第十九話: 動かされた、想い



 ──負けた。



 率直に言おう、彼は最後の直線、急坂を駆け上がる最中……己の敗北を悟ってしまった。


 まだ、ゴール板を駆け抜けたわけではない。だが、その瞬間、彼は理解してしまった。



 己が……クレイジーボンバーに敗北する事を。



 何と言えば良いのか、あっという間だった。背後より迫って来たのを感じ取った瞬間にはもう、抜かれていた。


 抜き返そうと思ったが、無理だった。


 気迫が違う。何もかもが違う。


 この勝負を勝てるのであれば、命を捨てても惜しくはない──そんな言葉を、彼はクレイジーの全身から聞いた気がした。



 ──足の速さは、互角だったと思う。そう、彼は思った。



 違ったのは、覚悟の差だ。


 この勝負に己の全てを賭ける、覚悟の差。



 ただ、勝つために。


 己に勝つために、他のレース全てを捨てた。



 このレースを勝つためだけに、クレイジーは出せる全てを出した。それが、そのままレースの結果へと繋がった。



 なめていたわけではない。


 軽く考えていたわけでもない。


 ただ、掛けていた熱意の差が、違い過ぎたのだろう。



 結果だけを見れば僅かな差でしかなかったが、それは見た目よりもはるかに遠く、はるかに重い差だと彼は思った。


 実際……ゴール板を駆け抜けてすぐに、彼はクレイジーの身に起こっている異変に気付いた。


 かつて、日本ダービーにて己に起こった事……程度の差こそあるが、走り方に少しばかり異常が出ているのはすぐに分かった。



『──ちょっと、伊藤騎手? クレイジーのその走り方……』



 もちろん、彼の背に乗っている彩音もすぐに気づいて、サッと顔色を変えた。


 伊藤騎手に比べて、彩音の実力は確かに格が落ちる。


 だが、それでも走っている馬に異常が起きているぐらいは分かる。位置的に隣を走っていたからこそ、彩音はいち早くクレイジーの異変に気付けた。



『ああ……大丈夫だ。治療は必要だが、そこまで酷くはない』



 当然ながら、彩音が気付いている事に、将が気付かないわけがない。


 速やかだが、緩やかに速度を落としたクレイジーの方向を検量室へと向けると、ポンポンとクレイジーの首を叩いた。



『とはいえ、ウイニングランは止めておこう。ゆっくり歩いて戻るさ』

『歩いてって……跛行はこうが出ているのに?』



 ──跛行はこう



 それは、歩様(歩き方と思ったらいい)に異常が出ている状態を差す言葉だ。


 人間に例えると、イメージしやすいだろう。


 普通に歩いているのが正常で、足を引きずっていたり、ひょこひょこと片側に重心を掛けて歩いている……といった、正常な歩き方をしていない状態が、跛行(はこう)である。


 当然ながら、馬の跛行は人間のソレよりもはるかに重大である。馬の足は心臓の補助をしているのだから、彩音が顔色を変えるのも当然であった。



『クレイジーはこう見えて、誇り高いんだ。王者が馬運車に乗って引っ込めば、コイツはへそを曲げちまう』



 ただ、将は変わらず首を横に振った。『でも……』なおも説得を続けようとした彩音に対して、それでも将は首を横に振った。



『大丈夫さ。ただ、状態によっては今日の引退式を辞退する可能性はあるが……まあ、その時は俺たちの分まで頼むよ』

『……そう、貴方達がそうするのなら、もう言わないわ』



 馬運車を……そう言い掛けた彩音だが、それ以上は何も言わなかった。


 何故なら、将騎手の言う事を彩音は否定出来なかったからだ。


 動きに異常を見られるが、目視では分からない程度。その頻度だって、何かの拍子にヒョコッと跛行するぐらい。


 天才と称される将がそう言うのであれば、そうなのだろう……そんな説得力があった。


 加えて、肝心のクレイジーもまた……痛みなり何なりを覚えているはずなのに、欠片の動揺も不安も露わにしていない。



 正しく──王者の貫録。



 『タチバナ・ファーム』ではキナコに甘えたりホワに突っかかったりするヤンチャな面を見せていたが、それでも、彼は王者なのだ。


 人前では……いや、レースという場において、泰然自若たいぜんじじゃくの姿を崩さない。



 今、この瞬間……足を負傷しようとも、立ち塞がり続けたライバルを打ち破った事で、彼は本当の意味で王者になったのだということを……彩音は、その佇まいから察したのであった。



