第八話の裏: 立ち上がれ、夢よ



 ──故障発生! ホワイトリベンジ故障! 



 その言葉を、ホワイトリベンジの馬主である遠藤は、実際に耳にしたわけではない。ただ、脳裏に、その言葉がハッキリと響いたのを感じた。


 と、同時に、遠藤の脳裏を過ったのは……かつての愛馬である、『エンドウオトオリ』であった。


 場所も違う、レースも違う。グレードだって違う。


 何もかもが違う景色なのに、その時、遠藤の視界と脳裏を過ったのは、倒れ伏す『エンドウオトオリ』の姿であった。



 ……日本ダービー当日、遠藤は馬主席に居た。



 他の者たちと同じく、先頭を駆け抜けてくれるであろう愛馬の勇姿を見る為に、緊張と期待と不安を胸に、レースを見つめていた。


 だからこそ……だ。


 おそらくは、この場に居る誰よりも、鞍上の柊彩音騎手とほぼ同じタイミングでホワイトリベンジの異変に気付いたのは……遠藤だけであった。



「──っ」



 ゴールまで、もうすぐ……そんな時に、ガクンとホワイトリベンジの動きが変わった。


 その瞬間、馬主席に居る誰もが「あっ!?」と声を出した。


 肝心の遠藤は声すら出せないまま……これ以上ないぐらいに、大きく目を見開いただけ……だが、その内心は他の者たちと同じであった。


 加速したわけではない。減速とも、少し違う。


 明らかに悪い意味で起こった異常のために、その身体がさらに外へと蛇行し……そのまま、緩やかに足を止めたのだ。



「──っ!」



 それを見届けた瞬間、気付けば……遠藤は、杖を片手に走っていた。背後から、「遠藤さん!」と声を掛けられたが、構う余裕などなかった。


 けれども、高齢である遠藤の身体はもう、走れる身体ではない。


 普段も本当ならば杖も無く歩けるぐらいに元気で、あくまでも保険の意味で杖を使っているだけだが……それだけ。


 歳不相応に元気とはいえ、現実として身体は老いている。少しばかり無理をするだけで、相当に息が上がってしまう。


 ましてや、動揺を隠しきれない今は……東京競馬場内にて摂津されている診療室へとやってきた時にはもう、はっきりと分かるぐらいに息切れをしていた。


 そして、診療室の出入り口と周囲には……人だかりが出来ていた。


 そうなって、当たり前である。


 なにせ、此度のレースは日本ダービー。それも、勝利目前を前にしての故障によるリタイア……おそらく、人だかりの中には記者も紛れているだろう。



(オトオリ……頼む! 寂しいのは分かっている、だが、ホワをまだ連れて行かないでくれ!)



