第十七話: タイムリミットは誰にでも……



 ──やったぜ大勝利! 




 久しぶりのレースは少しばかり緊張したが、無事に勝利をすることが出来た。


 やはり、日頃の坂道ダッシュとプールのおかげだろう。


 プールは運動というよりはストレッチの感覚が強いので、その分だけ坂道ダッシュを頑張っているが……とにかく、無事に勝てて良かったと彼は思った。



(ふ~……しかし、久しぶりのレースだからか、今回のレースは疲れたぜ)



 そうして、何時ものように生まれ故郷である牧場へと戻って来た彼は……何時ものように飼葉を食べながらも……どうにも、違和感を覚えていた。



 その違和感の正体を、彼は上手く言語化出来なかった。


 何処が痛いとか、調子が悪いとか、そういうのではない。



 前回のレースを終えた時に比べて、どうにも疲労が重いような気がする……が、気のせいかと言われたら、気のせいかなと思う程度の違和感だ。



 食欲は普通にある。


 水だって、ガブガブ飲める。


 眠くなれば何時もと同じようにグウグウねむねむ出来る。



 というか、その違和感も、一週間もしたら完全に無くなってしまった。



 だから、余計にその違和感の正体が分からなくなった。


 とりあえず、違和感が消えてからもしばらく注意深く様子見していたが……今のところ、異常は全く見られなかった。



(あ~……もしかして、夏バテ?)



 ぱっかぱっか、と。


 原っぱにてのんびり散歩をしつつ、彼は日に日に気温が下がってゆくのを景色と共に体感しながら……ぼんやりと考えていた。



(季節的にはもう秋と冬の中間ぐらいだと思うけど……いや、夏バテに限らず、そういうのって季節の変わり目とかに出るらしいし……馬だって出ても不思議じゃねえか)



 さすがに、ポンポンとレースを挟まれると体力気力的にしんどい部分が出て来るが、こうして回復する猶予が与えられるのは非常にありがたい事であった。




 ……まあ、欲を言わせて貰えるならば、だ。




 出来るならば、風呂に入って疲れを取りたいなあ……と、思った。


 季節が冬に近付き、少しずつ肌寒くなるにつれて毎年実感することなのだが……風呂に入りたいなあ、と、彼は思っていた。


 前世の己が外国人……シャワー浴が当たり前の国で生まれていたら違ったのだろう。



 だが、そうではない。



 前世の彼は典型的な日本人であり、若い頃はまた別として、ある時期からは毎日入らないと気が済まないようになっていた。


 これはまあ、ある程度の歳を取らないと実感しにくい事なのだが……歳を取ると、分かるようになるのだ。



 ──湯船に浸かる、その気持ち良さを。



 これはまあ、アレだ。


 若い頃に比べて、身体の衰えを実感するようになった頃が特にそうだ。湯に浸された身体が熱で解れてゆく、あの感覚。


 アレだけは、若いうちは中々に実感しにくい感覚だろう。


 まあ、それを実感するということは、それだけ歳を取ったということなのだが……話を戻そう。



 とにかく、彼は風呂に入りたいなあ……と、思った。



 もちろん、全く湯に触れないわけではない。夏の時期は暑いので水のシャワーだが、冬のこの時期に限り、温水を掛けてもらえるが……彼が求めているのは、それではない。



(キナコさんたちの話では、なにやら競走馬専用の風呂があるらしいが……連れて行ってもらえないあたり、日帰りで帰れない遠方にあるんだろうか?)