 そして、それが分かってしまえばもう……これ以上の言葉が無粋であり、彼の矜持を軽んじる事に他ならない。


 悠然と……それでいて、ときおり跛行を見せつつも、それでもなお力強く確かな足取りで戻ってゆく、その後ろ姿を見送ることしか、彩音とホワ……彼には出来なかった。



『……頑張ったね、ホワ』


 ──ブフフン。


『強かったね、ホワ』


 ──ブフフン。


『ありがとう、ホワ。最後のレース、私は全てを出しきった。私には、アレ以上の騎乗は出来ない』


 …………。


『もしかしたら、私以外が乗っていたら貴方は勝てていたのかもしれないけど……でも、それでも、私を選んでくれてありがとう』


 …………。


『……それじゃあ、行こうか。みんな、待っているよ』


 ──ヒヒン! 



 この場においての勝者は、クレイジーボンバー。


 如何に強かろうが、ハナ差の決着であろうが、この場においてホワイトリベンジは2着であり、敗者でしかない。


 だから、彩音と彼が出来る事は何もない。


 ただ、歓声が湧きたっている観客に軽く手を振り、頭を下げて……検量室へと向かうのであった。








 ──まるで、お祭りだな。



 人だかりを見て、彼はそう思った。実際、検量室でもそうだったが、前のレースに比べて集まっている人たちも多く感じた。


 というか、カシャカシャと一斉に向けられるカメラがちょっと怖い。


 いや、カメラ自体は全く怖くないのだ。中身が馬ならばともかく、人間である彼にとって、カメラは家電の一つみたいな感覚だ。


 怖いのは、カメラを向ける人たちの熱量だ。


 目が血走っている……というほどではないが、迫力がある。誰も彼もが、この一瞬を逃してなるものかと凄まじい勢いでカメラを向けて来る。


 これ、俺が普通の馬だったら怖がるのでは……と思ってしまうぐらいだ。


 さすがに、人間の魂がインストールされているので彼は平気である。だからこそ、カメラマンたちが我先にとレンズを向けてくるのだろうが。



(彩音さん、なんか降りてすぐにどっかに行っちゃったし……トイレかな?)



 綱を取っている置田の顔ばかり見ているのも、いいかげん飽きてきた。なので、もんもんと色々と思考が巡る。



(……クレイジーのやつ、やっぱり足を怪我していたんだな。その分だけカメラが俺のところに来るのは仕方がないけど、ちょっと多過ぎだろコレ……)



 そうして、だ。


 彼の思考は、己へと向けられ続けるカメラへと留まった。まあ、留まったところで考える必要はほぼほぼ皆無であった。


 何故なら、此度のレースの主役であるクレイジーボンバーが、足の負傷の為に、急遽引退式を辞退する事になったからだ。



 競馬の世界は、何処まで行っても主役は馬である。



 引退式もそうだが、競馬の世界に携わる以上は、そういった事が大事なのは理解している。しかし、そのために肝心の馬が駄目になるような事だけは絶対に避けなくてはならない。


