第七話: 高まる熱気、ダービーへと続く道
──馬にも筋肉痛ってあるんだな。
そう、彼が己の不調を自覚したのは、『クレイジーボンバー』とかいうくっそ強い馬と競り合い、勝利した翌日……目を覚ましてすぐであった。
まず、身体が軋む。
ギシギシと、油が切れてしまった歯車のように、あるいは、柔軟性が終わってしまったゴムのように、身体を動かすのが億劫であった。
次に、全身が痛んだ。
考えなくても、彼は分かった。その痛みは筋肉痛であり、その証拠に、おとなしく横たわっていると嘘のように痛みは消えるが、少しでも動かした途端に痛みが走った。
とはいえ、戸惑いは無かった。
何故なら、なんとなくではあるが、これは筋肉痛になりそうだな……みたいな感じで予感していたからだ。
身体が熱っぽいというか、ギシギシと軋むような感覚がするというか。
人間の時の、思いっきり身体を動かした日の夜みたいな感覚を覚えていた。だから、これは翌日……と覚悟していたからこそ、彼は特に驚かなかった。
加えて、こうなるに至る心当たりもあった。
それは、前述した、『クレイジーボンバー』との競り合いという名の激闘を制したことだろう。
これまで、彼は一度として本気で走った事がなか……いや、練習として本気で走った事はいっぱいある。
坂道ダッシュとか、坂道ダッシュとか、坂道ダッシュとか……が、あの時のアレは、ソレとは全くの別物であった。
文字通り、全身の細胞が湧き立つような感覚の中でも全力であった。
脇目も向けずに最初から最後まで先頭を走り続ける。彩音さんと共に、見事1着を勝ち取る事が出来たが……その反動は大きかったようだ。
(これ、普通の馬だったら自分の状態が分からずパニックになるんじゃね?)
こういう時、人間だった時の知識が非常に役に立つ。
馬の身体なんてさっぱり分からないが、ある程度の見当というか、推測する事が出来るからだ。
歩く事が馬にとっては大事である事を理屈として理解したように、己の身に起こっている不調も、その知識からおおよそ察する事が出来た。
だから……身体が痛くて起き上がるのが辛かった彼は、誰か来るまでゴロゴロ横になっているか……みたいな軽い気持ちで職員の皆様を待っていた……のだが。
『──ホワ、大丈夫か!?』
挨拶と共に、己が寝泊まりしている部屋を覗いて──開口一番。
疲れているから二度寝してしまうわぁ……といった感じでウトウトしていた彼は、その只ならぬ呼び声にビクッと目を覚ました。
『おい、獣医を呼んで来てくれ。コズミだとは思うが、念には念を……』
『は、はい!』
見やれば、何時も部屋の藁やら掃除やらをしてくれるオジサンが、何時の間にか部屋の中に入っていて……真剣な顔で己の身体を見下ろしていた。
さわさわっ、と。
具合を確かめるかのように、彼はオジサンに身体を触られる。たぶん、筋肉痛の具合を見ているんだろうなあ……といった感じで眺める。
正直、痛いところを摩られ揉まれは嫌なのだが、相手が真剣なので、黙って彼は受け入れた。
言葉が通じてくれるなら、筋肉痛なので湿布でもくださいと声を掛けるところだが……残念な事に、通じないので我慢するしかない。
(う~ん、本当にただの筋肉痛だから、大事にされるのは嫌なんだけどなあ)
そうこうしているうちに、白衣を着た男が慌ただしくやってきた。かなり年配の人であり、走らなくてもいいよと彼はヒンと声を掛ける。
……そう、馬になって知った事だが、獣医もしっかり白衣を着ているのだ。
片手に持った分厚く膨らんだ鞄を開けば、中には見覚えのあるモノから見覚えのないモノまで所狭しと詰め込まれた器具が……と、思っていると、聴診器が取り出された。
……人も馬も、基本は同じというわけだ。
とはいえ、馬になってまでも白衣の人を見るとドキッと身構えてしまう事になろうとは、馬の身になるまでは夢にも……まあ、当たり前か。
されるがままペタペタと聴診器を宛がわれるの我慢し、肛門に体温計が差し込まれるのも我慢し、ブスッと痛みが強いところに注射されるのも我慢&我慢。
『昨日の今日ですからね、一晩寝た事で疲労がぶり返したのでしょう。少し重いコズミになっていますね』
