第五話の裏: 千金の敗北




「──あの涙には千金の価値がある」




 表彰式も終わり、一通りの簡易検査を終えた後。各々の愛馬たちが馬連車へと順々に輸送されてゆく中で……彩音は、馬主である遠藤さんの下へ訪ねていた。


 理由は、他でもない。レースに敗北した事への挨拶を兼ねた謝罪である。


 最大18頭の内、勝利を得るのは1頭のみ。それは、GⅠレースであろうと、未勝利戦であろうと、変わらない。


 たった1頭の勝者の下で、17頭の敗者が居る。


 レースにもよるが、賞金は入る。掲示板(5着まで)に載れば、少ないが賞金を得る事は出来る。


 だが、そうではない。賞金は確かに大事だが、それだけではない。



 ──1着だ。それも、グレードⅠのレース。



 年間約7000頭の競走馬が生まれるとされ、その内のいくらかが無事に成長して検査をクリアし、そうしてメイクデビューを勝利し、1勝2勝(あるいは、掲示板に載って)して賞金を稼ぎ、グレードの高いレースに出る。


 未勝利のまま終わる馬たちを尻目に、毎年何百頭何千頭と出て来る中を勝ち残っていく。


 そうして、幾つも壁を突破して、それでも振るいに掛けられて、ようやく選ばれた最大18頭……そこに、己の愛馬が出るとなって、気持ちが上擦らない馬主がどれほどいるだろうか? 


 馬主とて、分かってはいるのだ。だが、分かってはいても感情が納得しないのは、当たり前の話でもある。


 だからこそ、彩音は着替えもせず、真っ先に遠藤さんに謝罪をしようとした。


 場所は、馬主席……ではなく、そこを出たところの喫煙スペースみたいなところ。


 立ち並ぶ自販機の前で、缶コーヒーを飲んでいるところを見付けた彩音は、小走りに駆け寄った。


 ……そうして、顔を合わせた直後に遠藤さんから飛び出した言葉が、冒頭のヤツで。



「そうは思いませんか、柊さん?」



 ……だからこそ、そこから更に続けられた問い掛けに、彩音は……曖昧な笑みを浮かべるしか出来なかった。


 いや、遠藤さんの言わんとしていることは、彩音とて分かっているのだ。だって、彩音も本心では同意見だったから。


 しかし、彩音は騎手だ。如何な理由であろうと、騎乗した馬で負けた。負けは負けでしかなく、それに言い訳は出来ない。



 ──負けましたけど、負けて良かったですよ! 



 なんて、口が裂けても言えやしないし、同意する事も出来ない。ゆえに、曖昧に……あるいは困惑を装って頷くぐらいしか出来なかった。



「……あ、すみません。柊さんの口から、そうは言えませんよね」



 とはいえ、そんな彩音の考えも遠藤さんにはお見通しのようで……あっ、と何かに思い至ると、自販機を指差した。



「飲みますか? 奢りますよ」



 そう言いつつ、チャリンと500円玉を投入した。



「え、いや、御気になさらず……」

「いえいえ、遠慮しないでください。今日はね、凄く気分が良い。言うなれば、おすそ分けみたいなものですから」



 そうまで言われてしまえば、彩音もこれ以上は拒否できない。


 なので、己の体力回復も兼ねてスポーツドリンクを頼む。「はい、どうぞ」手渡されたソレを早速開けて、思いっきり一気飲み……半分近く飲んだ辺りで、溜め息と共に手を下ろした。



