第十八話: 迫る、最後の一戦まで



 ──なんだか、キナコさんの様子がおかしい。




 そう、彼が感じるようになったのは……ちらほらと、『タチバナ・ファーム』に雪がちらつくようになった頃だ。


 暦の上では、もしかしたら12月に入っているのかな……と、彼は思う。


 カレンダーが飾っている部屋には入れないので、遠目から何とか目を凝らして確認した限りの話だが……いや、まだ11月……まあ、どっちでもいい。



 ……そんなことよりも、だ。



 彼が、キナコの……いや、キナコだけではない。


 キナコの父と母もそうだが、どうにも……牧場のみんなの反応というか、対応が以前とは異なっているような気がする。



 少なくとも、彼はそう思っていた。



 ただ、何処が違うのかまでは分からない。とりあえず、金銭的な問題ではないな……とだけは、現時点で彼は当たりを付けていた。


 これは彼が人間だった時の経験によるものなのだが、金銭的な面で困窮すると、よほどの大物でない限りはだいたい顔に出る。


 貧すれば鈍するのと、似たようなモノだ。


 お金の有無は、心の余裕に直結する。何かが起こってもとりあえずは大丈夫というセーフティが有るか無いかで、精神に圧し掛かる負荷は全く違う。



(……レースに勝つようになってから、みんなに笑顔が増えていたし、骨折が治った後も笑顔が多かったから……まあ、お金じゃないな)



 とりあえず、キッチリ出されるご飯が質素になった感じもなく、ブラッシングもちゃんとして貰える。


 原っぱでパッカパッカ歩いたり走ったりしていても、特に何かを言われる様子はない。


 あくまでも、違和感は違和感でしかない。確証は何一つ無く、キナコを含めた誰も彼もが何時ものように仕事をしてくれている。


 そうなると……変に嘶いたりして手を止めさせてしまうと、逆に心配を掛けてしまいそうで……彼は、とりあえず違和感を胸の内に留めておくことにした。


 何処か、以前とは違うような気がしても……拭い去れない違和感を覚えつつも、彼は……すっかり見慣れた車が牧場に入って来るのを見つめる。



(有馬記念……か)



 先日、掃除をしてくれている彼らの雑談がチラッと耳に入った事で知ったのだが、どうやら次のレースは『有馬記念』というやつらしい。



 『有馬記念』……その名は人間だった時から知っている、数少ないレースの名前だ。



 不思議と、縁が無かったからなのか、それとも出場するのに条件があるのかは知らないが、これまで走った経験は無かった。


 だから、どんなレースなのだろうなあ……と、彼は内心にてちょっとドキドキしていた。



(……たぶん、クレイジー来るだろうなあ)



 まあ、そのドキドキの理由の大半は、レースそのものではなく、レースに参加してくると思われるクレイジーボンバーなのだが。



 そう、クレイジーボンバーだ。



 知識の薄い自分すら知っている大レース……たぶん、賞金も凄い。なおさら、出て来ないわけがないよなあ、と彼は思った。



 しかし、クレイジーが出て来ると困る。


 だって、クレイジーって滅茶苦茶強いから。



 今までもレースが近づくに連れて似たような事を何度も考えているが、何度も考えてしまうぐらいに強いのだ。


 失礼だとは思うが、これが他の馬相手ならば、そこまでは疲労しない。いや、相応に疲れはするが、クレイジーとの対戦に比べたら雲泥の差だ。


 この前のレースの後もそうだったが、精も根も尽き果てるとは、正しくあんな感じだ。冗談抜きで、最後の一瞬まで一切気が抜けられない。


 ぶっちゃけ、クレイジーとの対決は疲労が骨身に響く。だから、クレイジーとは戦いたくないのが彼の本音である。



 ……最初に負けた時は悔しかったが、既に一度はリベンジを果たした。



 骨折が治った後は、クレイジーとの勝負よりも、如何に勝利を重ねて賞金を得るか……それが、現在の彼にとって一番の関心であった。


 ただ、そうなると必然的にクレイジーとの対戦率が跳ね上がってしまうのは、もはや皮肉みたいなものだが……で、だ



(たしか、有馬記念は年末ぐらいに開かれるレースだったような……と、なると、このレースが終われば年明けか)



 キナコに綱を引かれて移動する最中、彼は……レースが終わった後の事を考える。


 おそらく、己が出る今年最後のレースだ。


 来年はどのレースを走るのかは分からないが、勝利を掲げて新年を迎えたいと……彼は、一つ気合を入れて、準備が進められている車の後ろに立った。



『ホワ……どうか、怪我をしないで無事に帰ってきてね』



(大丈夫ですよ、何時もみたいにババーンと勝利しますから)