『やっぱり……その、このまま安静にさせた方が良いでしょうか?』
『いえ、あまり長く横にさせるのも身体に悪いし、そこまでではないですから……とにかく栄養を取らせて、ゆっくりで良いから歩かせるようにしてください』
『はい、分かりました』
そうして、一通りの診察と処置を終えてぐったりしている彼の耳に聞こえてくる、獣医と職員の会話。
馬の知識など皆無な彼にとって、『こずみ(?)』が何を意味しているかは知らないが、おそらくは筋肉痛の一種だろうなあ……と、彼は推測した。
というか、ちょっと驚いたというか、意外に思った。
何故なら、獣医の説明……『こずみ』とやらの治療法が、人間で言う筋肉痛治療の手段というか、効果的とされている回復手段に似ていたからだ。
──そこらへんも、人も馬も一緒か。
そう、内心にて溜息を吐きながらも状況を改めて認識した彼は、目の前にドンと置かれた飼葉と、己を見下ろす置田……対して、横たわったまま見上げる己。
……置田が飼葉を置いた……いや、そんなしょうもない事を考えている場合ではない。
『どうだ、ホワ~、なんとかして食べてくれるか~?』
言葉による意思疎通が出来ない以上、無理やり食べさせようとして状態を悪化させるわけにはいかない。
なにより、人の側が危険だ。
基本的に臆病な性格をしている馬が多いとはいえ、本気で噛みつかれでもしたら人間の骨なんて簡単に砕かれてしまう。
だから、何とか声掛けして宥めて少しでも食べてもらう必要があるわけだが……ここで問題となるのが、彼である。
おそらく、彼の意識が馬であったならば、身体を治そうと本能的に食べようとしたのかもしれない。
だが、そうではない。少なくとも、彼の知性は人のソレである。
食べなくてはならないとは分かっていても、今は食べるより寝ていたいのだぜこっちは……といった感じで、知性が本能を邪魔してしまう。
ぶっちゃけ、眠気の方が強いわけである。
正直、そこに置いておいてくれたら後で食べるよ……といった感じなのだが、上手く通じてくれない以上は無意味に心配させるだけである。
まあ、客観的に考えたら心配されて当たり前ではある。
普段は厳しいトレーニングをこなした後でもモシャモシャと飼葉を平らげる大食漢が、飲まず食わずで横になり続けているのだ。
これで心配するなというのが無茶だ。
仮に彼が逆の立場だったなら、置田と同じく困り果てた顔で見下ろしていただろうなあ……と、彼は眠い頭で考えていた。
『……ホワ? 大丈夫? 昨日ので疲れちゃった?』
(──あっ、彩音さん。来てくれたんですね)
そうしてしばらくの間、置田たち(さすがに、何時までも彼に付きっきりではいられないので)が代わる代わる様子を見に来たが、変わらず彼はウトウトしていた。
というか、起きているのか寝ているのかよく分からん状態だった。
感覚的に、布団の中でダラダラと二度寝三度寝四度寝をしているみたいな感じだろうか。
彼としては、もうしばらくダラダラ寝ていたいなあ……といった気持ちだったのだが、彩音が来てくれた以上は無視出来なかった。
──ヒン。
彩音さん、来てくれたのは嬉しいんですけど、今日はちょっと眠いんですよ……といった思いを込めて、一鳴きしたわけだが。
『う~ん、お疲れみたいだね……ホワ、お願いだから、お水だけでも飲んでね』
案の定、通じなかった。
まあ、仕方がない。だって、馬だし。
人間の感覚で考えれば、だ。
空腹を我慢しつつ寝ようとしているのであればともかく、空腹よりも眠気な時に、目の前で食事を並べられてどれだけの人間が飛び付くだろうか。
おそらく、だいたいの人は、後で食べるからラップを掛けておいてとだけ言い残して二度寝するだろう。
今の彼の気分は、正しくソレであった。
心配して来てくれたのは本当にありがたいのだが、正直な話、放っておいてくれても良いのよ……みたいな感覚で彩音たちを眺めて──。
『う~ん、オヤツにと林檎とバナナを用意したけど、この様子だと食べられないかな……』
(え、待って)
──今、なんと仰いましたか?