「……さっきの言葉の続きですけど、僕はね、柊さん。貴女には悪いと思っていますけど、今回、負けて良かったと思っているんですよ」



 それを見て、ポツリと……語り始めた遠藤さんに、彩音はクッと背筋を伸ばした。



「……あの子は、強い。僕がこれまで所有してきた馬の中でも断トツだ。間違いなく、GⅠに見合う力を秘めている」



 ……でもね、と、遠藤さんは言葉を続けた。



「同時に、あの子は……強過ぎたんだ」

「それは……悪い事ではありません」

「いや、悪い事だ。少なくとも、一つの時代を築く名馬として考えるなら、悪い事だと僕は思います」



 クイッと……飲み干した缶コーヒーを、ゴミ箱へと入れた遠藤さんは……改めて、彩音を見やった。



「あの子には、これまで居なかった。自分を負かす馬が、自分の前に立ち塞がる強敵が……これまで、一度として出会わなかった」

「…………」

「だから、あの子は知らず知らずの内に天狗になっていた。心のどこかで、俺が本気を出せば何時でも勝てるぜ……そんな気持ちになっていた」

「……それは」

「話は聞いています。クレイジーボンバーを警戒していたのでしょう? でも、負けるかもとは思いつつも、勝てるだろうなんて甘い考えが根底にはあった」



 ──だから、最後まで競り負けたんですよ。



 そう、言葉を続けた遠藤さんは……笑っているのか、怒っているのか、彩音にとっては、どうにも判断しようのない表情を浮かべていた。



「でも、あの子は知った。優しい子ですけど、やっぱり男の子だからね。敗北の痛みを、負ける悔しさを、涙が出るほどに心に刻みつけた」



 ──だからこそ。



「彼は、強くなりますよ」



 その言葉を発した遠藤さんの目には、力が宿っていた。



「リベンジして白星を得るために、この敗北をバネにしてより強く、より速くなるでしょう」

「……遠藤さん」

「だから、謝罪をする必要はありませんし、受け取りません。貴女とホワは、お互いに未熟で、お互いが敗北した。僕が欲しいのは、あなた達のリベンジ、ただそれだけです」



 そう言うと……遠藤さんは、彩音に背を向けると。



「乗り替わりはしません。変わらず、鞍上は柊さんだけです。ビギナーが力を合わせて、クラシックへと……僕に、浪漫を見せてください」



 ──それでは、お風邪を引かずにお元気で。



 その言葉と共に、遠藤さんは杖を片手に軽快な足取りでその場を離れて行った。


 後に残されたのは、呆然と佇む……1着にはなれなかった騎手の、柊彩音ただ一人だけであった。






 ……。



 ……。



 …………それから、何がどうして自宅へと戻ったのか……あまり、彩音は覚えていなかった。


 ただ、置田たちを含めて関係者たちへの挨拶もそこそこに、帰路に着いたのだけは覚えている。



『……あまり気に病むな。どれだけ強い馬だろうが、負ける時は負ける。それが、競馬なんだ』



 ぼんやりとした頭に、その言葉が幾度となく繰り返される。


 電車を乗り付ぎ、タクシーを使って自宅へと戻った彩音を出迎えたのは……先に自宅に帰っていた宗司であった。



「おかえり」

「ただいま」



 己を見下ろす旦那の微笑みに、彩音も笑みを返す。「お風呂、沸かしているから」言われて、彩音はお言葉に甘える。


 ルーチンワークというわけではないが、レース場が遠かったり開催時刻が遅かったりする時は、宗司が晩飯を用意してくれている。


 まあ、宗司も働いているので、出来合いのモノだったり、冷凍食品だったり……それでも、用意してくれているだけありがたい話だろう。



 ……そうして、だ。



 ゆっくり入浴をして身体を温めた彩音の前に並べられた、一品料理。今日はどうすると缶ビールを見せられた彩音は、笑顔と共に頷いて受け取ると。


 ──お疲れ様。


 その言葉と共にお互いのビール缶をコツンと突き合せた2人は、同時に口づけ……先にビール缶から唇を離したのは、宗司の方であった。



「……これ、今日のおススメにあったんだ」



 カツン、と。


 空になったビール缶をテーブルの端に置いた彩音は、無言のままに席を立ち……冷蔵庫より取り出した二本目のビールを片手に、席に戻る。


 そうして、無言のままに……宗司より差し出された春菊のお浸しに箸を伸ばし、一口、二口……グイッとビールを傾け……ガツン、と音を立ててテーブルに置いた。



 ……。



 ……。



 …………点けっぱなしのテレビより流れる、たいして面白くもないバラエティ番組。



 何時もと同じ、晩御飯の風景だ。