 ──ブフフン、と。



 心配そうに首を撫でてくるキナコへとそう返事をした彼は、ある意味では見慣れた車内へと足を踏み入れる。


 この車の行き先は、考えるまでもない。


 何時ものトレーニング施設であり、そこでレースまでにみっちり鈍った身体を鍛え直すのだ。


 これもまあ、正直面倒臭いうえに辛いのだが……これをやって身体を絞らないと負けるのを感覚的に理解していた彼は、内心嫌々ながらもさっさと乗る。



(さてと、向こうに着くまでの束の間の昼寝タイムだ……初日から坂道ダッシュするのかは知らんが、休んでおいて損はないだろう)



 そうして、何時ものようによっこらしょと横になった彼は、到着するまでぐっすり寝ようと目を閉じた。



『ホワ~、引退レース、絶対に見に行くからね~!』



 応援してくれる、キナコたちの声を耳にしながら、彼の意識はゆっくりと……。



 ……。



 ……。



 …………ん? 



(え、待って、聞き捨てならない言葉がなかった?)


 ──今、なんと仰いましたか? 



 そう思うと同時にムクッと頭をあげた彼だが、もう遅かった。


 何故なら、既に扉は閉められ、ぐらり、と車が動き出すのを感じ取った後だからだ。


 こうなると、下手に動いてしまうと怪我をしてしまうのはコッチだ。


 基本的に馬優先に動いてくれているし、ときおり覗き窓から様子を確認してくれているとはいえ、いきなり止まる事は出来ない。


 後続車への影響もそうだが、なにより馬を乗せる専用車って長いし大きいのだ。道路が広い場所ならともかく、ちょっと路肩に止まって……なんてのは、出来ないわけで。



(そ、そうか、俺ってば、次が引退レースなのか……馬って、けっこう引退が早いんだな)



 仕方なく、再び横になった彼は……ふと、以前より覚えていた違和感の正体はコレだったのかと、内心納得した。



(なるほど……最後のレースだと思えば、色々と感慨深いモノがあるな)