むくり、と。
聞き捨てならない単語に、彼は痛む四肢を堪えて身体を起こす。驚く彩音たちを他所に、よっこらせと立ち上がった彼は……チラリと、辺りを見回した。
すると、柵が掛けられた出入り口の傍から匂いがする。彼には一嗅ぎで分かった、美味しくて甘そうな匂いだ、眠気も吹っ飛んだ。
馬になって分かった事なのだが、馬の身体は本当に甘味が浸みる。特に、疲れている時は格別だ。
氷砂糖もそうだし、果物もそうだし、ニンジンなんかの甘みも、人間だった時よりも桁違いに美味く感じる。
そんな彼にとって、目の前で果物があるよと言われて、おとなしく二度寝をキメていられるだろうか……いや、有り得ない!
(さすがは彩音さん、馬の欲しがる物をピックアップしてくるとは……恐れ入りました!)
呆気に取られている彩音を他所に、そこへ近寄る。すると、スーパーのビニール袋が、部屋の外にポツンと置かれていた。
──ヒン。
一鳴きして催促すれば、察した彩音は袋の中より大きなタッパーを取り出し……馬の口に合わせてカットされたソレを、そっと差し出された。
それを、一口でパクリ。
途端、口内に広がる果物の芳醇な香りと暴力的な旨味&甘味。
ねっとりと、五臓六腑に甘露が染み渡るかのような感覚だ。こればかりは、馬になってみないと理解出来ない感覚だろう。
もう一口、もう一口と彼は催促する。
もっとだ、もっと寄越すのだと訴える胃袋を宥めつつ、急かされるがまま彼はカットフルーツをパクパクしてゆく……と。
『……ごめんね、ホワ。今ので最後だから、もう無いんだ』
(──え?)
これまた案の定というべきか、用意してくれていたタッパーの中身をあっという間に平らげてしまった。
まだちょっとしか食べていないのに……そう思った彼だが、彼がそう思ってしまうのも致し方ない。
彩音がタッパーに用意してきた量は、あくまでもオヤツとして出せる量だ。
本命は栄養面等を考慮した飼葉であり、そっちを食べ終えた後でと考えていたので、食事として与えるには元々少量であった。
加えて、彼は他の馬よりもよく食べる方だ。疲労で普段より食べられなかったとしても、空きっ腹を満たすには足りなかったわけである。
──ヒン。
(……あの、実は冗談で後ろにこっそりとか……ありますよね?)
そんな感じで、彼は薄々勘付いてはいながらも、彩音におかわりを催促したが……現実は無情であった。
『ごめんね、ホワ。欲しそうに甘えてくれるのは嬉しいけど、本当にもう無いんだよ』
(ガーン……やっぱり、もう無いのか……)
改めて、全て食べきったのだと言われた彼は……無い物は無いのだから仕方がないと諦め、少しばかり水を飲むと……再び小屋の奥へと戻り、ゴロリと横になった。
『あっ、ホワ、駄目だよ、痛くても少しは歩かないと!』
(そうは言っても彩音さん、俺はもう眠いんですよ。果物だけでも腹に入れましたし、消化が終わるまでは寝ている方が回復が早いと思います)
『ホワ、お願いだから起きて! 少しでいいから歩こう、ね、良い子だから!』
(大丈夫っすよ、一眠りしたら頑張りますんで、それまでちょっと休憩するだけですから)
『ちょ、あーもう、寝ちゃ駄目だって!』
(お休み、お休み、お休み……また、小一時間後に会いましょう)
なにやら狼狽える彩音を他所に、ヒンヒンと小気味よく返事をしながらも、彼の意識は瞬く間に微睡の向こうへと進んでゆく。
そうなってしまえば、もう無理だ。
グイグイと身体を押されて起こされようとしているが、その程度で馬の身体はビクともしない。
騎手としてバランスよく鍛えている彩音であっても、その体重差は約数倍。体重のある男性スタッフだって、体重差は4倍以上。
彼が協力してくれるならともかく、寝入ろうとする馬体を起こして上げるのは彩音1人では不可能であった。
というか、彩音に限らず、スタッフの誰であろうが不可能だろう。馬は、一般人が思うよりもはるかにデリケートな生き物だ。
中身が人間である彼は知る由もないことだが、機嫌を損ねた結果、その苛立ちのあまり怪我をしてしまう事例は後を絶たない。
こうなってしまった場合は、機嫌が回復するまで放置するのも一つの手段であった。
『──お~い、ホワはどうだった?』