 それは、もしゃもしゃと飼葉を食べている時にこそっと盗み聞きした話なのだが。


 どうやら……いや、又聞きなので本当かどうかは分からないが、いわゆる、お馬さん専用の風呂施設があるらしい。


 その話を耳にした時、彼は思わず嘶いてキナコたちを呼んだ。是非、その風呂に入らせてほしい、と。



 でも、全く通じなかった。


 いや、まあ、そりゃあそうだ。



 声を出している彼ですら、『ヒヒヒーン』である。人間の耳でも、同様に『ヒヒヒーン』としか聞こえなかっただろう。


 唯一、キナコだけは『ホワ、もしかしてお風呂に興味ある?』という具合で気付いてくれたが……珍しいことに、即決はしてくれなかった。



 だから、彼は思った。というか、察した。



 ああ、お馬さん用の風呂って……やっぱり人間と違って色々と準備がいるというか、すぐには入れないんだな……って。


 落ち着いて考えてみれば、これもまた、そりゃあそうだろうと思う話である。


 体重400~500kgの四足歩行の巨体が入れる風呂なんて、普通のお風呂では無理だ。専用に設計された風呂でないと、馬も、介助する人も危険である。


 ……で、少なくとも、人間だった時の彼は、そんな風呂があるだなんて話は耳にした覚えがない。



 つまり、そこから導き出される答えは……だ。



 単純に風呂の数が少なかったり遠方だったりと、色々な理由があって気軽に利用出来ないから……と、彼は思った。



 ……。



 ……。



 …………が、しかし、実際には……彼は想像すらしていなかったことなのだが、実はそれ以外にも理由があった。


 馬の身体や安全を考慮した設計になっており、これは湯の温度も馬に合わせてあるので、入ればちゃんと身体が温もる感覚を覚えられるようになっている。


 そう、湯船に浸かる入浴自体は、馬にとっても高いリラックス効果があり、名馬たちもお風呂を好んでいたという話はチラホラ見受けられていた。



 しかし、それはそれとして問題なのが……馬の命の要とも言える、蹄の問題だ。



 けっこう誤解されがちだが、馬の蹄というのは骨ではない。人間でいえば中指の爪が、蹄に当たる。


 そう、蹄とは爪であり、爪と同じ角質で出来ている。つまり、お湯(水もそうだけど)に長時間蹄を浸していると……ふやけてしまうのだ。


 人間ならそこまで気にする事はないが、馬にとっては非常に重要な問題だ。特に、生来的にサラブレッドは足が弱い。


 たかが蹄、されど蹄だ。


 彼は気付いていないが、プールの調教だって、事前に蹄の具合を見てから行われている。これが調教でなくとも、湯の中に入れるとなれば……やはり、事前の入念なチェックが居る。



 ──回復の為にお風呂に入るのに、それで新たな怪我を作ってしまっては本末転倒もいいところだろう。



 そういった諸々の事を考えるからこそ、珍しくキナコは困った顔でやり過ごしたわけで……まあ、無茶なおねだりというやつであった。



(まあ、動物って基本的に風呂に入らない生き物だし、キナコさんたちの事だ……きっと、そのうち予定を組んでくれるだろう)



 最終的に、そう結論を出した彼は、グインと軽く伸びをして……疲労回復も兼ねて、パッカパッカと散歩の続きを──ん? 



(これは……キナコさんの父と母か?)



 それは買い物の時ぐらいしか聞かない、牧場用とは別の車の音。どこか慌ただしい感じで牧場から離れて行くエンジン音を、彼は聞いた。


 記憶が正しければ、それを使うのは何かしらの私用でここを離れる時ぐらいだが……はて、買い物は昨日ぐらいに纏めて済ませていたはずだが……。



(東京とかだと、買い忘れてもコンビニでパパッと揃えられるけど、ここじゃあなあ……広くて落ち着く場所だけど、不便な面もあるってことか)



 とりあえず、馬の身である己に出来ることはなく……ついでに、オヤツとしてバナナとか買ってきてくれたら嬉しいなあ……と。


 興味を失った彼は、再び原っぱをパッカパッカと散歩するのであった。






 ……。



 ……。



 …………『天皇賞・秋』を終えて、まだ二週間と経っていない、とある秋の日。



 木枯らしがちらほらと吹き始め、一足早い冬の気配が訪れようとしている、とある秋晴れのその日。


 『タチバナ・ファーム』に掛かってきた一本の電話が、忙しなくも穏やかな空気が流れていた牧場の空気を一変させた。




「──遠藤さんが倒れた!? え、一昨日ぃ!?」




 それは、ホワの馬主である遠藤の息子からの電話であった。


 電話を受けたのは、『タチバナ・ファーム』の大黒柱である橘源吾であり、盗み聞きする形になった妙子は思わずコップを割ってしまった。



 2人がそこまで驚愕するのも、無理はない。



 何故なら、遠藤さんは、単なるお得意さんどころの話ではないからだ。


 誇張抜きで、今の『タチバナ・ファーム』が存続出来ているのは彼のおかげといっても過言ではない。


 事実として、ホワの活躍によって少しずつ右肩下がりになりつつあった『タチバナ・ファーム』も息を吹き返したが、それまで支えてくれたのは、馬を買い続けてくれた遠藤である。



