第七話の裏: ダービー前夜
時刻は、夜。
自室にて諸々の内職を済ませたキナコは、部屋の壁に取り付けたカレンダーの前に立った。
──きゅう、と。
カレンダーに続けて記された○マーク。それを記したキナコは、ふんすと赤らんだ頬で鼻息を吹いた。
それは……1から始まり、2、3、4と続き……淡く花丸が記された翌日の日曜日を前に、その日の○マークが土曜日に記された。
……暦上では、翌日の日曜日は特別な祝日というわけではない。
一年を通じて約50個前後ある、日曜日の一つだ。
だが、ホースマン……競馬に携わる者たちにとっては非常に重要で、大多数のホースマンにとっては挑戦することすら叶わない……年に一度のレースが開催される。
その名を、『東京優駿』。一般的には、『日本ダービー』の名で知られている、GⅠレースである。
幾つかのレースを勝利し、賞金を積み上げたサラブレッドの3歳馬。
年間7000頭近く生まれるとされる競走馬たちの、上澄みの上澄み。最大でも18頭しか挑戦出来ない、選ばれし競走馬たちのみが挑戦出来る頂き。
そこに……自分たちが育て上げた一頭が出走する。
その感動たるや、言葉では到底言い表せられないだろう。たとえそれが、毎年のようにダービーに所有馬を送り出している大手の牧場とて、変わらない。
ましてや、重賞どころかOP勝ちすらもバンザイ合唱の中小零細牧場ともなれば、長年かけて届いた夢にも等しい話であったし、それは過言でもなかった。
実際、キナコが所属(というか、稼業)している牧場の職員たちはみな、この牧場より飛び立った葦毛の馬……『ホワイトリベンジ』の勇姿にメロメロになっていた。
まあ、それも致し方ない。
なにせ、ホワイトリベンジ……『ホワ』は、キナコのみならず、タチバナ・ファームの者たちにとって、特別も特別な馬であるからだ。
と、いうのも、だ。
ホワは、タチバナ・ファームの功労馬である『マッスグドンドン』のラストクロップである。
この、『マッスグドンドン』に対しても、タチバナ・ファームは……特に、この牧場の娘であるキナコは特別な感情を抱いていた。
ホースマンの端くれである以上は、オーナーの指示無く特別扱いはよろしくない。分け隔てなく、愛情と厳しさと覚悟を持って接するのは大原則である。
それは、キナコも分かっている。伊達に、物心付いた頃から馬と接してきたわけではないのだから。
しかし、この『マッスグドンドン』……『マツドン(と、キナコは呼んでいた)』に関してだけは、どうしてもそれを守れなかった。
何故なら、このマツドンはキナコにとっては家族も同然……文字通り、タチバナ・ファームの経営を支えてきた存在であるからだ
そして、このマツドンはとにかく気性が穏やかであり、賢かった。
基本的にはデリケートな性質を持っている場合が多いサラブレッドの中では珍しく図太くて、人が近づいてもほとんど動じなかった。
なにより、優しい。嘶く事は滅多になく、観光客などにもスキンシップを取っていた。
キナコがまだ子供だった頃も、そうだ。
5歳6歳の子供なんて、馬にとっては足元を這い回る小動物みたいなもの。さぞ鬱陶しかっただろうし、払いのけたいと思ったことだろう。
でも、マツドンは絶対にキナコを邪険にはしなかった。
キナコが学校から帰ってくれば絶対に馬房から顔を覗かせたし、声を掛けたら離れていても必ず駆け寄って来た。
嫌な事があって落ち込んでいる時は鼻を寄せてきて、足元に居る時は間違っても蹴らないよう絶対にその場から動かなくなった。
キナコにとって、マツドンは己の成長と共に傍で見守ってくれていた……家族という言葉以外では推し量れない、特別な存在であった。
そのマツドンの、ラストクロップ。キナコでなくとも、特別な情の一つや二つは抱いても不思議ではなかった。
だが、そうして生まれた最後の一頭……後にホワイトリベンジと名付けられたホワは、お世辞にも、祝福されて生まれた存在ではなかった。
理由は、色々とある。細やかなモノから、致命的なモノまで、本当に色々な理由を背負ってホワは生まれてきた。
まず、立ち上がるのが遅かった。
この、立ち上がるまでの時間の速さがそのまま強さに結びつくわけではない。だが、だいたい名馬と呼ばれているやつは、立ち上がるまでの時間が早い傾向にあった。
