第二話の裏その3: 怪物の片鱗




 ──本気だ。遠藤さんは、本気で浪漫を追及するつもりだ。




 はっきり彩音が思うようになったのは、わざわざトレセンにまで話を通してホワの調教に参加させた辺りである。



 昨今では、珍しい話だろう……少なくとも、彩音はそう思った。



 というのも、基本的に馬の調教は、トレセンに雇われている調教師や専属騎手などが行うからだ。


 騎手の役目はあくまでレースに勝つ事で、調教は調教師たちという形で分業化されて久しい。


 レースに乗る騎手が調教にまで参加することは、ほとんどない。その馬と関係性を築くために調教に参加する場合はあるが、それ自体はそう多くはない。


 それこそ、その馬に相当な期待が掛けられていて騎手が自主的に参加するか、あるいは馬主と相当に仲が良いかで互いに了解して参加しているか、そのどちらかだろう。



 そして、この場合……おそらく、彩音は後者に当たった。



 通常、トレセン側としては後者の者に対して良い顔はしない。馬主たちにそういうつもりはなくとも、お前らの仕事を信用しないと思わなくはない対応だからだ。


 それに、そういう時に調教に参加する騎手は……言うなれば、余所者だ。自分たちの仕事に誇りを持っているからこそ、納得出来ない部分が出て来てしまうわけだ。



 もちろん、それだって場合による。



 馬自体が特定の相手以外では凶暴性を発揮してしまい、その人しか世話を出来ないという場合だ。まあ、この場合はトレセン側から拒否される事があって……まあ、色々ある。


 しかし、今回の場合、彩音に対して向けられるトレセン側の視線は……意外な事に冷たくはなく、むしろ、温かさすらあった。



 理由は、二つある。



 一つは、彩音が……ホワの主戦騎手を務め、ホワが引退するまでずっと専属だということを、馬主を通じてトレセンに話をしているからだ。


 特定の馬の専属騎手(いわゆる、お手馬)になるのはそう珍しくはない。しかし、外部の者が専属して調教までやる騎手は珍しかった。



 そして、二つ目。



 それは、彩音がホワの引退に合わせて、己も引退することを明言していたことだろう。


 トレセンに限らず、元騎手の調教師や競馬関係者は多い。言うなれば、それだけ騎手を続けるのは狭き門でもあるということ。


 誰しもが先頭で戦えるわけもなく、騎手の大半は誰にも知られる事なくひっそりと引退するのが多いという。



 理由は、様々だ。



 年齢を重ねるに連れて身体が減量等に耐えられなくなった者、依頼が途絶えて生活苦から引退する者、あるいは、怪我をして引退せざるをえなかった者……等々。


 だからこそ、ホワの引退と共に騎手を辞める覚悟でいるその姿は、トレセンの者たちにとっては眩しく映った……のかもしれない。


 そのうえ……言ってはなんだが、ホワの血統表を見る限り、お世辞にも良血とは言い難い。


 それなのに、柊彩音騎手はホワに賭けた。血統などに左右されず、ホワという馬と戦いぬくことを選んだ。


 ……それ程に惚れぬいた姿を見せられてしまえば、元騎手たちの心を動かすには十分過ぎたわけで。



(……もう、軽く怪我でもして引退とか言っていられないわね)