 というか、そのホワだって、遠藤が買ってくれなかったら殺処分は免れなかった。



 運良く買い手が見つかっていたとしても、せいぜい乗馬用ぐらいで……つまり、全ては遠藤様のおかげである。


 本当に、『タチバナ・ファーム』にとって、足を向けて寝られない存在である。


 そして、そんな御人が倒れたとなれば、橘夫妻が動揺してしまうのも……当然であった。



「──失礼します、お電話変わりました、娘のキナコです。父と母は少し動揺してしまい……代わりに……はい、はい……」



 なので、ピンチヒッターとしてキナコが代わりに応対することになった。


 キナコも、遠藤とは昔からの付き合いではあるが、両親よりも日が浅い。


 恩人ではあるが、そういった購買に関する密接な付き合いは主に両親が行っていたので、その分だけ動揺も浅かった。



 ……で、そうしてキナコが聞いた話では、だ。



 どうやら昨日、日課の散歩のルートの半ばで倒れているところを発見され、救急搬送された……というものであった。


 幸いにも、車にはねられたとか、そういった事件ではないらしく、救急搬送中に本人も意識を取り戻し、受け応えもはっきり出来ていたのだとか。


 当人曰く、フーッと気が遠くなったと思ったら、次の瞬間には救急車の中に居た……という感じらしい。


 現在は、緊急入院という形で病院のベッドの上。とりあえず、いますぐどうこうなるような状態ではないらしいが……意識を失って倒れてはいたのだ。


 もう少し詳しく検査をしたいし、一過性の脳梗塞の可能性もある。


 医者の許可が出るまでは病院で安静ということで、代理という形で息子が遠藤より言われて連絡した……というのが、一連の流れだと説明された。



「……それで、見舞いに行くのは分かったけど……本当に大丈夫?」



 そう尋ねたのは、キナコである。


 そう尋ねた理由は、先ほどまであまりにも動揺を露わにしていたからである。



「ああ、済まないが、後を頼めるか? 今からだと、どうしても向こうで一泊することになってしまうが……」

「まあ、仕方がないよ。1日、2日ぐらいなら何とかやれるから」

「ごめんね、キナコ。戻ってくるまで任せるから」

「……お母さんも一緒なら大丈夫か」

「出来る限り、早く戻るつもりだから、それまで頑張ってくれ」

「仕方がないよ、私も遠藤さんがどんな調子なのか気になるし、遠藤さんにも私も心配していたって言っておいてね」



 けれども、先ほどと違って声に落ち着きが戻っているのを見やったキナコは、ひとまず、まあいいかと判断した。


 そんな感じで……橘夫妻は牧場を出発した。


 もちろん、送り出しは牧場の古株が担当した。


 その人から『こんな状態で運転させたら事故っちゃうから……』と先に言われた辺り、キナコも少なからず動揺していたのが露見したが……で、だ。


 飛行機に乗って、電車に乗って、タクシーに乗って……ようやく夫妻が遠藤が入院する病院に到着したのは、夜遅くであった。


 本来ならば面会時間を過ぎているので駄目だが、橘夫妻が遠方より来ている事を考慮して、少しばかり挨拶をするだけならばと融通してもらい……病室へと案内された。


 病室は、個室であった。大部屋だと気が休まらないと本人より申し出があり、そのままそこに居るのだそうな。 



「──やあ、心配を掛けてしまったみたいだね」

「いえ、いえ、こちらこそ、駆け付けるのが遅くなりました」

「いや、それは僕の方が連絡が遅れてしまっただけだよ。入院の手続きやら検査やら何やらで、橘さんところに連絡するのが抜けてしまっていた……すまないね」

「いえ、気にしないでください。私たちとしても、お元気そうで……その、安心しました」



 そうして、対面した遠藤の元気な様子を前に……夫妻は安堵のため息を零しながら……同時に、少しばかり言葉を呑み込んでしまった。


 と、いうのも……痩せていたのだ。何がって、遠藤の身体が、だ。


 そんなにはっきり見た事がないので元々こうだったかもしれないが、だとしても、カーディガン越しに見える体格が、以前に顔を合わせた時よりも一回り小さくなっているように見えた。