『あ、置田さん。それが、この調子で……』
『まあ、果物だけでも食べてくれたんなら良いだろ。水は……ちょっとは飲んでくれたのか。まあ、寝ちゃったなら仕方ないか』
『すみません、少しだけでも歩いてもらおうと思ったのですが、あっという間にこうなってしまい……』
『いやいや、気にしなくていい。ホワはマイペースな所があるからな、無理やりやらせて機嫌を損ねるよりずっとマシさ』
そうして、再びウトウトとしていると……先ほどと同じく、彩音たちの会話が耳に入って来たので、彼は黙って耳を澄ませていた。
内容はまあ、語るまでも無い。
要は、色々する予定だったのが出来なくてすみませんと頭を下げる彩音と、仕方がないと苦笑する置田との雑談である。
実際、彼も彩音たちの雑談に耳こそ澄ませていたが、特に気になってはいなかった。
それよりも、少しとはいえ腹が満たされたので、先ほどよりも眠気が強く、このまま眠れたら気持ち良いだろうなあ……という考えしか頭に──。
『でも、ある程度回復してからでないと放牧に出せませんから、キナコちゃんもガッカリするでしょうね』
『そうだな……それに、ダービーを来月に控えた今、少しでも早く回復してもらう為にも短期放牧を行いたいところだ……が、この様子だと今回の放牧は難しいかもしれんぞ』
『輸送に強いといっても、こんなに消耗した状態では逆効果になりかねませんし……どうにかして、体力だけでも回復してくれたら良いのですけど……』
──今、なんと仰いましたか?
むくり、と。
聞き捨てならない単語に、彼は痛む四肢を堪えて身体を起こす。
驚く彩音たちを他所に、よっこらせと立ち上がった彼は……ふんす、と鼻息を吹いた。
(キナコさんをガッカリさせてしまうとなれば、気合を入れないわけにはいかない……!)
それに、だ。
(ダービー……日本ダービーか! そうか、そうだ、彩音さんも言っていたじゃないか! これから走るレースの一つに、日本ダービーがあるって!)
彩音たちの会話に紛れていた、『ダービー』の四文字。
それは、競馬知識の薄い彼ですら知っている単語であり、競馬の世界においても、そのレースが非常に特別なレースである事を知っていた。
そう、そのレースに己が出るのだ。
どうして選ばれたのかは知らないが、2人の会話から察するに、そのレースに出る事は確定と考えて良いだろう……そうだ、そうなのだ、ついにその時が来るのだ!
(こうしちゃいられねえ、眠いとか言っている場合じゃねえぞ!)
日本ダービー……それほど有名なレースならば、この前走った『皐月賞』というレースよりも、よほど強い馬が出て来ると覚悟しておいた方が良いだろう。
つまり、前以上の激戦が予想される。『クレイジーボンバー』ですら、あれ程苦戦したのだ……アレ以上となれば、前と同じ感覚で挑めば負ける可能性が高い。
(食える物は片っ端から食って血肉に変えて回復しないと、来月のレースに間に合わねーじゃねえかよ!)
それに、それだけのレースに出るとなれば、キナコさんたちも物凄く心配するだろう。
キナコさんたちを安心させる為にも、モリモリ食べて、モリモリ力を付けて、出れば勝利は確実……そう思わせてやらねば、男が廃るというものだ!
そう、内心にてこっそり決意を固めた彼は……痛む身体を堪えながら、飼葉の入った籠へと顔を突っ込み、モシャモシャと食べ始めるのであった。
……。
……。
…………そのようにして、食べる事に集中し始めた彼は。
『……もしかして、牧場の娘さんの名に反応したのか?』
『そう、かもしれませんね。ホワは、キナコさんのことが大好きですから……ここで寝ていると、会えないかもしれないと思ったのかもしれません』
『ええ? さすがにそれは……いや、雰囲気から感じ取ったのか?』
『それは分かりませんが、頑張ればキナコさんに会わせてもらえると思ったのかもしれません』
『……なんにせよ、やる気を出してくれたのはありがたい限りだ』
いきなり活発に動き出した彼を見て、思わず笑みを零していた二人の姿に全く気付いていなかった。
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