 なので、足の具合を見て引退式を辞退し、治療に専念すると馬主より言われてしまえばもう、JRAも無理強いは出来ないわけで。


 必然的に、2位であるホワイトリベンジ……そう、彼に対して、その分だけ取材が集中するのは仕方がないことであった。



 まあ……そんな事情が無かったとしても、彼に取材が集中していただろう。



 なにせ、彼は人気である。彼は自覚していないが、その人気は正直なところ、クレイジーの比ではない。


 言うなれば……アレだ。



 彼のこれまでの軌跡が、非常に日本人好みなドラマ性を多分に孕んでいたからだろう。



 血統には恵まれず、ラストクロップゆえの淡い期待とは裏腹に、競走馬としては致命的な障害を抱えて生まれてきた。


 それを、『この子は走る!』と、ただ一人の若者が身を削って育て、感化された周りの者たちの助力を得て、立派に育ったその馬は無事に買われてくれた。


 そして、話はそこでは終わらない。何故なら、その馬主もまた、ただの馬主ではなかった。


 愛情を注いでいた馬がレース中に事故死してしまった事から、もう競馬の世界からは足を洗おうとしていた馬主だ。


 そんな馬主が、その若者が身を削って育て上げた馬を見て、最後にもう一度だけと心を動かされた。



 また、心を動かされた者は馬主だけではない。



 生まれ持った障害の危険性故に誰もが騎乗を避けたり断るなかで、1人の女性が承諾してくれた。


 彼女もまた、様々な理由から騎手を引退しようとしていた。


 そんな彼女も、この子は走ると確信し、その馬が引退する時は己もまた引退するのだと覚悟を固めた。


 そうして……『ホワイトリベンジ』と名付けられたその馬は、まるで己が背負ったモノに応えるかのように、怒涛の快進撃を見せた。


 競馬の世界は、一勝を得るだけでも難しく厳しい世界だ。



 そんな世界で、彼は勝ち続けた。



 血統がなんだ、障害がなんだと、復讐の名の通りに彼は如何なる壁にも反逆し、逆境への復讐をやり遂げて来た。



 それは、己を襲った大怪我に対しても変わらなかった。



 俺は負けない、俺の復讐はまだ終わっていないのだと言わんばかりに彼は諦めることなく逆境へと立ち向かい、そして、『奇跡の復活』を果たした。


 そして……数多のライバルたちと再びしのぎを削り合った彼は、ついにアスリートとしての引退を迎え……無事に怪我を負うことなく、最後のレースを走り切ったのである。



 これがまあ、日本人の心にクリティカルヒットであった。



 その証拠に、彼のレースを見る為に、競馬場へ行く者が増えた。彼を題材にしたドラマが作られたことで、彼の人形もまた飛ぶように売れた。


 いや、人形だけではない。


 カレンダーしかり、バラエティ番組しかり、彼の存在は様々な業界や場所を盛り上げ、下火になり続けていた競馬の世界に、新たなムーブメントを作り出したのである。


 これで、注目するなというのが酷な話だ。例年よりも2,3万人も客入りが増えたのが、その証拠であった。



(さすがは、有馬記念……年末にやるだけあって、観客の数も凄かった……)



 ただ、そんな状況だというのに、当の彼はそんな調子なのが……まあ、普段は馬に囲まれて暮らしており、ニュース等を見る機会が皆無になったからこその弊害だが……っと。



『やあ、ホワ……ご苦労様』


(お、遠藤さん、見に来てくれたのか。それに、彩音さんも……ああ、なんだ、遠藤さんを呼びに行っていたのか)



 カシャカシャと撮影される最中、杖を片手にのそっと姿を見せた馬主の遠藤(傍に、彩音が居た)を見て、彼はブフフンと鼻を鳴らした。


 相変わらず、目立つテンガロンハットである。


 あまり視力のよろしくない今の彼にとって、年齢ゆえに他の人達よりも動きが鈍い遠藤を見付けるのには、良い目印だ。



『よく頑張ったな、ホワ。よく、最後まで走り切ってくれた』


(良かった、負けてしまったからちょっと気になっていたけど、あんまり気にしていないようだな)



 ポンポン、と。


 己の腹を摩る遠藤に、彼は安堵の鼻息を零した。


 最後のレースだったのだ。


 出来るならば勝ちたかったが、負けてしまった以上は仕方がない。とにかく、怒っていないのを見て彼は安心した。



(……ところで)



 まあ、それはそれとして、だ。


 ふと、気になった彼は改めて遠藤へと視線を向ける。モノクロな視界ではあるが、さすがにここまで近ければちゃんと見える。



(遠藤さん……もしかして、痩せた? なんか、前よりちょっと小さくなったような……)



 だからこそ、彼は……記憶の中にある遠藤と、眼前に居る遠藤の違いに、少しばかり違和感を覚えた。


 彼が見たところ、遠藤は高齢だ。


 だから、年齢が進むに連れて背が低く、痩せていくのは仕方がないし、自然の流れだと思っている。



(冬だし、風邪でも引いた……いや、そんな感じでもなさそうだな)