 出されている料理こそ彩音の手作りではなく、出来合いのモノであったとしても、何時もと同じ……夫婦の時間だ。



「……うっ、ふっ、ふう」



 その、夫婦の時間の中で……何時もと違う事が、一つ。



「──っ、う~……ぐすっ、う~……」



 それは……柊彩音の、涙であった。


 両手を膝に置いて、俯き。目の前に並べられた料理には手を付けず……大粒の涙をテーブルの端に、膝に、膝に置いた手に、ポタポタと落としてゆく。


 それを見た宗司は……ようやくかと言わんばかりに軽く息を吐くと、箸を置いて席を立ち……彩音の後ろに立つと。



「ホワ、だったね。レースを見ていたよ……惜しかったね」



 そう、声を掛けた。


 けれども、彩音は返事が出来なかった。両手で顔を隠し、その隙間から……悲しみがあふれ出ている。


 声を出そうにも、次から次へとこみ上げてくる涙と嗚咽を堪えるのに精いっぱいで、それ以上は何も出来なかった。


 それを、言われずとも察した宗司は……ただ、言葉を重ねた。



「……負けて、悔しいのかい?」


 ──こくり、と。一つ、頷いた。



「それは、自分の腕が悪かったからか?」


 ──こくり、と。一つ、頷いた。



「それじゃあ、君がもっと腕前に優れていたら……勝てたかい?」


 ──ふるり、と。首を、横に振った。



「……君の腕前が優れていても、負けていたのかい?」


 ──こくり、と。一つ、頷いた。



 ふむ……首を傾げてしばし思考を巡らせた宗司は、彩音の気持ちを慰めるかのように肩を優しく摩りながら……改めて、尋ねた。




「彩音、どうしてそう思うんだい?」




 ……。


 ……。


 …………返事が来るまでに、5分以上の時間が掛かった。



「……私が、ホワを信じきれなかったの」



 絞り出されたその声は、泣き疲れた子供のように頼りなく、傍目にもはっきり分かるぐらいに後悔の色が滲んでいた。



「ホワは……あの時、前に行こうとしたの。このままだと負けると思って、前に行こうとしたの」


「でも、私が止めた。経験が浅く年若いホワに、そのまま行かせるのはリスクが高いと思ったから」


「そんなリスクを取らなくても、ホワなら差せると思っていた」


「ホワのスタミナと末脚なら、中山の短い直線でも十分に差し返せると思っていたの」


「……でも、無理だった」


「前を行くクレイジーボンバーは……ううん、伊藤将(いとうまさ)騎手は、私が取らなかったリスクを全て取った」


「カーブに差し掛かり、外へ膨らむのを巧みなバランス感覚でいなしながら、速度を維持して」


「下り坂に入っても、馬の限界を冷静に見極めながらも速度を落とさずに最後まで下りきって」


「体勢を戻すに合わせて、最高のタイミングで鞭を入れて加速……本当に、上手だった」


「本当に……悔しいけど、見惚れるぐらいに巧みな手綱さばきだった。今の私じゃあ、足元にも及べないぐらいに」



 ぽつり、ぽつり、と。


 まるで、塞き止めていたダムから放水されたかのように、彩音は……溜め込んでいた内心を次々に吐き出してゆく。



「だからこそ、許せないの。ホワを信じきれずに安全を取った、私自身の不甲斐なさが」


「間違った事はしていない。ホワにはまだ、未来がある」


「今後のクラシック路線を考えれば、ここで無理をして故障する危険を冒す必要はない」


「遠藤さんも、それは理解していた。だから、私の騎乗を責めたりはしなかった」


「結果だけを見れば、ホワにとって今回の敗北は……確かに、良い事なんだと思う」


「でも、だからこそ、私は悔しくて堪らない」


「私に、伊藤騎手と同じぐらいの腕前があれば、勝てた。勝てるだけのボテンシャルが、ホワには有った」


「足りなかったのは、私の腕前……あとは、ホワを信じきれなかった、私の不甲斐なさだけ」


「今回のレースは、ホワが負けたんじゃない。私が、伊藤騎手に負けた。私のせいで、ホワは負けてしまった」


「それが、なによりも悔しいの」



 そう、言い終えると共に……再び、彩音は涙を零し始めた。


 その涙を……宗司は、拭わなかった。



「……きっと、ホワイトリベンジも同じ気持ちだと思うよ」



 ただ……そう、ただ、全くの素人である宗司は。



「お互いに、自分のせいで負けたと思っているんだ。それじゃあ次は……お互いのおかげで勝てたと思えるようにやれば良いだけさ」



 それだけを伝えると……ただ、その涙が少しでも止まるようにと……優しく、背中を摩るだけであった。



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