンプの補助が上手く動いてくれないということ。


 それを、彼は……言葉ではなく、身を持って体感していた。



 具体的には、息苦しさだ。



 幼少期に一度実感してからは二度とやらなかったが、頭がボーっとするというか、酸欠でクラクラする時がある。


 吸っても吸っても、息苦しさが中々取れない。


 たぶん、こういう息苦しさを理解出来なくて、普通の馬はパニックを起こすのだろうなあ……と、彼は思った。



 それを防ぐ為に、数人掛かりで行われるのが……足踏みだ。



 これも、原理は簡単だ。


 骨折した足が接触しないように気を付けながら、台に足を置いて……グッグッと力を入れるだけ。


 無事な足全部を一度には出来ないから、一本ずつ。


 踏み、踏み、踏み、といった感じで力を入れて踏み込む。


 実際の効果は不明だが、終わった後、少しばかり身体がポカポカするというか、息苦しさが和らぐような気がするのは確かであった。


 もちろん、骨折した足を放置するかと言えば、そうではない。


 さすがに骨折した部位の周辺はまだ触れないので、その上……トモの辺りから下から上に、上から下に、グイグイと押し始める。



 ……たぶん、ポンプの代わりのつもりなのだろう。



 これも効果は体感では分からない。いや、というより、全てが手探りなのだろう。誰も彼もの顔に、試行錯誤の四文字が色濃く写っているように彼には見えた。



 ……さて、だ。



 効果は不明だし、足踏みやマッサージもそうだが、やらされている彼以上に、補助するみんなの方が相当に体力を使う作業であった。


 なにせ、いくら天井から身体を支えているとはいえ、体重450kgを超える馬体だ。


 万が一シーツが解けたり破れたりして転倒すれば、そのまま怪我が悪化して死亡……というのも、悪い冗談ではない。


 だから、数人掛かりで彼が不用意に動かないように抑え、宥め、怪我をしないようにしている。



 かなり、怖いはずだ……そう、彼は思った。



 馬を愛しているからこそ、馬の怖さも身に染みているはずだ。


 じゃれ合いの蹴りだけでも、辺り所が悪ければ死んでしまう……そんな馬を前に、誰もが一歩も引かずに全力を注いでいる。



(焦るな……焦れば焦る程、みんなの負担が増す。ジッと耐え忍ぶ……それが、俺の今のやるべき事だ)



 そこまでされて、泣き言を零してしまうほどに……彼はまだ、矜持を捨ててはいない。


 足から伝わってくる痛みを堪えながら、彼は……一日、一日と、まるで牛歩をしているような気持ちで、少しずつ身体が治ってゆく感覚にだけ集中し続けた。






 ──エアコンにて冷やされた部屋に通された遠藤は、ほうっと息を吐いた。



 黙っていても予算が入ってくる施設ならともかく、トレセンにも節電・節水の意識はしっかり根付いている。


 加えて、今年の夏は例年通りの猛暑になるらしく、節電の呼びかけを一日一回は目にする。


 結果、トレセンの建物内であっても冷房は最低限であり、案内された客室のソファーに座った遠藤が堪らず溜息を吐いたのも……致し方ないことであった。


 そうして、静かに、目の前に出されたお茶を飲む。


 水滴が幾つも浮かんだコップより、カランと氷が鳴いて……ふと、生まれた沈黙を待っていたかのように、対面に座った置田が口を開いた。



「遠藤さん、今日来て貰ったのは他でもありません、ホワイトリベンジの次走の件です」

「……菊花賞は、大丈夫ですか?」



 事前に、電話にて話を聞いていた遠藤は、改めて問う。答えはもう分かっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。