 そして、そんな彼ら彼女らの想いを背中に感じていた彩音も、ホワとの日々を重ねるに連れて。


 そう、少しずつ、一日事に、ホワの身体が成長し、他の馬なら嫌がり始める調教にも積極的に行い、その日に向けて力を蓄えてゆくのを見て。


 徐々に、知らぬ間に錆びつき消えようとしていた、騎手としての熱意が己の内に戻って来るのを……彩音は感じ取っていた。






 ……。



 ……。



 …………そうして、夏の大勢力が根強く日本列島にしがみ付いている……9月の上旬。



 葦毛のホワは、新たに『ホワイトリベンジ』という名を与えられ、例外を除いて全ての競走馬のスタート地点である、新馬戦へと臨もうとしていた。


 現地に先入りしていた彩音もそうだが、同じく先入りしていた騎手たちは、誰もが到着する馬の状態を想像し、やきもきした思いで待っていた。



 まあ、そうなるのも当然といえば、当然だろう。



 調教にて練習を重ねているとはいえ、本番レースそのものに慣れていない新馬は、輸送の影響がどれほど出るか分かったものではない。


 ただ、疲れているだけならまだいい。


 最悪なのは、急性の下痢を起こしていたり、輸送のストレスから大量発汗による脱水が起きていたり、走る事すら困難になっている場合だ。


 もちろん、新馬戦に合わせて、多少なりストレスが掛かっても走れるように調教を行ってきている……が、それでも生き物である以上は、絶対ではない。


 頻度こそ高くはないが、直前になって出走取り消しになることもあるので……だからこそ、待つことしか出来ない騎手たちは、やきもきするしかなくて。


 幸いにも、馬連車に乗せられて続々とやってきた新馬たちに目立った異常は見られず、この日のレースは前頭レース出場となった。


 ……そうして彩音が迎えた、第5R。




 距離:芝・1600メートル(マイル)。


 天候は晴れ、馬場状態は○(良)




 だいたいの馬にとっては、本日のコースは走るのに適した状態になっていた。


 幸運なことに、この日は季節風だとか何だとかで、前日よりも気温が6℃も下がってくれていた。



 ……この場においてのみ、彩音は心の中で異常気象万歳と思わず呟いていた。



 というのも、ホワ(ホワイトリベンジ)に限らず、馬にとっては良い事なのだ。なにせ、馬は基本的に寒さには強いが、暑さには弱いからだ。


 他の馬にとっても条件は同じだが、そんな事よりも、彩音にとってはホワの方が大事である。走る走らない以前に、暑さで体調を崩されるより何倍も良い。


 そして、何をするにしても、少しでも条件が整っている方が不測の事態が起きる確率は減ると思っていた。



「──行くよ、ホワ」

『──ヒヒン!』



 ホワの背に乗った彩音は、肌触りの良い首筋を摩ってなだめてやる。



「落ち着いて、大丈夫。貴方なら勝てるから」

『ヒヒン!』



 相変わらずの乗り心地の良さと、こちらの言葉を理解しているかのようなタイミングの良い返事に、思わず彩音は頬を緩める。



(……さあ、行くわよ! 柊彩音!)



 次いで、サッと気を引き締めると……通路を通り、コースの上へと出た。


 途端、日差しと熱気と共に、芝の何とも言えない臭いが鼻に来る。そして、広々と伸びる景色に……自分たちと同じく、パカパカと観客席の前に出ているライバルたち。



 ……この光景を見る度に、これから戦いが始まるのを強く実感する。



 時間にして、遅くとも約1分40秒。100秒にも満たない一瞬の間で、明暗がくっきり分かれてしまう戦い。


 今回の新馬マイルレースでは、全9頭。つまり、この9頭の内、勝利を掴んで上へと上がれるのは、たった1頭だけ。



(……よし、少しばかり注意が散漫になっているけど、これぐらいは想定内。変に力んではいない、むしろ落ち着いている方だわ)



 右に左に、前に後ろに。ホワの視線が、耳が、意識が、注意が、ピクピクと動いているのを彩音は感じ取る。


 初めての場所と、初めての空気。


 おそらく無意識のうちに緊張し始めているホワの首筋を何度も摩って、とにかく落ち着かせる。



 ……GⅠなどの競馬の花形とも言える最高グレードの時とは違い、新馬戦の客入りはそれほど多くはない。



 しかし、それでもなお馬にとっては大勢の人達が集まっているように感じているだろう。向けられる視線は、馬に限らず動物にとっては非常に敏感なものなのだ。


 そのまま、気を落ち着かせながら緩やかに返し馬(コースを走る前に行う、ウォーミングアップ)へ……走る事で気が紛れたのか、緊張が解れていくのも感じ取る。



(気を付けなければならないのは、ホワが掛かってしまう事と……相手は……アレね、ダージリンロケット)