なにより問題なのは……生まれたその時より、歩行に異常が見られたことだろう。
パッと見た限りでは変形の有無は確認出来なかったが、そんな事は慰めにもならない。明らかに異常が見られる時点で、だいたいは殺処分である。
馬というのは、単純に売りに出せる1歳ぐらいまで面倒を見るだけでも相当に費用が掛かる。
当然ながら、合間に医者が必要となれば費用は一気に跳ね上がる。加えて、何とか売りに出せるところまで成長出来たとしても、売れる保証は何も無い。
言うなれば、信用の問題だ。
馬というのは、基本的に高い買い物である。そして、当たり前だが生き物でもある。
生き物であるからこそ、購入後に異常が現れる場合があるし、実際にレースを走り始めてから顕在化する異常もある。
それに関しては馬主たちも感情は別として理解しているから、そこはそれほど問題ではない。問題なのは……販売する前の段階だ。
表向きを誤魔化せたとしても、次には続かない。
いや、それどころか、問題のある馬を売りつけたと話が広がれば、そのまま破産一直線なんて話もあり得る。
なにせ、単純に不良品を売りつけたというだけではない。
売りに出す段階に至るまで不良に気付けなかった牧場の馬など、誰が高い金を出して買おうと思うのだろうか。
それを言われなくとも肌で感じているからこそ、キナコが身を挺して守らなければ、ホワは乳を一滴も飲まないうちに殺処分になるところだったのだ。
けれども、そうはならなかった。
キナコと、キナコの熱意に感銘を受けたスタッフたちの努力と尽力によって、ホワはすくすくと育ち……だが、それでもまだホワには懸念材料があった。
成長と努力のおかげで歩行不安は解消されたが、やはり幼少期に問題があったとなれば基本的には買い手は付かない。
そして、ホワには……タイムリミットが有った。
──競走馬どころか、乗馬用としても買い手が付かない馬が辿る最後……それは、食肉の為の殺処分である。
競馬の世界というのは、厳密なまでに年齢によるタイムリミットが設定されている。
2歳のみが出られるレース、3歳のみが出られるレース、4歳以上の古馬のみが出られるレース、等々など。
スタートラインをクリアすれば、猶予はかなり伸びるしチャンスも広がる。
しかし、このスタートラインに立つこと事態、全ての馬が出来る事ではない。やはり、素質を感じ取れない馬は売れないまま残ってしまう。
そして、このスタートラインに立つ為に重要となるのが、幼少期のエピソードや血統……その馬の父や母の戦績が考慮される場合が非常に多いわけなのだが。
……残念なことに、ホワにはそのどちらも欠けていた。
極端に悪いわけではないが、良くも無い地味な親の戦績。
いや、全体的に見れば十二分に褒められる戦績なのだが、後継を残すとなるとパッとしない。
華やかな主流から外れた血統。
全てがそうだと決まっているわけではないが、やはり、主流になるには成るだけの実績があって、理由があるわけだ。
気性は穏やかで、闘争心が弱いのか人懐っこい性格。
今でこそレースでの負けん気の強さが露見しているが、レースに出るまで分からなかったというのは、かなりのマイナス項目だ。
そして、改善したとはいえ、幼少期での歩行不安。
正直、誰よりも面倒を見て愛情を注いでいたキナコですら、売れない可能性が高いと思っていた。食肉行きすらも、心の何処かで覚悟をしていた。
長い付き合いとはいえ、遠藤さんが購入してくれなかったら……いや、もう、その時点でホワにとっては奇跡的な出会いだとキナコは思っている。
そして、調教騎手であると同時に主戦騎手を務める事になる、柊彩音騎手。
彼女とは学校からの付き合いではあるが、彼女に依頼した時も、キナコは難しいと思っていた。
騎手というのは身体が資本であると同時に、事故がそのまま死に繋がりかねない危険な仕事でもある。
だから、歩行不安の噂が界隈に流れているのを知っていたキナコは、おそらく断られるだろう……そう、心の何処かで思っていた。
しかし、蓋を開けてみれば……だ。
柊彩音騎手はそのまま主戦騎手を務め、新馬戦を勝利し、そのまま2戦3戦と白星を続け、今年の最強馬と噂されていた『クレイジーボンバー』にも競り合い。
