第六話: サラブレッドの宿命
──己がデブった事に、彼が気付いたのは……放牧を終えて故郷を離れ、トレセンへと戻って来た時だった。
いや、嘘だ。ごめん、嘘を付いた。
正直に言わせてもらうなら、故郷に居た段階で薄々気付いていた。しかし、彼はそれから目を逸らし続けていた。
理由は、キナコさんの用意してくれる林檎やバナナが本当に美味いからだ。
こう、なんというか……馬の身体に成った影響なのかは不明だが、人間だった時よりも甘いモノがずいぶんの身に染みるのだ。
特に、果物がヤバい。馬だからなのか、人参なんかも人間の時よりも甘くて美味く感じるが、果物が本当にヤバい。
こう、ねっとりとした幸せというやつだろうか。
氷砂糖なんかも非常に美味いが、果物の甘さはこう……美味さが後を引くのだ。ジワジワと、甘味が臓腑に沁み渡るような美味しさに感じる。
おかげで、果物を出されたらもうパクパクだ。
おまけに、キナコさんは必ずブラッシングをしてくれるし、朝晩の散歩もニコニコ笑顔で連れて行ってくれる。
トレセンでは当たり前に行われた厳しいトレーニングも無いし、プールであっぷあっぷと喘ぐ必要もない。
そんな日常の中に入ったせいか……知らず知らずのうちに、いや、日が経つたびに、己の中で燻っていた様々な感情が穏やかになってゆくのを、彼は自覚していた。
……レースを終えてトレセンに戻って来た当初は、あの野郎次は絶対にぶちのめすぞと言わんばかりに気が荒ぶっていた。
調教師たちからも『これはヤバい、とにかく気を落ち着かせないと負傷に繋がる』と顔を青ざめられていたが、この時の彼は全く気付いていなかった。
おそらく、だからこそ、なのだろう。
慌ただしく用意された車に乗せられ、何時もより少しばかり飛ばしてないかと思いながらも、早くトレーニングさせろとイライラしながら待ち続け。
そうして、到着したのは……生まれ故郷である牧場だ。
それを見た彼は、最初こそ休養なんぞいらんと不機嫌を露わにしたが、待っていたキナコさんたちの笑顔を見て、すぐに考えを改めた。
と、いうより、少し頭が冷えたのだろう。
よくよく考えてみれば、本気でレースを走り終えてからまともに休息を取っていない。休息も取らずにトレーニングを行ったって得られるのは怪我ぐらいだ。
人間だって、身体を酷使したら休むのが基本である。若さに任せて無理をすることは可能だが、そのツケは必ず後年になって降りかかる。
……たった一度の敗北。それは、事実である。
──されど、リベンジ出来る敗北でしかない。
そう、今更ながらに思い出した彼は……ホッと気を緩めるキナコさんたちに綱を引かれて、幼少期に己の部屋として使っていた場所へと、腰を落ち着けたのであった。
それからは……まあ、穏やかな日常であった。
トレセンに有る設備が、此処には無い。当然だ、ここは牧場であり、騎乗訓練ぐらいは出来ても、走ってトレーニング出来るようにはなっていない。
幼少期ならともかく、ほぼ大人になった今の身体で走り回るには手狭である。隣の原っぱとて、全力で走り回るには広さが足りないぐらいだ。
なので、彼が出来る事といったら。
散歩して疲労物質を流してやるという人の知識に則って歩き回る事と、出される食事を美味しく平らげるぐらいであった。
……まあ、そんなわけで、だ。
気付けば、あれだけ腹の奥底より湧き出ていた苛立ちを、彼は感じなくなっていた。
加えて、彼の心をさらに安らげたのは、顔を合わせるたびにキナコが掛けてくれる言葉であった。
キナコは、レースに関する事をほとんど言葉にしなかった。
他の人達は、『惜しかったな』とか『次は勝てるぞ』とか、声を掛けて来た。でも、キナコだけは、レースの結果や次回よりも、無事に戻って来たことをとても喜んでくれた。
その態度が……不思議なぐらいに、負けてショックを受けていた彼の心によく浸みた。
──惜しかったなんて、そんなのは自分が一番良く分かっている。
だからこそ、惜しかったなんて言葉を聞きたくはなかった。言変えれば、それは負けた事を再確認させられているような気がして、嫌だったからだ。
──次は勝てるなんて、そんなのは自分が一番良く分かっている。
だが、そうじゃない。彼は次ではなく、あの時も勝ちたかったのだ。次はなんて、これも、あの時の敗北を突きつけられている気がして、どうにも嫌だった。
それらに対して……キナコさんだけは、勝ち負けよりも、怪我無く戻って来たことを喜んでくれて……だからこそ、彼は改めて誓ったのだ。
(二度と……二度と、こんな情けない姿は見せねえ! 次はトロフィーも咥えて戻って……あれ、そういえばトロフィーって競馬とかにもあるのか?)