「それは無理です。先日、この目で私も状態を確認し、獣医にも相談しました。菊花賞はおろか、年内はレースに出さない方が良いと思います」



 そして、置田はそんな遠藤の期待を切って捨てた。その事に、遠藤は……溜息を零さずにはいられなかった。


 ……ホワイトリベンジ……ホワの現在の状態、それは、置田に言われなくとも遠藤も把握していた。



 ──治療は、現時点では非常に上手くいっている。


 ──食欲も落ちてはおらず、我慢強く別の病気も発症していない。


 ──この調子なら、来年にはレースに出られるようになるだろう。



 そう、遠藤は獣医からも、牧場の人達からも聞いていた。



 ……賢く穏やか気性のホワは、本当に辛抱強い子である。



 何をされているのか分かっていないはずだ。なのに、ホワは牧場の皆を……キナコたちを信頼し、身を預けている。


 普通の馬なら、治療の途中で別の病気を発症して安楽死処分をしているところだ。


 そうなっていないのは、ひとえに牧場の者たちの努力と献身と……そんな彼ら彼女らを信頼し、命を預けているホワの優しさに他ならない。


 だから、人間でも根を上げてもおかしくない苦痛に耐えながらも、ホワは黙々と身体を治すことに集中している。


 その目に宿る闘志は、全く衰えていない。いや、それどころか、逆だ。


 噴火が起きる為には蓋がなされて力を蓄えるように、ホワは今……力を、闘志を、渇望を溜め込んでいるように、遠藤には見えた。



「……これは私の憶測なので、断定は出来ませんが……聞いてくれますか?」

「憶測、ですか?」



 そんな感じでタチバナ・ファームの様子を思い浮かべていた遠藤は、ふと、そう話しかけられ……ふむ、と首を傾げた。



「ダービーでのホワイトリベンジの骨折……アレはおそらく、ホワの脚力に足が耐え切れなかったのだと私は考えています」



 その言葉と共に、置田はA4用紙を一枚置いた。


 そこには票と数字が記載されており、「すまない、歳でね」それを見た遠藤は、取り出した老眼鏡を装着すると、用紙を手に取り……これは、と首を傾げた。



「それは、ホワイトリベンジが走った……日本ダービーのラップタイムです」

「……これが? 冗談ではなく?」



 思わず、遠藤はそう言って笑った。


 何故かといえば、そこに記載されている数字。それは遠藤の目から見て、2400mのタイムには思えなかったからだ。


 なにせ、途中までは分かる。途中までは、2400mとして考えれば、納得の出来る数字だからだ。



 しかし、最後の方が違う。



 とてもではないが、既に2000m近く走って出したタイムには見えない。


 かつて、適性距離4000mと畏怖された馬が競馬の世界には居た。あるいは、暴君というあだ名が付けられた馬も居た。


 しかし、そんな馬たちですら、こんな信じ難い末脚を持ってはいない。


 短距離1200mのタイム……説明されていなかったら、誰もがそう見間違えるぐらいに速かった。



「……これを、ホワが出したのかい?」

「にわかには信じ難い話ですが……間違いありません」



 思わず、遠藤は唸った。と、同時に、置田の言わんとしていることを遠藤は察した。


 ……あの時目撃した、爆発的な加速……クレイジーボンバーすらあっさり撫で切った、復讐者の末脚。


 クレイジーボンバーが差し返そうとしてもまるで歯が立たず、瞬く間に馬身を広げられ、そのままゴールへと……向かおうとした、あの末脚。



「ホワは、速すぎたわけだね」



 その末脚に、肝心の足が耐え切れなかった……思わず、遠藤はそう呟いていた。



「……その速さに耐えられるようになるためにも、年内はレースには出せません。少なくとも、本格化がある程度終わるまでは」



 対して、置田は肯定も否定もせず……骨折そのものは、おそらく来年の1月ぐらいには回復するだろう……と、言葉を続けた。


 獣医曰く、『治療に対して非常に我慢強く協力的だ。そのおかげで、想定よりもずっと早く完治するだろう』とのことらしい。


 それに関しては、遠藤も獣医から似たような説明をされていたから、特に思うところはなく……ん? 