 その最中、彩音は……少し先を走る、メンコ(馬の覆面のこと)を付けた栗毛の馬を見やりながら、事前に叩き込んだ情報を思い返す。




 ──ダージリンロケット。親の名は、ダージリンマグナム。GⅠこそ届かなかったが、重賞を幾つも勝ち取った名馬の血を引く馬だ。




 親の力が、必ずしも子にそのまま受け継がれるわけではないが、判断材料にはなる。


 特に、映像などで確認した限り、ダージリンマグナムは典型的なマイラーだ。体系的に、ダージリンロケットもマイラーっぽい感じがする。



 ……そう、こいつだ。このレースにおける難関。



 ある意味では、今回のレース……距離適性の試金石でもあるホワにとって、このレースにおける最大のライバルとも言うべき相手であった。



(……勝てそうなら勝て、か)



 脳裏に過るのは、ホワの調教を担当している、トレセン調教師の置田正一おきた・まさいちの言葉だ。



 ……勝てるなら勝つべきだが、いきなり無理をさせる必要はない。



 それは彩音も同じことを考えているし、馬主の遠藤さんにも確認は取った。遠藤さんは浪漫思考ではあるが、無謀は好まない。


 何が起こるかが分からない、それもレースの側面だ。


 ホワやキナコさんには悪いが、状況次第では凡走のままに終わらせる事も、彩音は視野に入れていた。


 何だかんだ言いつつも、幼少期のホワには歩行異常が有ったのは事実。無事に走り切る……それもまた大事なのが、競馬なのだ。



 ……で、話を戻す。



 正一の評価では、今日のホワの調子は良い、とのこと。


 ボテンシャルも悪くないし、輸送によるダメージもほとんどない。馬群に呑まれないようにすれば、好走を期待できる……とのことだ。


 それに関しては、彩音も同意見である。


 現時点で、ホワの適性は1600m前後だろうというのが置田の予測だ。


 ホワの父であるマッスグドンドンも、だいたい2200m前後がリミットだった。なので、コレに関しても、同意見である。



「よしよし、大丈夫、大丈夫、怖くない怖くない、すぐに開くからね、私が付いているから、頑張ろうね」

『──ヒヒン!』



 返し馬も無事に終わり、いよいよ準備されたゲートへと向かう。これまた幸いにも、ホワの両隣の馬は落ち着いてゲートに入ってくれた。


 というより、穏やかな性格が良い方向に働いているのか、ホワはゲートを全く嫌がらない。そういう意味での図太さは、彩音としても大歓迎である。


 後は、その図太さがレースにおいても良い方向に働いてくれれば……さて、だ。



 ──さあ、身構えて。



 囁くようにホワへと呟けば、意図を察したのか、ホワは軽く身構えた。



 ──本当に、君は賢い馬だ。



 そう微笑むと同時に、彩音は──ガラリと意識を切り替える。周りの音が小さくなり、心臓の音が高らかに……そして、誰も彼もが息を潜めるように集中──瞬間。



 ──ゲートが、開かれた。



 直後、慌ただしく、あるいは、若々しく走り出す新馬たち。遮られていた光が、一斉に騎手たちごと馬体を照らす。


 競走馬としての最初の一歩を踏み出し、100秒にも満たないレースの先頭へと真っ先に躍り出たのは……葦毛の馬だった。



(──想定より加速が早い!?)



 その瞬間、肉体の動きこそホワのダッシュを阻害しないように動いてはいたが、その内心では、どうしたものかと即座に思考を始めていた。



(馬群を嫌がるのは想定内だけど、ここまで嫌うとは……見知らぬ馬だから?)