……まあ、ちょっとしょうもない事も考えていたが、とにかく、彼はウジウジと敗北を引きずろうとしていた己に発破を掛け、心機一転……トレセンへと戻って来たわけであった。
『……ホワ、おまえ』
そうして、意気揚々と車を降りて、懐かしの(とはいっても、そう長く離れていたわけではないけど)顔である置田を見やった彼は。
『……いくら何でも太り過ぎだろ。お前、どんだけ食っちゃ寝していたんだ?』
(マジごめん、置田さん)
まさか、顔合わせ早々デブ判定を受ける事になろうとは、夢にも思って……ごめん、嘘だ、薄々分かってはいたけど、改めて指摘された彼は……素直に反省した。
いや、まあ、分かってはいた事だし、怠慢の結果だから彼は甘んじて受け入れた。
半ばストレス発散の為のやけ食いとはいえ、必要以上に食えば太るのは当たり前。そこに人も馬も関係なく……気付けば、彼は一回り近く身体に贅肉を蓄えていたわけだ。
そりゃあ、置田も絶句するだろう。
メンタルを持ち直すことに成功したとはいえ、ちょいと休息させる為に送り出した期待の一頭が、ぽっちゃり体型になって帰ってきたのだから。
──ヒヒン。
それを薄ら察しているからこそ、彼はヒヒンと鳴いて謝った。膝をついて落ち込む置田から視線を逸らし……その先に居た、彩音と目が合った。
『……その、大きくなったわね』
(マジごめん、彩音さん)
一生懸命言葉を選びつつも、よ~くお肉が付いたお腹まわりに向けられる視線に、彼は穴に入りたい気持ちであった。
『……すまん、柊。初日は乗ってもらって軽く歩行訓練させようと思ったけど、この太り方は予想外だ。足に負担を掛けないようプールから始める』
『いえいえ、仕方ありません。古馬ならともかく、まだまだ若いですから無理をさせるわけにもいきませんし……』
そんな会話をしている二人を他所に、彼は……まあ、そうなるだろうなあと内心にて溜息を零した。
プールはたしかに苦しいが、膝や足腰に負担を掛けない運動としては最適だ。
人間だって、太り過ぎの人には只のウオーキングではなく、水中ウオーキングを勧められるぐらいには、関節への負担が軽減されるのだ。
いくらプール嫌いとはいえ、生体的に足に弱点を抱えているサラブレッドに、その弱点を酷使する運動はさせられない……そう考えるのも、必然であった。
本来なら、食事量を減らしつつ時間を掛けてゆっくり体重を落とすのが定石だが……まあ、彼は知らなかったし気付いていなかったが、タイムリミットが迫って来ている以上は、そんな悠長な事を言っていられる暇はないのであった。
『……ホワ、お前も薄々悪いなって思っているんだな。何時も以上に素直に付いて来るじゃないか』
(ほんと、マジでごめんなさい)
『でも、おやつは無しだぞ。マジで10gでも体重を落とさないと、下手すればステップ無しで皐月賞に直行なんて事態になりかねないからな』
(マジでごめ……さつき? はて、どこかで聞いた覚えがあるような……)
とはいえ、彼もマズイことをしてしまったのだけは理解していたので、この時ばかりは嫌いなプールであろうとおとなしく頑張る所存であった。
……で、それから約一ヶ月半の月日が流れた後。
(……あれ? さつき賞とか言う名前じゃなかったっけ? あ、次? 次のレースがさつき賞なの?)
無事に、彼はレースへと勝利を果たし……そのままトレセンにて休養を挟みつつ、自走へのトレーニングが再開された。
とはいえ、やる事は以前と変わらない。
奇抜なトレーニングなんてのは、結局のところは漫画やアニメの世界でのみ通用する話であり、従来の方法ではどうにもならない時に行う、ギャンブルみたいなものだ。
現実は、積み重なったデータを元に行う利に叶ったトレーニングが最適である。
──すなわち、良く食べて、良く動いて、良く休む。ただ、それだけ。
もちろん、単純にそれさえ繰り返せば強くなるかと言えば、そんなわけもない。
蹄を始めとして毎日状態はチェックされるし、歩行に少しでも異常が見られたら即座に獣医が駆けつけて診察する。
食べる物だって、毎回同じ量を出すわけではない。糞便の状態から内容を変えたり、多くしたりも少なくしたりもする。
トレーニングだって、そうだ。只々闇雲に走らせるわけではないし、プールだってただ繰り返せば良いってわけでもない。
馬は、人間のように自己主張をしない。というより、痛いと訴えて周りに知らせる方が、生物としては稀なのだ。
だから、トレセンのスタッフたちは業務の最中でも、注意して観察をする。忙しくとも、普段とは異なるナニカが見られたら、まず報告を行うわけだ。
(……よく分からんけど、次のレースは……前に俺が負けたレースと同じ、特別なレースなんだろう)
そして、以前よりもずっと強めにそんな視線を向けられていた彼は、薄らとではあるが……迫り来る本番を前に、黙々とトレーニングに励むのであった。
……。
……。
…………そうして、さらに月日は流れ……トレセン職員たちの会話から、『本番は三日後』ということを知った……その日のお昼を少し回った頃。