「……痩せただろう?」



 ニヤッと笑みを浮かべた遠藤に。



「え、いや、そんなことは……」



 夫妻は、少しばかり視線をさ迷わせた。それを見て、遠藤はふふふっと笑った。



「世辞を言わなくていいよ。僕も、鏡で見てから気付いた事だから……いやあ、家じゃあ気付かないものなんだね」



 そう言いながら、サイドテーブルに置かれた紙コップより……ごくり、ごくりとスポーツドリンクを飲むと……静かに、空になったコップを置いた。



「息子は、夕方頃に帰った。仕事もあるし、今すぐ急変するとかそういうのではないからね」



 ……夫妻は、すぐには返事が出来なかった。


 だって、その言い回しだと……まるで、重病であると語っているも同然であったからで。



「医者から、『癌』だと言われたよ」



 遠藤の口より、その言葉が出た瞬間……ああ、と夫妻はやるせなく視線を落とした。



「……重いのですか?」



 しかし、そこで話を打ち切るわけにはいかない。


 非情と言われるかもしれないが、『タチバナ・ファーム』を背負っている夫妻……源吾は、率直に尋ねた。



「治療せず自然に任せるなら、半年ぐらいと言われたよ」

「抗がん治療は?」

「どうやら、身体のあちこちに転移しているみたいでね。年齢的な理由から、体力がもたない可能性が高いと言われたよ」



 そこで、一つ……遠藤はため息を零した。



「毎年、季節の変わり目は風邪を引く性質で……今回もそうだと思っていたよ。ホワのことで、気が緩んだのもあるんだろう……ってね」

「…………」

「けど、今年は妙に気怠く感じる日々が長く続くから、僕もいいかげんに歳なのかなと思っていたけど……どうやら、隠れていたソレが表に出てきたサインだったみたいだ」

「……する、おつもりですか?」

「ん?」

「抗がん治療は、お考えですか?」



 ……。



 ……。



 …………少しばかり、遠藤は沈黙した後……キッパリと、夫妻の目を見て告げた。



「いや、しないつもりだ。痛み止め等はしてもらうつもりだが、癌治療はしないよ」

「それは、どうして……」

「僕も、いい歳だ。抗がん治療をして、伸ばした時間を含めて大半を病院のベッドの上で過ごすよりも、自由に過ごしたい」



 その言葉と共に、遠藤はサイドテーブルの引出しより……小さな額縁に納められた写真を取り出した。


 それは、あの日……『ホワイトリベンジ』が『天皇賞・春』を制した時に撮られたモノ。


 そこには、涙を流しつつも、満面の笑みを浮かべる遠藤。


 その手には、亡き妻の遺影と、愛馬の綱。そして、その愛馬に掛けられた優勝レイと、そんな1人と一頭の横で、同じく泣き顔の柊彩音が映っていた。



「柊さんも……子供を作る事を考えたら、出来る限り早い方がいい。古臭い考え方と言われたらそれまでだけど、やっぱり作るなら若いうちの方が良いと僕は思うんだ」

「…………」

「それに、僕はもう十分過ぎるぐらいに夢と幸せを頂いた。もう、悔いは無いんだ」



 その、透き通りつつも年期を感じさせる穏やかな笑みを前に……夫妻は、何も言えなかった。



「大丈夫、僕が死んだ後は、橘さんところに権利が譲渡するよう既に手配してあるから」

「え?」

「残念な話だが、うちの息子は競馬の世界には全くの無知だし興味も無い。息子の手にホワが渡ったら、あいつの事だ……その価値も分からず、1億2億でポンと他所に売り飛ばしかねないからね」

「それは……こちらとしても大変にありがたい事なのですが、本当によろしいのですか?」



 恐る恐る……そんな感じの問い掛けに、「よろしいも何も、それがあの子にとっては一番の幸せだよ」遠藤はカラカラと笑った。



「あの子は、頑張った。幾つもの逆境を跳ね除け、死をも跳ね除け、奇跡の復活を果たし、妻の夢も果たしてくれた」

「…………」

「だから、そろそろ休ませたいと思っていたんだ。、今度の『有馬記念』をラストランにするらしいから」

「えっ!?」



 思ってもいなかった名前が出た事に、夫妻は驚きの声を上げた。「こら、病院だよ」直後、遠藤よりたしなめられた2人は慌てて口を噤み……恐る恐る、どういう事かと尋ねた。



 ……その中身を簡潔にまとめると、だ。



 どうやら、先日の『天皇賞・秋』の後、検査を行った際に軽度の『屈腱炎くっけんえん』が発見されたらしい。


『屈腱炎』とは、脚部に発生する病気の一つ。言うなれば競走馬にとっての不治の病でありながら逃れられず、再発しやすい炎症である。


 幸いにも、休養を挟めば万全の状態で有馬に出られる程度らしいが、屈腱炎は一度発症すれば最後、負担を掛ける度に再発すると言われている。


 事実上、『屈腱炎』は競走馬にとって、選手生命を断つ癌。これに罹った者で現役を続行出来た馬は数少なく、そのほとんどは引退の道を辿った病気である。


「実は、先日から伊藤牧場の方から相談されていたんだ。『クレイジーが今度の有馬で引退を視野に入れている。そちらは、どうするのか?』ってね」

「それは……」

「他所の馬主に失礼な話だろうけど、向こうは僕なんか足元にも及ばないやり手だ。たぶん、僕たちが気付けていないホワの状態を、映像で掴んでいたのだと思う」

「…………」

「向こうとしては同じレースで引退という流れで競馬界を盛り上げたいんだろうね。盛り上がれば盛り上がるだけ、巡り巡って、より大きな利に繋がるのは向こうだし」

「…………」



 夫妻は、何も言えなかった。そもそも、言える立場でないのだから、冷静であっても何も言わなかっただろう。



「……それでね、決めたんだ」



 それに、遠藤の顔に浮かぶ……死を受け入れている、その顔を見て。



「ホワは、今年の『有馬記念』で引退させる。まだ、伊藤牧場の方には話していないけど……柊さんには、先にそう伝えるつもりだよ」



 とてもではないが、まだホワは頑張れるだなんて……口が裂けても、二人は言えなかった。



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