 だったら、なおさら怪我をしないように気を付けねば……と、己に戒めながら、彼は……今度こそ、眠りにつくのであった。








「え、引退するのかい?」



 ピタリ、と。


 彩音が作った晩飯に箸を伸ばしていた宗司の手が止まった。彼の視線はテレビから、眼前の彩音へと向けられた。



「うん、実は先日に馬主の遠藤さんから連絡があったの。ホワが今度の『有馬記念』で引退するって……」

「だから、君も合わせて引退?」

「うん、前からそう約束していたでしょ」



 本来ならば湿っぽい空気になるところなのだろうが、彩音は何一つ気にした様子も無くカラッとした様子で笑った。



 ……その笑顔を見て、逆に宗司の方がちょっと居心地が悪くなった。



 だって、引退というのは……それは、アスリートである以上は絶対に避けられない言葉であると同時に、非常に重く圧し掛かる決断でもあるからだ。


 何故なら、だいたいのアスリートにとって……その頂きに辿り着くまでに、半生を注ぎ込んでいる者が大半であるからだ。


 言うなれば、小学生の時代から成人に至るまで、ただひたすら打ち込んでいた事を放棄し、未知へと歩み始めろと同じ事。


 旦那という立場から、騎手という厳しい世界を傍で見ていたからこそ……彩音が口にした『引退』の二文字に、宗司は何も言えなかった。



 ……。



 ……。



 …………そう、言えるわけがないのだ。



 生涯現役を掲げて戦い続けるアスリートは、探せば居るだろう。何度負けようが、身体が動かなくなるまではアスリートを続けようと思っている者だっているだろう。



 だが、それはあくまでも当人の心構えでしかない。



 どれだけ志が高くとも、負け続けるアスリートに対してお金を支払ってくれるスポンサーは居ない。


 容姿の良さからCMに出ていて名が知られていた彩音ですら、ホワに出会う直前は騎乗依頼が激減していて、それに思い悩み苦しんでいたのを宗司は知っている。


 それでもなお、厳しい体重制限を守り続け、どのレースにも出られるよう日常的にコンディションを維持していたのを、宗司は知っている。


 その彩音が、初めて……宗司を見つめながら、『引退する』と口にしたのだ。


 今まで、『引退』するべきかどうかを臭わせる発言や、雰囲気を醸し出すような事はあったが……ここまでハッキリと明言したのは初めてであった。



「あれ、不満そうね?」

「いや、不満というわけではないけど……その、本当にいいのかい?」

「……? 何が?」



 首を傾げる彩音に、宗司は……しばし視線をさ迷わせながらも、答えた。



「その、騎乗依頼……ホワ以外にも来るようになったんだろう?」

「ああ……別にいいわ、だって私はホワの背以外に乗るつもりはないから」



 暗に、『未練はないのか』と……そう声を掛けたのだが、彩音はキッパリと宗司の問い掛けを切って捨てた。



「そもそも、始めからそういう約束だったでしょ。元々、私のワガママで続けさせてもらっていた事だし……ちょうどいいタイミングなのかもしれないわね」

「ん~、そっか。君が納得しているのであれば、それでいいんだ」

「なに、それ?」



 ふふふっと、思わずといった様子で彩音は笑った。



「勝てないジョッキーが空いている時間にバイトして、隙間に騎乗依頼受けながら実績詰みつつ、そのまま日の目を浴びないままにサヨナラ~ってのがよくある話よ」



 それに比べたら……ニッコリと、彩音は心からの笑みを宗司に向けた。



「主戦騎手として乗らして貰ったけど、それでも貴方の厚意のおかげで2,3年……自由にやらせてもらったのよ」

「いや、そんなつもりは……」

「そんなつもりはなくとも、それが事実。これだけ好き勝手にやらせてもらって、さらにワガママを追加出来るほどに私は強欲でもないし、厚顔でもないわ」



 だから……その言葉と共に席を立った彩音は、スルリとテーブルを回ると……そっと、宗司の頭を抱き締めた。



「これからは、お母さんとしても頑張るから……ごめんね、待たせちゃって」



 その言葉に、宗司は「こちらこそ、よろしく」とだけ答えると、そのまま笑みを返して……静かに立ち上がり、そっと彩音を抱き締め返したのであった。






 ──緩やかに足を止めたクレイジーよりサッと降り立った将は、そのまま綱を引いて厩舎へと向かう。



 将が所属(というより、実家だが)している『伊藤牧場』には、専属の獣医が常駐している。


 馬というのは、その飼育をするうえで、どうしても広い敷地を必要とする。


 乗馬用として育てるのならばまだしも、速さを求める競走馬として育てるのであれば、広い敷地は絶対に必要である。


 そして、そんな広い敷地にて飼育されている馬たちに何かが有った時、いちいち獣医を呼んでいては間に合わない場合がある。


 なので、『伊藤牧場』獣医が交代制で待機しており、全ての馬の状態を他の牧場よりも高頻度で確認出来るわけである。


 もちろん、そんな事が出来るのは、日本において一強と揶揄されるぐらいに『力』を得た『伊藤牧場』だからこそ、なのだが。



「よろしくお願いします」



 厩舎にて待機しているスタッフに綱を渡し、獣医がやってくる。


 クレイジーも慣れたもので、白衣を着ているその男の手に注射器さえなければ、特に嫌がることもせずにおとなしくされるがままだ。


 その間に、雅はスタッフたちも常駐している待機室に入り、置かれているストーブの前の席に腰を下ろすと、静かに身体を温め始める。



「将さん、何か飲みますか?」

「──ありがとう、ほうじ茶をいただけますか?」

「ほうじ茶ですか?」

「ここ最近、緑茶ばかり飲んでいたせいか、どうも飽きてきまして……」

「はは、分かりました。少しお待ちください」



 既に中に居たスタッフが、気を回してくれる。それに座ったまま頭を下げた雅は、再びストーブへと視線を戻し……ぼんやりと、中で揺らめいている炎を見つめた。



(クレイジーの調子は絶好調……足の調子も良い状態を保ち続けていて、現時点では何の心配もない)



 そうしていると、どうしても考えてしまう……クレイジーボンバーの事が。



(このままだ……このまま進めれば、有馬記念では100%の力で走れる。そこが、クレイジーにとっては最後のチャンスだ)