 だが……それが、何だと言うのだろうか。


 この程度の苦しみ、煩わしさ、ホワイトリベンジが味わっている痛みに比べたら……その一心で、「退け、退いてくれ!」人だかりを些か強引に跳ね除け……そして。



「……ホワ」



 忙しなく診察と処置を行っている獣医の下で、苦しそうに横たわっているホワイトリベンジが……そこに居た。



「──遠藤さん、わ、わた、私……」



 合わせて、遠藤の来訪に気付いた柊騎手……彩音が、涙で目を真っ赤にしながら駆け寄って来た。



「──謝らなくていい。事故を未然に防げる騎手なんてのは、この世界にはいませんから」



 彩音の言わんと……涙と共に言わんとしている事を察した遠藤は、ボロボロと止まらない涙を流している彩音の肩を、ポンと叩いた。


 そう、故障を未然に防げる騎手なんてのは存在しない。


 引退まで騎乗したが一度も故障に遭遇する事のなかった騎手もいれば、何度も故障に遭遇した騎手もいる。


 所詮は、偶々そのタイミングに騎乗していただけ。もちろん、頭では分かっていても、納得出来ない馬主もいるだろう。


 怒りとやるせなさを騎手にぶつける馬主も、珍しくはない。


 偶然が重なっただけ、そもそもサラブレッドは故障しやすいという前提を理解していたとしても、そうしてしまう事を遠藤は否定しない。



「貴女は大丈夫でしたか? 怪我はありませんか?」



 そして、遠藤は……彩音を責めなかった。


 だって、騎手としては、誰よりもホワと関係が深いのは彩音だ。


 歩行不安の噂が流れていた当初から、ずっと乗ってくれていた。ホワからも厚く信頼されている彼女を、どうして責められようか……少なくとも、遠藤には出来なかった。



「わた、私は大丈夫です……ホワが、ホワが私を守って、落ちないように守ってくれました……」

「……そうでしょう。ホワは貴女が大好きだ。自分の身体よりも、貴女に怪我をさせたくなかった」

「……うぅ」

「それが、全てです。彼は貴女を守りたかっただけです。だから、自分を責める必要はありません」



 そう、涙が止められないでいる彩音の肩を再度叩いて後ろへ行かせると……次いで、難しい顔でこちらを見つめている獣医へと向き直った。



「馬主の遠藤です。どのような状態でしょうか?」

「……単刀直入に言います、非常に判断が難しい怪我です」



 獣医は……少しばかり生えた無精ひげを摩りながら、ホワへと視線を移した。



「少なくとも、今すぐ予後不良……安楽死を選択するような致命傷ではありません」

「──そう、ですか」



 ほっ、と。


 おそらく、遠藤だけではない。耳を澄ませて話を聞こうとしていた、この場の誰もが……安堵のため息を零した。



「ですが、けして軽い怪我ではありません。今すぐではなくとも、ソレを視野に入れる必要がある怪我と思ってください」



 けれども、その安堵も……すぐに終わった。



「それは、いったい……」

「幸いにも、骨折の状態そのものは良い。骨折したとはいえ、全体的に頑丈なのでしょう……上手く行けば、治る可能性はあります」

「──では!」

「ですが、あくまでも全てが上手く行った場合です。遠藤さん、馬主をやっている以上は御存じだとは思いますが、馬の骨折は人間とはワケが違います」



 獣医のその言葉に、遠藤だけではない。後ろで話を聞いていた他の者たちも一様に唸り、目を伏せた。



 ……そう、馬の骨折は、人間とはワケが違う。



 その、最大の理由は……何と言っても体重である。


 人間に例えるなら、体重200kg越えの人が片足を骨折したようなものだ。それも、ロクに鍛えられていない細足で、だ。


 体重の軽い人間だって、ずっと片足立ちのままでいれば、どこかしこに異常が現れる。それは、馬も同じなのである。


 加えて、馬は人間と違って長く横になっていられる身体の構造をしていない。


 どうしてかって、それは人間と同じ、床ずれが生じるからであり、自らの自重に身体が耐えられないのである。


 立っている状態が基本であり、その為の構造をしている。


 ゾウなどが長く横になり続けると内蔵を痛めてしまうように、馬も同じなのだ。


 だから……そう、人間と同じように骨折箇所を治療して安静処置を施したとしても、だ。


 足が治癒する前に、残った足に掛かってしまう負荷から別の病気が発症したり、歩けない状態が続く事で内蔵にも負担が掛かって炎症を起こしたり。


