優しい声が聞こえる

一本杉省吾

第1話 幼少期から、見続けていた悪夢,良夢

濃い霧の中、一点だけを見つめている私。360度、周りの風景が見えない場所に、私は、只、立っていた。何をしようとする様子もなく、突っ立っている。子供の頃から、よく見ていた夢。もう、慣れてしまっているのか、もがいても、叫んでも、無駄だとわかっている。私は、その場で、正面の一点だけを見つめている。子供の頃は、怖くて、身体の震えを、必死に抑えていたのを覚えている。

 夢の世界に、時間と云うものがあるとすれば、随分長い間、私は、突っ立っている。

 『有加、有加ちゃん…』

 私の耳に、そんな言葉が入ってきた。私は、ハッと驚き、ピクリと肩を上げる。

 『なんば、しっととね。有加。』

 続け様に、そんな言葉も、耳に入ってくる。記憶がある子供の頃の夢とは、違う。360度、視界が見えない濃い霧の中、そんな世界に、突っ立っているだけの夢であった筈なのに、なぜか、私の事を呼ぶ、こんな言葉が聞こえてくる。

 『何、驚いていると。ほら、こっちよ、こっち…』

続け様、耳に届く優しい声。しばらくすると、正面の霧が、もくもくと、造形を成してくる。突然の出来事に、身動きができない、私がいた。

 『有加、わからんね。私やがね。おばあよ。おばあ。』

 もくもくと、造形を成していく先、人の姿に変化していく。言葉通り、おばあさんの姿に…しかし、見に覚えない人間。耳に入ってくる言葉の意味を、理解すれば、私の顔見知りの人間らしい。でも、記憶にないおばあさんの姿に、戸惑ってしまう。

 『何ね。この子は、このわしの事ばぁ、忘れたとね。』

 そんな言葉を口にすると、皺皺の笑みを浮かべるおばあさん。私は、ニコリと皺の年輪の笑みを浮かべる目の前のおばあさんに、不思議と、安堵感を覚えてしまう。私は、声を出そうとする。自然の事の様に、目の前の人間が、誰なのか、知りたくなっていく。声を出そうとした瞬間、意識が、上の方にあがっていくのを感じる。さっきまでの自分が、真下にいた。正面の一点だけを見つめている自分の姿。そんな自分の姿を瞳に映し出すと、目の前が、いきなり真っ白になっていた。


 「はぁっ!」

 瞳を見開き、今まで、夢の世界にいた事に、気づく。子供の頃の見ていた夢。いや、途中から、違っていた夢に、頭を傾げてしまう。

 「あぁ、私、寝てたんや。」

 ぼそりと、そんな言葉を呟くと、視線を正面に向ける。殺風景な高速道路を走っている光景、素早く流れる情景が、瞳に映っていた。

 「どうしたんや。有加。まだまだやから、寝ときや。」

 有加が、目を覚ました事に気づいた夫が、運転席から、そんな言葉を掛けてくれる。

 「うん。」

 夫、勇生が、掛けてくれた言葉を、思わず、流してしまう有加。今までの夢は、真っ白な霧の中に、只、突っ立っているだけであったのに、見知らぬおばあさんが現れた。そして、自分の名前を呼んでいた。見に覚えのない。記憶の中に居ない、おばあさんの姿が気になっている。

 「有加、寝ボケ、てるんか。」

 ぽぅーと、遠くを見ているわが妻、有加の事が気になる。へんな雰囲気を漂わせる有加に、そんな言葉を掛けながら、ハンドルを握っている勇生。

 「あっ、ごめん、ちょっと、変な夢やったから…」

 まだ、夢を引きずっていた有加が、勇生のそんな言葉で、現実を見つめ出していた。

 小春と云う季節。三月の末日に、この二人は、阪和道を、南に走らせていた。結婚をして、初めての旅行。後部座席のチャイルドシートで、スヤスヤ、眠っている一人息子の龍吾を、身篭っていたと事もあり、入籍して、一年以上も経っている、新婚旅行になってしまった。

 「夢って、いつも、見るって、あれか。」

 勇生は、有加の表情が、気になってしまう。知り合って、七年。一緒に、暮らすようになって、五年。時折見せる、有加の寂びそうな表情に、敏感になってしまう。

 「ふぅん、ちょっと、ちゃうかな。おばあちゃんが出てきた。」

 有加は、はにかみながら、そんな言葉を口にする。勇生は、ハンドルを握りながら、耳を傾ける。

 「いつもは、深い霧の中で、私が、突っ立っているだけなのに…声がしたの。私の事を、呼んでいるの。しばらくすると、正面の霧が、動き始めて、おばあちゃんの姿になっていくの。」

 続け様に、そんな言葉を発していた。今まで、有加の口から、<おばあちゃん>って、単語は、聞いた事がなかった。

 「有加、おばあちゃんって…お前には…」

 「そう、そうなんよ。私には、おばあちゃんなんて、居ないんよ。知らん、おばあちゃんなの。」

 不思議そうに、話をする有加は、どことなく、声が弾んでいるようである。ハンドルを握る勇生は、不思議に思う。有加の言葉から、たまに見るあの悪夢の事だと思う。この悪夢を見る度に、怯えている有加の表情が記憶にある。なのに、有加が発する言葉の端々が、弾んでいる。

 「何や、それ、お前、疲れとるんやろ。」

 「誰、何やろ。あの人。<おばあ>って、言っとったのよ。どこかで、会ったんかなぁ。」

 勇生は、正直、ほっとしていた。有加が、明るく喋っている事に…この夢を見た後の有加は、なぜか、変になってしまう。別に、暴れたり、叫んだりするわけではないのだが、寂びしそうに、沈んでいた。意識が、どこかに行くように、抜け殻のように、沈んでしまう。一緒に、住むようになって、幾度となく、そんな有加を、目にしてきた。しかし、今、隣にいる有加は、【喜】という感情を出していた。


 有加には、幼い頃の記憶がない。厳密に云うと、小学校の高学年ぐらいの自分が、病院.のベッドで、目を覚ました時から、記憶が始まっている。それ以降の記憶は、全くない。【記憶喪失】と云えば、そうなのであろうが、ちょっと、違う気もする。そして、幼い時の写真が、一枚も、残っていない。幼い時から、こんな夢を見るのも、そこに、原因があるのかもしれない。


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