 でも、それを抜きにしても、どうにもしっくり来ない。


 加えて、顔色もよろしくない。血の気が無いというのは言い過ぎだが、昔に比べて元気が無いというか、覇気が無いなあと彼は思った。



『さあ、行こうか』


 ──ヒヒン。



 綱を置田から受け取った遠藤にゆっくりと引かれる。その動きに合わせながら、彼もゆっくり歩く。



 ……これから、引退式の準備をするのだろう。



 さすがに、カメラマンも空気を呼んで引いて行く。他にも、取材を試みようとしていた者たちも、合わせてその場を離れた。


 そうして生まれた隙間を、彼は遠藤さんに綱を引かれるがまま付いてゆく。置田や彩音も一緒に付いてゆく。


 なんと言えばいいのか、静かだ。周りに人は大勢居るし賑やかなんだけど、今だけは彼の周りは静かであった。



 ……人間の言葉を話せるのであれば、尋ねたい。



 しかし、今の彼は馬で、人間の言葉を理解は出来ても離すことは出来ない。だから、知りたい事を知る事が出来ない。



『おっ、と』

『──大丈夫ですか!?』

『はは、すまないね。柊さんのような美人に助け起こされるなんて、長生きして良かったよ』

『そんな……ご自愛ください』

『ふふふ、ありがとう。でも、自分の身体だ……どういう状態かぐらいは、嫌でも分からされているさ』

『…………』

『そんな顔をしない。君にはこれから、出産や子育てという新たな戦いが待っているんだ。足を止めている暇なんてないぞ』

『……はい』




 そう、だから、彼は何時も、何時も。




『とはいえ、心残りはある。出来るならば、ホワの産駒の活躍を1頭でも見たかったが……まあ、そこまで望むのはワガママだろう』

『……お身体は、何時までですか?』

『改めて検査をしたが、医者が思っていたよりも状態は良いらしい。いちおう薬は飲んでいるが、まあ、本格的に夏を迎える頃だろう……との話だよ』

『それは……』

『やりたい事はだいたいやれた人生だった。悔いはあるけれども、笑って受け流せる程度さ』

『…………』

『それよりも、これは年寄りの忠告だが……一年に一回は癌検診を受けておいた方がいいよ。僕みたいに元々先が短いならともかく、若くしてなったら悲惨だよ』

『……笑えませんよ』

『はは、すまないね。僕も、こういう話題は好きじゃない……さあ、行こう。ホワを改めて綺麗にしないと』




 本当に知り得ていたかったことを、土壇場で知ることになってしまうのだ。




(……癌?)



 その言葉が、脳裏をぐるりと回った瞬間──彼は、ピタリと足を止めた。




『──ホワ? どうかしたの?』




 足を止めた彼に釣られて、全員が足を止める。代表する形で、彩音が話しかけて来たが……その声は、彼の耳には届いていなかった。



(癌? 誰が?)


(遠藤さん? え? 癌?)


(誰が? 遠藤さんが? 癌?)


(何時まで? 何時から? 来年の夏?)


(え? 夏頃? そこまでしか? え?)


(来年の夏までが余命? 癌で? 遠藤さんが?)



 ぐるぐる、と。


 今しがたの遠藤たちの会話が、頭の中を回る。それを、一つ一つ分解し、組み立て、読み取り……そして。




 ──ちょっと、待てよ。




 全てを悟り、理解した瞬間……彼は、心の底より湧き出る焦燥感を抑えられなかった。




 ──知らなかった。


 ──そう、知らなかったのだ。


 ──恩人が、病に侵されているなどとは。




(そんな……そんなのって、ねえだろ)




 ──遠藤さんが、高齢であるのは分かっていた。


 ──だが、その時が来るのは……もっと後だと思っていた。




(それじゃあ……それじゃあ、遠藤さんは──)




 ──引退した己がこの後どうなるかを、彼は知らない。


 ──けれども、キナコたちの雑談を聞いて……おおよそだが、想像は出来ていた。


 ──今の己が、牝の馬に対してちゃんと役割を果たせるかは分からない。


 ──だが、それでも、愛馬の子供が活躍する、その喜びは馬主の特権であると。


 ──彼は、キナコたちの雑談から想像していた。己にはまだ、役目があるのだと思い、頑張ろうと思っていた。




(──俺の敗北を最後の思い出にして、逝ってしまうのか? こんな、無事に走りきれたからそれでいいなんて考えで走っていたレースを、最後の思い出にして?)




 なのに──遠藤さんは、彼の恩人は、そんな特権を味わうこと無くこの世を去ってしまう。




(……駄目だ、そんなのは駄目だ! そんな思い出を最後になんて、俺は嫌だ!)