 結果的には、何十日以上も長く苦しませ続けただけで終わってしまった……そういう事例が、競走馬の世界には幾つもあった。



「ホワイトリベンジ号の気力に賭けて治療を行うか……あるいは、ここで安楽死処置を行うか……選択はこのどちらかです」

「……っ」

「もちろん、治ったところで競走馬として復活出来る可能性はあっても、保証はありません。いや、むしろ、可能性としては復活できない方が高い」

「……っ!!」

「馬主である貴方が決めてください。ただ、あまり長く考えていられる猶予はありません。時間を掛ければ掛けるほどに、苦しみが長くなりますから」



 そう言うと、獣医は……水分補給や痛み止めや消毒等、最低限の処置を再開した。



 ……。



 ……。



 …………その、後ろ姿を……その向こうで横たわっている『ホワイトリベンジ』の姿を、遠藤は呆然とした様子で見つめていた。



 グラグラと……視界が揺れている。



 脳裏を過るのは、予後不良で安楽死処置を行った『エンドウオトオリ』の姿。時代に名を残す馬ではなくとも、愛する孝行馬であった。


 そして、苦しそうにしながらも、息を引き取る瞬間……スーッと痛みが引いて安らいだ顔になった……その映像が、強く明確に脳裏に浮かんだ。



 ──助かる可能性は低い。長く、苦しい戦いをホワに強いる事になるだろう。



 遠藤とて、無知ではない。


 なぜ、骨折した馬を治療ではなく安楽死処置を行うのか……その理由は、馬主となったその時から理解していた。


 自分だけではない。


 自らの愛馬の安楽死処置を前に、子供のように泣き叫んで蹲る知り合いの馬主の姿を目撃した事だってある。



 是が非でも治療したい、治ってほしいと……それは、偽りのない本音である。


 だが、馬主として冷静な部分が、静かに首を横に振っているのを遠藤は自覚した。



 そう、分かっているのだ。


 後ろでずっと泣きじゃくっている彩音も、騎手である以上は骨折した馬の未来を知っている……だから、泣きじゃくっているのだ。



 そうだ、だから、分かっている。


 ホワイトリベンジの……ホワの事を想うのであれば、すぐにでも楽にさせてやるべきなのだと……それが、馬主としての最後との務めなのだと。



「ぼ、僕は……」



 からから、と。


 乾いた喉からは、まともに声が出てこない。


 顔中から冷や汗が噴き出ているのに、喉の奥は砂漠になってしまったかのように、掠れた吐息しか出てこない。


 けれども、言わなければならない。悩めば悩むほど、ホワの苦しみを長引かせてしまうだけなのだから。


 何度も、何度も、何度も……乾いた喉に唾を呑み込み、息を吸って、吐いて、呑み込み……そうして、何度も、何度も、何度も……己に言い聞かせた遠藤は、今度こそと唇を開き──。



「──ホワ! ホワぁ!」



 ──瞬間、診療室に駆けこんできた1人の女の登場に、遠藤だけではない、この場の誰もが面食らった。



「き、キナコさん!?」



 普通なら職員の手で引きずり出されるところだが、そうはならなかった。


 何故なら、その女……橘キナコは、遠藤自身が記念すべき瞬間を目撃してもらうために、東京競馬場へと飛行機チケット等を用意してあげたからだ。


 だって、ホワの今は、キナコの覚悟と献身と、命を削って尽力したからこその今である。


 はっきり言って、キナコが居なければ、ホワはここにはいない。それどころか、とっくの昔に殺処分されている馬なのだ。


 そんな馬が、競走馬の頂点へと挑戦する。


 さすがに全員分は無理だが、キナコにだけは生で目撃してもらいたい……そう思い、タチバナ・ファーム一同も笑顔で了承した結果、キナコはここにいるわけである。



(──ああ、どうして、こんな事に……)



 そうして、キナコの姿を見た遠藤は……だ。


 不運の結果とはいえ、今更ながらに自分はキナコに対して、なんて辛い場面を見せる結果になってしまったのか……泣きたくなった。


 馬主であるとはいえ、遠藤自身はホワの面倒を見てはいない。けれども、これだけ心苦しいのだ。


 それが、幼少期から……それこそ、実の子も同然にミルクを飲ませ、上手く動かない足をマッサージし、体重が激変してでも無理を押してお世話をした馬の……最後を見てしまったのだ。


