第18話 優一の決意
おばあの意識の中にいる有加の視界が、急に、おばあの駄菓子屋の居間に変わっていた。コタツの上、水炊きの残骸が、楽しい夕卓を、想像させる。
「有加、こんな所で、寝てもうて…。」
お腹が、いっぱいになって、いつの間にか、寝てしまった有加の寝顔を見つめていた。そんな言葉を口にして、立ち上がろうとするおばあ。
「おばあ、俺が、行くから…。」
「そうね。ありがと、優一。」
大きくなった有加を、抱きかかえるには、辛いであろうおばあに、気を使う言葉。優一は、我娘の寝顔を眺めながら、抱き上げる。
「優一が、来るから、朝から、興奮しとったから、疲れたんやろ。」
おばあのそんな言葉が、優一の耳に届いていた。有加が、起きない様に、丁寧に、有加の身体を抱きかかえている優一。ニ階の部屋に連れて行く優一の後ろ身を、おばあは、見つめていた。
「優一、日本酒にするね。」
しばらくして、居間に顔を見せる優一に、そんな言葉を掛けるおばあ。
「あぁ…。」
「冷やで、いいね。」
そんな言葉を残して、台所に向かう。おばあの後ろ身を、目で追ってしまう優一。いつもと、同じ空気が流れている。
京子が逝ってしまってから、有加を、おばあに預けていた。優一は、京子を失ったショックで、一ヶ月近くも、職場に戻る事が、出来なかった。上司の温情もあり、現場ではなく、事務方に職場が、変わる事になったが、京子を失う以前の優一には、戻れないでいた。優一自身も、立ち直ろうと、努力はする。頭ではわかっているが、気持ちの方が、どうしようも出来ないでいた。そして、一年以上も、愛娘の有加にも、会おうとしなかった。
おばあは、冷や酒を持って、居間に戻ってくる。
「優一、このおばあの酌で、いいね。」
おばあは、そんな言葉を口にすると、何もいわず、おちょこを手にする優一。
“クビッ!“
おちょこの中で、波が立っている冷や酒を、一気に、胃の中に流し込む。優一の頭に、再会した時の怯えた有加の表情が、映し出される。一年以上、会っていない愛娘。毎日、酒に溺れ、職場には、顔を出すだけ、机に座っているだけの毎日。仕事はしているのだろうが、仕事をした内容など、全く、覚えていない。堕落した生活。父親である自分を、怖がって、おばあの片足にしがみついている有加が、救ってくれた。父親の自覚が、込みあがってきた。有加と二人で暮らす為に、不規則な消防署員の職を辞めて、町工場の工員の仕事に就いた。忙しい時は、残業をする事もあるが、八時~五時の定時で、帰宅できる。少しずつではあるが、這い上がろうとしていた。
「どうね。優一。」
空になったおちょこに、冷や酒を注ぎながら、そんな言葉を口にする。
「ああ、もう二年になるからな。仕事は、何の問題なかよ。」
「違うたい。ここやがね。」
おばあは、自分の心臓を、拳骨で叩いた。
「わしは、有加ちゃんばぁ、預かっているだけやっとよ。わかっているね、優一。」
おばあは、そんな言葉を続ける。優一は、おちょこの中で波立つ冷や酒を、また、一気に飲み干す。
少しずつ、這い上がってきた優一には、ある言葉が、胸の内にある。有加と二人で暮らす為に、頑張ってきた優一に、ある想いが、芽生えてきていた。
「おばあよ、一緒に、暮らさないか。」
芽生えてきた想いを、言葉にする優一。優一の事を見つめていたおばあの視線が、逸れる。
「なんば、言うとるとね。この子は…。」
思いがけない優一の言葉に、戸惑ってしまうおばあ。考えてもいなかった言葉。有加は、一時的に、預かっただけで、優一が立ち直った時に、有加を渡すつもりでいた。
「おばあ、俺は、真面目に言うとるとよ。京子が、逝ってもうてから、有加にとっては、おばあが母親であり、おばあちゃんなんよ。俺…。男親だけなら、限界があるとよ。だから、おばあ、助けてくれんね。」
正直な優一の言葉なのだろう。優一と有加、親子二人で、暮らしていくのが、当たり前の事なのだ。優一と、おばあは、血の繋がった親子ではない。もちろん、戸籍上も、赤の他人。優一が、おばあの事を、本当の母親だと思っていても、一緒に、暮らしてはいけないと思っている。
「あんな、おばあ、俺な。ある事に気づいたと。血が繋がっていない俺と、おばあが、暮らしてはいけない事やと、ずっと、思とった。でも、間違っていた。俺は、おばあに、いつも、助けてもらってきた。乳飲み子やった俺を、布一枚で包まれた俺を、抱きかかえて、<院>に、駆け込んでくれたんやろ。」
優一は、言葉を続けた。おばあに、今の気持ちの丈を、話さずにいられないでいる。
「優一、お前は…。」
「おばあの事、ずっと、母親と思ってきたとばい。血の繋がりないからって、一緒に暮らせないなんて、間違っとると思ったとよ。戸籍なんて、どうでもよか。俺は、おばあと有加と、一緒に、暮らしたかとよ。駄目か、おばあ。」
おばあは、そんな優一の言葉の後、俯いてしまう。胸の内から、温かいものが、込み上げてくる。皺くちゃなの目尻から、温かいものが、流れ落ちた。<嬉し涙>を、流していた。
「馬鹿かね。この子は…。なんば、言うとると。」
おばあは、こんな言葉しか、出てこない。嬉しい筈なのに、優一と有加、一緒に暮らす事を、思い浮かべているのに…。優一の言葉が、うれしくて、涙を流しているのに…。
「…。」
優一は、何も言わず、おばあの言葉を待っている。優一の一代決心。
「優一、嬉かこと、言ってくれるね。それで、いいなら…。」
おばあは、最後まで、言葉を言い切らない。優一には、それだけの言葉で十分であった。
「おばあ、いいとね。いいんやね。ふぅ~…。断れたら、どうしようと、思った。よぉうし…。」
深い溜め息が、入った言葉。優一は、おちょこの冷や酒を、一気に飲み干す。
「おばあ、コップ酒にしてや。ちまちまして、いかん…。」
胸のつかいが降りたのか、おばあに、そんな言葉を発してしまう。優一は。ほっとしたのだろう。何十年もかかって、この言葉を口にした。おばあと暮らすのが、自然な流れであったのに、優一は、それに気づいていたはずなのに、やっと、口に出来た。
気分がいい。思い切り、酒を飲みたい気分になる。
「優一、調子に乗って、明日の朝、知らんよ。」
おばあは、そんな言葉を発して、立ち上がる。台所に行き、でっかい湯飲みを、手にする。
「優一、ありがとうな。」
そんな言葉を、呟いていた。
そんなおばあの後ろに、意識の中の有加がいる。涙を流し、おばあの背中を、見つめていた。
<おばあ…>
声にしているが、おばあには聞こえていない。涙で、視界が曇ってしまうほど、有加の表情が崩れていた。
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