 許せない──心から、彼は先ほどまでの己にあった甘ったれな考えを唾棄した。


 そう、許せないのだ。


 けして、手を抜いたわけではない。持てる限りの全力を出したつもりだ。ビシビシと全身に走る強張った疲労を思えば、体力を振り絞ったのは自ずと自覚出来た。


 だが、それでも、断言出来る事がある。


 それは、あの時……クレイジーに比べて、己は明らかに手を抜いてしまった。


 全身全霊を捧げる程に熱を入れていたクレイジーに比べて、己はどうだったか……思い出すだけで恥ずかしい。


 だって、負けるのもまあ仕方がないよねと上から物を語っていたのだ。そもそも、始めから己はソレを語れる立場ですらなかったのに! 




(──ごめん、ごめんなさい、遠藤さん! ごめんなさい、クレイジーボンバー! 彩音さん! キナコさん! 俺は、俺は……最低の男だ!)




 そして、何よりも恥ずかしいと己を殴りつけたくなったのは……遠藤さんが病に侵されていると知った、その時。




 ──もう一回走らせてくれるなら、勝利して終われる! 




 そんな、心の底から情けなくなってしまうことを考えてしまったからだ。


 彼は、全てを軽く考えていた。


 余命を知った遠藤さんが、どんな思いでこのレースを見つめていたのかを。


 いや、遠藤さんだけではない。


 己の背に乗ってくれていた彩音もまた、そうだ。どんな思いで最後のレースに出ていたのか……それを、彼は軽く考えていた。




(俺は……俺は……!)




 最後の最後で、彼は己を助けてくれていた全ての人達に対して、最も許されないことをしてしまったのだと思い知らされた。


 だからこそ、その後悔が……彼の足をその場に止めてしまった。


 このまま行けば、待っているのは引退式だ。


 そうなればもう、彼には何も出来ない。


 引退して、何も出来ないままに牧場へと戻り、そのまま新たに与えられた役目をこなす日々が始まるのだろう。




(俺は……俺は……)




 それを分かっているからこそ、彼は動けなくなってしまった。


 それもまた、非常に情けないことだと分かっているのに……どうしても、彼は……足を前に出すことが出来なくなってしまった。



『ホワ……どうしたんだ?』

『どうしたの? 足が痛むの?』



 異変に気付いた皆が、慌てた様子で彼の身体を触っていく。そんな優しさすら、今の彼には棘も同然で……なおさら、彼はその場から動けなくなった。



『──来ないと思って探していたんですけど、どうかしたんですか?』

『あ、キナコさん! お願い、ちょっと見てくれないかしら。ホワがこの場から動かなくなっちゃって』

『え、怪我ですか!?』

『そうじゃなさそうなんだけど、動かない理由が分からなくて……』

『動かない? う~ん、見た感じ痛みを覚えて動かなくなったようには……』



 だからこそ……そう、だからこそ。


 遅れてやってきたキナコの手で触診されることすらも、彼は罪悪感を覚えた。そんな事をしてもらえる資格など、己には無いのだと思って。



『……ホワ、ちょっとこっち見て』


『ほら、ホワ、違う。私の目を見て、まっすぐ』


『目を逸らさない。ちゃんと、私を見て、隠さないで』




 だからこそ……そう、だからこそ。




『……ホワ、もしかして、まだ走りたいの?』




 その言葉は……文字通り、地獄へと垂らされた蜘蛛の糸のように、暗雲の中へと入っていた彼の心にフワッと光を当てた。




 ──ヒヒン! 