 その胸中は、とてもではないが言葉では言い表せられないだろう。


 少なくとも、ホワとキナコの関係を知っている遠藤は、掛ける言葉が思いつけなかった。



「──みなさん、彼女はホワイトリベンジの育ての親である牧場の娘さんです。この場に居る誰よりもホワイトリベンジへの愛が深い女性です」



 だから、遠藤は事情を知らない者がいるだろう、この場に居る人たちへ、そう説明をした。


 それだけで、十分である。


 それに、事情を知らなくとも、馬主である遠藤が許している以上は、第三者が口を挟める事でもなかった。



「ホワ……ホワ……分かる、私だよ、分かる?」



 そうして、誰もが何も言えずに静まり返った中……視線を一手に集めているキナコは、力無く横たわるホワの傍に座り込む。


 キナコの目には……彩音以上に大量の涙が流れている。それは、止まる気配が全く無い。



「ホワ、私を見て、分かる? 私を見て……」



 ホワのたてがみを摩りながら、キナコは顔を近付ける。そこで、ようやくホワはキナコに気づいたのだろう。



 ──ヒン。



 その声は、傍目にも分かるぐらいに力が無かった。それを聞いて、誰もが思わずといった様子で涙がこみ上げる。


 それは、遠藤も例外ではない。


 ジワッと滲む視界を無理やり袖で拭いながら……最後まで目を逸らさないために、ジッとキナコとホワを見つめる。



「……ホワ?」



 そんな中で、ただ一人だけ……ハッと大きく目を見開いたキナコだけが、驚いた様子でホワと改めて視線を合わせた。



 ……。



 ……。



 …………沈黙の時間は、おおよそ10秒も無かっただろう。



「……うん、ホワがそうしたいなら……私も頑張るよ」



 ポツリと、そう呟いたキナコは……呆気に取られている人たちを他所に、グイッと流れている涙を拭うと……遠藤へと向き直り。



「──遠藤さん、お願いします。どうか、ホワにチャンスを与えてあげてください」



 深々と……そう、額を床にこすり付けんばかりに土下座をした。



「ちょ、キナコさん!?」



 これには、遠藤も驚いて滲んでいた涙が止まった。


 それは、遠藤だけではない。様子を伺っている他の者たちそうだし、号泣していた彩音もまた、涙を止めるぐらいに驚いた。



「──お願いします。まだ、ホワは諦めていないんです」



 だが、そんな動揺も、次のキナコの発言に止まり、誰もが目を見開いた。



「ホワの心は、まだ折れていません。まだ、ホワは走りたいと言っています」

「……それは、本当なのかい?」



 掠れた問い掛けに、キナコは……拭った頬に新たな涙を伝わせながらも、力強く頷いた。



「お願いします、ホワにもう一度チャンスをください」



 ……。


 ……。


 …………言われて、遠藤は視線を下げる。察した彩音が手を貸して、ゆっくりと腰を下ろし……改めて、ホワと目を合わせた。



(ホワ、君は……っ!!)



 そうして、ようやく遠藤も気付いた。


 横たわるホワは、確かに力が無いように見える。だが、その目からは欠片も力が失われてはいない。


 いや、それどころか、逆だ。


 消えかけた炎へ風が送り込まれているかのように、グラグラと熱気が増してゆくのが分かる。



 ──負けない、まだ終わっていない。


 ──こんなところで、俺は立ち止まらない。


 ──まだ、俺は走れる、走れるんだ。


 ──俺は、まだ……立ち上がれるんだ! 



 そう言わんばかりに、目が物語っている。いや、目だけではない。その身体すら、燃え上がらんばかりに湯気を放っている。


 ……不思議と、遠藤にもそう見えた。



「……ホワ、分かっているのかい。それはとても苦しく、ただ君の苦痛を長引かせるだけになるかもしれないよ」



 相手は馬だ、言葉など通じない。


 けれども、問い掛けずにはいられなかった。


 言葉は通じなくとも、想いは通じるのだと……言葉には出来ない確信が、遠藤にはあった。



「治るまで身体が持たない可能性は高い。治ったところで走れるようにはならないかもしれない。走れたとしても、元には戻らない可能性だって高い」


 …………。


「それでも、君はヤル気かい? 今よりもはるかにキツイ苦痛に耐えて……もう一度ここへ……ターフへと帰ってくるために」



 ……。



 ……。



 …………ホワの目に宿る炎は、少しも揺らがなかった。



 ただ、一言だけ。




 ──ヒン。




 そう、ホワは鳴いた。


 それは、けして大きくはない。競馬場の喧騒の中では、あっさり掻き消してしまいそうなぐらいに小さかった。



「……獣医さん、お願いします」



 だが、それでも。



「ホワの治療をしてください。もう一度、ホワがここへ帰ってくるために……お願いします」



 馬主である遠藤の心を奮い立たせるには、十分過ぎた。



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