──ぱっか、ぱっか、ぱっか。
疲労を残さないようにと、この日からトレーニングは中止。なので、彩音より綱を引かれて……トレセン内の定められたルートを、パカパカと歩いていた。
……やれるだけの事は、やった。そう、彼は思った。
少なくとも、これ以上のナニカをヤレと言われても、彼は思いつかなかった。例の走り方の練習だって、結局のところはいつものトレーニングの延長線上にあるからだ。
トレセンに戻った時にあった贅肉はすっかり落ちて、以前のように……いや、以前よりも身体が軽くなっているような気さえする。
なのに、力強さは以前よりもハッキリと自覚出来る。
以前よりも速くなったかどうかは不明だが、トレセン内のコースを走った後、置田や彩音が笑顔になっているのを見て、彼は己の成長を薄らと実感していた。
『……ホワ、もうすぐ皐月賞が始まるよ』
そんな中、ポツリと……彩音が呟いた。
視線を向ければ、彩音は振り返らずに前を見たままだ。
どうやら、半分は自分への独り言、半分は己に言い聞かせるかのような気持ちなのだろうと察した彼は、耳だけを彩音へと向ける。
『……私たち騎手にとって、これから始まるクラシック三冠レースというのは本当に特別なんだよ』
──ひひん、と。
相槌を打つように小さく鳴けば、彩音はフフッと笑みを零した。
『皐月賞、日本ダービー、菊花賞。この三つの賞は、ホワが生まれるずっと前から……それこそ、私が生まれる前からずーっと特別視されてきた』
──ひひん。
『騎手を目指した者なら、何が何でも取りたいと願う。日本ダービーが特別視されることも多いけど、私にとっては……この三つだけは、やっぱり特別かな』
──ひひん。
『望んだって、挑めない。実力が有ったって、機会に恵まれなかったら挑めない。条件を満たし、選ばれた3歳の競走馬だけが挑める……生涯一度だけのレース』
──ひひん。
『それは、騎手だけじゃない。競馬に関わる者たちなら、誰だって夢見る場所。自分が購入した馬が、自分たちが育てた馬が、自分が乗った馬が……クラシック三冠に挑む』
──ひひん。
『その感動は、言葉では説明出来ない。実際に、その立場になった私が言うんだもの……本当に、凄く不思議な気分よ』
──ひひん。
『始まるは最初の一冠、皐月賞。最も早い馬が勝つと言われているレース……それが、三日後に始まる』
そう、呟いたと同時に……彩音は、足を止めた。
合わせて彼も足を止めれば、彩音と彼は穏やかな春の陽気の中で……静かに、立ち尽くす。
……。
……。
…………沈黙が、有った。けれども、けして長くはなかった。
『──勝とうね、ホワ。今年の三冠馬はホワイトリベンジ。クレイジーじゃない……その為にも、私も頑張るから』
そう、彩音は彼に……そして、己に言い聞かせるようにポツリと呟くと、また、綱を引いて歩き出した。
(……彩音さん)
その、後ろ姿を見つめながら……彼は、思う。
こういう時、人間だった時と同じく言葉が話せたら。
……そう、思う。これまで幾度となく思ってきて、今回も同じことを思った。
中身が人間だからなのか、周りの人たちの言葉を理解することは出来る。しかし、こちらから言葉を話す事は出来ない。
文字だって、普通の文字はぼやけてよく見えない。テレビだって、同様だ。
顔よりも臭いや声で誰かを識別することに慣れてから、どれぐらい経っただろうか。
(……言葉が通じないし、通じるわけがないと思っているからこそ、彩音さんも俺に本音で話してくれているんだけど)
……ちょっと、寂しいな。
そう、彼は思った。所詮は無いモノねだり……今の己は馬だ。
だが、馬になったからこそ出来る事もある。
たとえば、彩音を背に乗せて駆けること。勝利すれば、大金が入って来て皆が喜ぶ。
それに、今しがたの言葉……単純な金だけではない。
みんな、本気なのだ。老若男女の区別なく、誰もが本気で1着を狙っているのだ。
たかが数分の駆けっこだが、そのたかがに人生を捧げ、一喜一憂し、大粒の涙を零し、歯を食いしばって……あっ。
(……そうか、そうだったのか)
その瞬間──彼は、唐突に……それでいて、今更ながらに気付いた。
己があのとき涙を零したのは、単純に敗北しただけが理由ではない。
無意識のうちに、認識していたのだ。
己の背に乗せられた想いを。
己を送り出す為に動いた者たちの愛を。
己はただ走っているのではない。
彩音を乗せているだけではない。
もっと大勢の……様々な人たちの夢を乗せて、走っていたのだ。
(……俺は、もしかしたらみんなの期待に応えられなかったと、無意識の内に思っていたのかもしれない)
──今、ひとたびの夢を。
この日、この時、この瞬間。
彼は……己が出来なかった未練とは別に、キナコたちへの恩返しとは別に。
(……勝つぞ、俺は!)
もう一度、己に乗せてくれた夢を背に……彩音と一緒に、レースへと……固く、固く、固く……誓うのであった。
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