 反射的に、彼は嘶いた。


 内に燻っている熱と、湧き起こり続ける後悔を振り払うかのように、彼はカツカツと蹄鉄を鳴らした。


 それを見て、慌てて置田が綱を取って抑えようとする。


 しかし、止まらない。普段の彼ならば、すぐに言う事を聞くのだが……今の彼は、今だけは止まるわけにはいかなかった。


 ……そんな、普段とは異なる姿を見せる彼に、誰もが、どうしたら良いのか互いに視線を交わす最中。



『……そうか、まだ走りたいのか』



 ポツリと……感慨深そうに溜息を零した遠藤の、その言葉に、誰もがパッと視線を向けた。



『……分かった。引退は止めよう』



 そうして、続けられたその発言に……彼を除く誰もが、『えっ!?』と言葉を失くした。


 何故ならば……引退を表明していた競走馬(つまりは、馬主)が、直前になって引退を撤回するのは非常に稀だからだ。


 だって、競走馬が引退するのは、年齢からくるフィジカルの低下、あるいは怪我による負傷など、引退させるだけの理由があるからだ。


 もちろん、撤回が無いわけではない。


 しかし、地方馬や障害を走る馬ならともかく、GⅠ馬……それも、中央を走っていた馬の引退撤回など、競馬史に残るぐらいには珍しい事である



『え、遠藤さん!? いいんですか!? ホワは確かに走れはしますけど、来年は5歳……回復力も含めて、右肩下がりにはなっても、上がることはないんですよ!』



 だからこそ、置田は周囲に聞こえないように声を潜めながら遠藤に尋ねた。


 引退撤回した馬が勝利を勝ち取る例は、少ない。


 様々な面で衰えが現れている場合が多いので、負傷もしやすい。


 レースに出ても下から数えた方が早い結果に終わったという話も、置田は人伝に聞いていた。



『かまいません。それがホワの意思であるならば、僕はそれを応援するだけですから』

『しかし、今日の引退は伊藤牧場と話し合って決めたことじゃ……向こうも辞退しているので強くは言えないでしょうが、機嫌を損ねさせる結果に……』

『伊藤牧場には、あとで僕から謝っておきます。何か言われたら、ホワにも譲れない事があった……そう伝えておいてください』

『で、ですが、お体の事は……身体に障りますよ』

『とはいえ、橘さんのところでは中央の資格なんて取れませんから……なに、延命でも何でもして、来年いっぱいまでは頑張って伸ばしますよ』

『~~っ、……分かりました』



 明らかに走れない怪我を負っていたり、年齢的に出ること事態が危険だったりならともかく、ホワはまだ走る事が出来る。


 それに、今までパッとしない戦績だったならば、もう少し説得していただろうが……今回は、皐月賞馬でありながら天皇賞春秋同年制覇をしている。


 調教師である置田としては、自身の立場上無理強いすることは出来ず……それ以上はもう、何も言えなかった。



『──柊さん。先に言っておきますが、今後は貴女を乗せるつもりはありません。別の方に声を掛けます』 



 同時に、遠藤は彩音にも声を掛けた。その中身は続投……ではなく、乗り替わりの宣言であった。



『……それは、どうしてですか?』



 もちろん、続ける続けないは別にしても、始めから断られてしまうというのは心に来る。思わず、といった様子で彩音は尋ねた。



『先ほども言ったでしょう。子を産むのもまた、戦いです。ここから先は、ホワのワガママ。いいですね、戦う場所を間違えては駄目です』

『…………』

『これ以上は、貴方の旦那さんにも悪い。どうか、見守ってやってください』

『……分かりました』



 そして、遠藤の言い分……実際、彩音としても旦那の宗司へ既に話を通してしまっているので、これ以上の続投は出来ず……遠藤の提案を受け入れた。



 その代わりに、ポンポン……と。



 名残惜しむかのように、彩音はホワの……彼の首筋を摩るように叩いた。ブフフン、と気遣うように鳴かれた彩音は、最後にギュッとその首を抱き締めると……そっと、離れた。



『……キナコさん。そういうわけなんで、来年もよろしくお願いします』

『え、あ、はい、こちらこそ……』



 そうして、今後もこれまで通りにお世話になる『タチバナ・ファーム』の娘であるキナコに一声掛けた遠藤は……改めて、己の愛馬である彼へと向き直った。



『ホワ……僕の事は、気にしなくていい』


 ──ブフフン


『おまえは、僕の夢を叶えてくれた。とても素敵な夢だ。そんなおまえに、僕は恩返しをしたい』


 …………。


『これまで、おまえはみんなの為に走ってくれた。だから、今度はおまえが納得するまで……自分の為に頑張りなさい』


 ……ヒヒン。



 彼は、そう鳴くしか出来なかった。


 人間の言葉を話せていたならば、胸中に広がるこの想いをいくらでも言葉に出来たのに……ゆえに、ホワは。



 ──見ていてくれ、と。



 そう、訴えて……ヒヒン、と鳴くしか出来なかった。




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