 中央、地方、問わずに馬主たちより引っ張りだこな将だが、今回に限り、将はそれらの大半を断って、クレイジーの調整に当たっていた。


 理由は、考えるまでもない。


 『伊藤牧場』が生み出した、歴代最強の能力と素質を持っている、クレイジーボンバーのラストランが近づいているからだ。


 そして、そのラストランに選ばれたレースは『有馬記念』。


 一年の総決算とも呼ばれている、GⅠレース。


 ホープフルステークスも年末にあるが、知名度は圧倒的に『有馬記念』にある。


 距離は2500mの、芝。


 中山競馬場にて行われ、3歳以上かつ人気投票によって選ばれた、最大18頭が競い合う大レースだ。


 そこで、クレイジーは走る。泣こうが喚こうが、それが最後だ。


 そして、競走馬としての戦いを終えた後は、今度は種牡馬しゅぼばとしての戦いが待っているだろう。



「──将さん、検査終わりました。目視による異常なし、体温も情なし、アイシングを行っておりますが、どうしますか?」



 ぼんやりとさ迷っていた思考が、その声によって地上に戻された。


 顔を上げれば、先ほど厩舎にて綱を預けたスタッフが、待機室の出入り口から顔を覗かせていた。



「──今、行き」



 そこまで口走った時点で、ハッと将は気付く。


 直後、盆に載せられたほうじ茶を持ってきたスタッフと目が合い……頭を下げた将は、「後で飲みますんで、そこに置いといてください」とだけ告げると、足早に外に出た。


 そうして……再び厩舎に戻れば、身体からほんのりと湯気を断たせているクレイジーが、落ち着きなくその場でウロウロしていた。



「クレイジー」



 名を呼べば、ピタリとクレイジーは足を止める。


 振り返ったその顔が喜んでいるのを見やった将は、同じく笑みを浮かべて……スタッフより綱を受け取った。



「すみません、ドクター。歩かせてやっても大丈夫ですか?」

「むしろ、少し歩かせた方がいい。足に異常は出ていないから、もう少し動いて発散させてやった方がその子のためだ」

「ありがとうございます──よし、行くぞ、クレイジー」


 ──ブフフン、と。



 将に促され、クレイジーも歩き出す。


 行き先は、何時ものコースだ。高低差は無く、広く作られた歩道をグルリと一周する。10分も歩けば、周囲には誰もおらず、将とクレイジーの足音と息遣いだけが響いていた。


 ぱらぱら、と。


 幾つもの落ち葉を尻目に、積もったそれらを踏みしめながら、将は何気なく周囲を見回す。


 見慣れた景色、見慣れたコース。


 騎手として活躍し始めてからは明らかに頻度が減ったけれども、子供の頃はよくこの道を通ったなあ……と、彼は昔の事を思い返す。



「……あっという間だったな、クレイジー」



 時期が時期なので、観光客を始めとして、外部の者は完全にシャットアウトされている。



「クレイジー……お前は強いよ。俺が知る限り、最強の馬だ。アイツが出て来なかったら、お前は一度の敗北すら許すこともなく、無敗の王者として引退していただろう」



 だから、将のこの呟きが他者に聞かれる事はなく……将が誰かに話さない限りは、誰にも知られる事のない……天才と称えられた男の呟きであった。



「……なあ、クレイジー」


 ──ブフフン。



 まるで、返事をしたかのようなクレイジーの鼻息に、将は思わずフフッと笑みを零し……直後、真顔になった。



「次が、最後だ」


「分かるか、クレイジー」


「有馬のレースが、最後だ」


「どれだけ悔しかろうが、お前に二度目は無い」


「走れたとしても、その次のお前は今よりも速くは走れない」


「分かるな、クレイジー」


「次のレースしか、ないんだ」


「どれだけ願ったところで、お前の足にその次はないんだ」



 その言葉と共に、将は足を止めた。合わせて足を止めたクレイジーへと向き直った将は……ハッキリと、告げた。



「悔しいな、クレイジー」


 ──ブフフン。


「何もかもが上なはずの俺たちが、未だにアイツに……ホワイトリベンジに勝てないと思ったままなんだ」


 ──ブフフン! 



 未だ立ち塞がるライバルの名に、クレイジーの目が吊り上る。「まだ早いぞ、クレイジー」それを宥めながら……将は、言った。



「勝とう、クレイジー」


 ──ブフフン! 


「俺たちが……お前こそが、最強だ。最後のレースで、観客たちに、アイツに……見せ付けてやれ」


 ──ブフフン! 


「最強の馬は、クレイジーボンバー。その名を、みんなに叩きつけて……それで、俺たちの戦いは終わらせるんだ」


 ──ヒヒーン!!!! 



 青く晴れた空に、王者を約束されていた馬の嘶きが響いた。



 それは、広大な『伊藤牧場』の全てに響かんばかりに力強く。



 敷地の中に居た全ての馬たちがその日、クレイジーの方へと顔を向けた……のだが。


 ……当たり前だが、その事に気付く者は誰もおらず、1人と1頭の語らいが露見することもなかった。



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