そして……ホースマンなら誰もが夢見るクラシック三冠の一つである『皐月賞』の冠を被り、二つ目の冠である『東京優駿』……『日本ダービー』への出走が確定した。
……まるで、夢を見ているようだ。
ホワが皐月賞を勝利したその日から、キナコは思うようになった。まるで、起きながら見ている、幸せでステキな夢だと。
──ぽろり、と。
ホワのこれまでの日々を思い返していると、涙が頬を伝った。その事に、キナコは特に慌てることなく涙を拭い……次いで、苦笑する。
最近は、特にこうだ。
悲しいわけではない。嬉しいとは、少し違う。感慨深い……というのも、しっくり来ないし……不快感も無い。
『マッスグドンドン』から、ホワへと続く道……ホワが生まれ、今に至るまでの日々を思い返すたび、どうしても涙がこみ上げてしまう。
開け放たれた箱から蛍が飛び立つように、言葉には出来ないナニカが涙に変わって溢れてしまう。
──勝ってほしい。ホースマンならば、当然の想いだ。
でも、同時に、勝てなくてもいいから無事に帰って来てほしい……そんな考えも脳裏を過る。
これは、おそらく競馬に携わる者ならば誰もが抱える矛盾した感覚なのだろう……と、キナコは思う。
──勝ってほしい、先頭を駆け抜け、勝利を掴んでほしい。
──負けてもいい、無事に怪我無く帰って来てくれるだけで。
グルグルと、二つの相反する感情がこの日もキナコの胸中にて回転を続ける。コレもまた、ホワが勝利を重ねる度にどんどん強くなり続ける感覚である。
(……駄目だ、こんな気持ちじゃ眠れない)
今が昼間であれば仕事に没頭してモヤモヤを振り払う事も出来るが、今は夜……夜勤でもないのに勝手に出れば、支障が出てしまう。
そう、判断したキナコは……パジャマの上に軽くカーディガンを羽織ると、寝る準備を始めている両親たちに声を掛けてから外へ出た。
行き先は……牧場の、というより、自宅の裏手にある、お墓である。とはいえ、それは橘家の名が刻まれたモノではない。
そのお墓は、たった一頭の……両親にとっても思い入れが直、キナコにとっても特別な、『マッスグドンドン』のお墓である。
……そう、マッスグドンドンは、既に亡くなっている。
元々、ホワが生まれた時にはもう高齢であった。
とはいえ、そのまま何事もなければ10年は生きられると誰もが思っていたが……お別れは、突然であった。
朝、馬房を見に行ったスタッフ曰く、『苦しんだ形跡もなく、穏やかな顔で冷たくなっていた』との事だった。
キナコも、その姿を目にした時、同じ事を思った。たぶん、眠っている間にそのまま息を引き取ったのだろう……と。
「……夜分遅くにごめんね、マツドン」
ホワと……マツドンの顔は、それほど似てはいない。
けれども、穏やかで人懐っこくも賢いその姿は、驚くほどに似ていると……ここで長年働いている者はみな、考えている。
「……マツドン。明日だよ、明日……マツドンの子供が、ダービーに挑戦するよ」
そして、それは……キナコもまた、同様に思っていた。
「お父さんもお母さんも、ううん、皆が夢見た日本ダービー……凄いよね、まさかマツドンの子供が挑戦する日が来るなんて夢にも思わなかったよ」
そっ、と
懐中電灯を片手に、伸ばした指先が墓石を撫でる。
かつては両手を伸ばしても脳天を撫でるのが一苦労だったのに、今では屈んでも余裕があるぐらいに小さくなってしまった……そうして、ふと、キナコは手を止めた。
「……マツドン、お願い、ホワを守って」
そうして、キナコは……深々と、頭を下げると。
「もう、これは私だけの夢じゃない。お父さんも、お母さんも、遠藤さんも、柊さんも、スタッフの皆も……みんなの夢を背負って走ってくれる」
「だから、ホワを守って。皆の為に走ってくれるホワを、守って」
「そして、無事に帰って来て。負けてもいい、怪我無く無事に帰って来てくれるだけで……それだけで、私は嬉しいから」
──だから、お願い。
「ホワが……力いっぱい、悔いなく走れるように……見守って、お願いね、お願いだよ」
そう、キナコは……物言わぬ彼の墓石に語り続けたのであった。
……。
……。
…………現在、5月○○日、23時17分。
JRA施行『東京優駿』。
通称、『日本ダービー』まで、あと……。
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