 他の馬を嫌がって先行するか、あるいはケツから行くか……そのどちらかになる可能性は、彩音も想定していた。


 だから、先頭ハナを進むか、ポツンと殿しんがりか……そのどちらかになるだろうと考えていたが、この加速具合は想定を上回っていた。


 ぐんぐん、ぐんぐん、と。


 乗っている彩音にもはっきり分かるぐらいに、ホワの身体が馬群を突き放す。景色が瞬く間に後ろへ流れて行き、合わせて、他の馬の足音も遠ざかってゆく



(……いけない、このペースでは)



 なにせ、スタート直後から他の馬よりも加速を進めているホワは、まだ300メートルの時点で既に2位の馬より2馬身以上も離している。


 これはもう、逃げではない。逃げを越えた大逃げ……いや、もはやこれは、破滅的大逃げと言っても良い加速だ。



(ほぼ確実に、最後の直線に入った辺りで力尽きてしまう……!)



 それを危惧した彩音は、カーブへと入る前に少しばかり手綱を引く。それを敏感に感じ取ったホワは、彩音の指示に従って軽く速度を落とした。


 ──が、駄目。


 落としても落としても、すぐに足の回転が早まってしまう。指示には従ってくれてはいるが、それでも……折り合いが付かないままにカーブへと入る。



(──え?)



 だが、不思議なことに、馬体の軌道が外へと膨らむ様子は見られない。


 あくまでも、緩やかに……その感触に、彩音はホワの制御を続けながら、内心にて首を傾げる。


 サラブレッドの闘争心、そこに火が点いて走り出しているのであれば、手綱を引いて減速させようとしたところで、そう簡単には止められない。


 実際、彩音は過去に何度か掛かった馬を抑えきれず、馬体が外へと膨らんでしまい入着を逃したことがあった。



(──もしかしたら、掛かっているわけではない? いえ、でも、反応からして他の馬に注意を向けているから、嫌がっているのは確かなようだし……)



 ……しかし、だ。



 その時とは違い、手綱より伝わってくる興奮や焦燥感といったモノが、今回はほとんど伝わってこない。


 気持ち良く……そう、少しばかり緊張は感じ取れるが、思うがままに気持ち良く走っているという感覚ばかりが伝わってくる。


 加えて、息もそこまで上がっていないし、変わらず左右に寄れる気配もない。


 いや、むしろ、外へと膨らまないよう意識的に加速を止めているおかげで、息をついているように……これは、いったい? 



(やはり馬群を嫌った? あるいは本番で隠れていた気性が表に……違う、これはどちらかというより……もしかして……!)



 考えている猶予は、ない。


 そうこうしているうちに、既に彩音を乗せたホワは最終コーナーを曲がり切り、最後の直線へと入る。


 未だリードを保っているおかげで、距離の貯金は出来ている。


 しかし、逃げ戦法を取った馬は、ここからゴールまでがとにかく長い。足を溜めていた他の馬に差されて1着を逃すなんて、よくある事だ。


 実際、最後のバロン棒が近づいて来るに合わせて、遠かった気配と足音が己に向けられているのを彩音は感じ取っていた。



 ──普通なら、ここで差されて終わりだ。



 ただの逃げ戦法ならともかく、大逃げや破滅逃げ戦法を取った後、最後の直線にて息切れしてしまったら、差し返すのはほぼ不可能。


 ペース配分を誤れば、良い記録を出せはしない。それは、馬だろうと人間だろうと同じ事だ。



(──違う、掛かっていない。ただ、気持ち良く走っているだけ。それだけで、自然と大逃げになっているだけなんだわ!)



 だが……この時、この瞬間──彩音は、己がこれまで培ってきた常識と経験を捨てて──ただ、前を進むホワに身を任せた。


 鞭は、必要ない。


 加速は、必要ない。


 ただ、手綱を持ったまま。邪魔をしないように、それでいて不必要な加速さえしなければ、このまま──そう、このまま! 



「──あっ」



 その、瞬間。


 視界の横で、ゴール板が後方へと流れて行くのを──彩音は、確かに見たのであった。



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