「……待ってくれ、ホワはまだ『本格化』していなかったのか?」



 サラッと言われたので聞き逃すところだった。



 ……『本格化』



 それは、成長と共に馬体が充実して脚力が増したり、精神力が身に付いて冷静さを得たり、競争能力が向上したり、その能力を遺憾なく発揮できる状態の事だ。


 人間に例えるなら、いわゆる『全盛期』というやつで、馬にも全盛期というやつがあり、それが『本格化』だ。



「その、僕はてっきりホワは今が本格化している時だと思っていたのだけれども……ち、違うのですか?」

「……違います」



 驚いている遠藤を尻目に、無理も無いと言わんばかりに置田は苦笑を零すと……次いで、真面目な顔になった。



「私も、つい先日ホワイトリベンジの様子を見に行った時に気付いたのですが……おそらく、ホワイトリベンジの本格化は来年……4歳になってからだと思います」

「どうして、そう思ったのですか?」

「根拠は二つ」



 一つ、置田は指を立てた。



「一つは、タチバナ・ファームのオーナーさんから話を聞きました。ホワイトリベンジの父である『マッスグドンドン』は、本格化するのが遅かった……と」

「……あっ」



 言われて、そういえば……と言わんばかりに、今更ながらに古い記憶が遠藤の脳裏を過った。


 ……ずいぶんと昔の話だから今の今まですっかり忘れていたが、オーナーの橘源吾より、そのような話をされた覚えがある。



(そうだ……思い返せば、マッスグドンドンも3歳の頃は勝てず、4歳になってからジワジワ入着以上を取れるようになったと……)



 そう考えれば、ホワはまだこれからが成長期……と、そこまで考えた辺りで、「そして、二つ目は……馬体です」置田は二本目の指を立てた。



「骨折をして、精神的なストレスが溜まっている。なのに馬体の色艶が良く、足以外は誰が見てもGⅠ級が維持されている。まるで、これからのレースに備えて身体が勝手に準備をしているかのように」

「それは……」

「遠藤さん、焦る必要はないと思います。たった一度のクラシック……ホワイトリベンジの為にも惜しいと思う気持ちは分かります。ですが、ここはグッと堪えてください」

「……グッと堪える、ですか」



 そう、言われた遠藤は……なるほど、と、今更ながらに己がここまでクラシックに執着していたのかを自覚し……同時に、ジワリと後悔が胸中に広がるのを感じた。



 ……元々、そう、思い返せば、だ。



 利口なホワイトリベンジは、レースというモノを理解しているのかもしれない……以前、騎手の彩音よりそう言われた事があった。


 その時は、それだけ賢いのならば有利に働くだろうと笑って流していたが……今にして思えば、その賢さが、越えてはならないラインを越えさせる原因になったのではないだろうか。



 ──あのレースが、ホースマンにとって……競馬に携わる者にとって、特別なレースであることを理解していたのかもしれない。



 もちろん、相手は馬だ。


 ホワがいくら賢いとはいえ、『日本ダービー』が何なのか……そこまでは理解出来ていないし、言葉にしたって伝わらない。


 だが、言葉では伝わらなくとも、気持ちは伝わる。少なくとも、遠藤はそう信じている。


 種族が違っても愛情が伝わるように、ホワは直感的に理解していたのかもしれない。皆から向けられる、期待を。



 あの日のレースにだけは、絶対に勝たねばならない……と。



 賢いホワは、期待を一身に背負い、そう考えていたのかもしれない。


 大好きなキナコから、相棒の彩音から、馬主である自分から、あるいは、ホワを応援する様々な人たちから受けた夢を一つも零さずに。



(……だが、ホワはまだ背負った夢を下ろすつもりはない。走りきるその時まで……だったら、僕は馬主としての務めを果たすだけ)



 ──白い復讐者……なるほど、名は体を表す、か。



 その名を思い浮かべた遠藤は……軽い情けなさを覚えつつも、ホワならば必ず立ち上がり、ターフへと戻ってくるだろうと……確信していた。


 結局のところ、全ては遠藤の勝手な思い込みに過ぎない。ただ、更なる期待を乗せているだけに過ぎない。


 だが、それでも、ホワならばやってくれると……そう、遠藤は思わずにはいられなかった。








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