第2話 紀伊山地 和歌山
『おぎゃあ、おぎゃぁ、おぎゃあ…』
後部座席の息子。龍吾が泣き,ぐずり出す。有加は、振り向き、勇生は、ルームミラーに目がいく。
「龍吾、起きてもうたな。車、脇に、停めようか。」
「いや、大丈夫。」
各々、そんな言葉を発していた。二人は、親の顔になっている。
有加は、素早くシートベルトを外して、身体を反転させる。チャイルドシートから、龍吾を、抱きかかえていた。
「有加、大丈夫か。」
勇生は、スピードを落としながら、妻と息子の事を、気に掛ける。
「ウンショ。大丈夫、大丈夫…オムツかな。」
そんな言葉を口にしながら、龍吾のオムツに、鼻を近づけた。
<くん、くん…>
「違うね。おっぱいやね。」
有加は、タオルで、乳房を隠して、龍吾に、母乳を与える。そんな母子の姿を、笑みを浮かべて、見守っている勇生。もちろん、車を運転しているから、ジィーと見つめるわけには、いかないが…とにかく、二人、いや、三人の初春のドライブ旅行は、まだ、始まったばかりである。心なしか、都会の風から、田舎の風。緑の風景が、目に付くようになってきた。久しぶりのゆったりとした時間を、二人は、感じ取っていた。
阪和自動車道の海南インターを降りて、国道370号で、紀美野町へ。龍神街道(美里龍神線)、県道19号に入った頃。時間にして、時計の短針が10を指していた。確実な道のりと云うか、迷わず、目的地に行こうとするならば、遠回りになるが、阪和道に直結する湯浅御坊道路で、御坊市に出て、国道425号線で一本。南回りのルートが最適である。
『勇ちゃん、どうせ、龍神温泉に行くんだったら、山道で行ってみようよ。海側ではなく、山の方から、行ってみたい、勇ちゃん、そうしよう。』
そんな有加の要望で、今、走っている山側ルートに決まった。この後、国道480号線に合流して、花園村方面を走り、高野山へ…弘法大師(空海)が眠る奥ノ院、高野町を抜け、国道370号線(高野龍神スカイライン)。今夜泊まる宿のある龍神村(龍神温泉地)に、この車を走らせる予定でいる。
<スヤ、スヤ、スヤ…>
そんな有加の腕の中で、そんな寝息をたてて、眠っている龍吾。さっきまで、ぐずっていたのが嘘の様に、かわいい寝顔を浮かべている。そんな息子を、笑みを浮かべて、見つめている有加。
「車、停めるから、後ろに、移せば…腕、だるいやろ。」
さっきまで、ぐずっていた龍吾をあやしていた有加の事を、気に掛けている言葉。
「ふ~ん、もう少し、このままでいい。」
龍吾の寝顔に、癒しを感じている有加。勇生の言葉にも、うれしさを感じている。
「この車で、初めての遠出やから。龍吾も、気がたっているんやろ。」
「うん、そうやろね。赤ちゃんって、敏感やから…」
龍吾を出産して、六ヶ月。有加も、母親らしくなってきた。
「でも、不思議やな。龍吾が、生まれるまで、<どないしよう。育児なんて、無理。私には、無理!>って、毎日、言い切っていたお前が、今では、ちゃぁんと、母親しているんやもんなぁ。」
勇生が、ふと、出産前の有加の姿を思い返して、そんな言葉を口にする。
「ほんまや、不思議やね。あの時の私が、今の私を見たら、どう思うんやろ。」
「子供嫌いなお前が、今では、母親しているやもんなぁ。」
有加は、自分から、進んで子供に近づこうとは、しなかった。知り合いの赤ん坊だったり、子供を連れていると、<かわいい>とか、口にして、近づいて、頭を撫ぜたり、頬をプニョプニョしたり、するものであろう。女性であれば、表面上は、そんな言動をするとは思う。
「勇ちゃん、何度も、言うけど、私は、子供が嫌っているやなくて、苦手だったの。怖くて、どう接していいのか、わからなかっただけなの。」
有加は、うんざりしたように、言葉にする。多分、勇生が何度も口にしている言葉なのだろう。勇生も、そんな有加の言葉が、返ってくるのが、わかっていたのか、笑みを浮かべている。知り合った時が、二十歳の頃、勇生の一目惚れ。一年間の猛アピールで、付き合う事になった。交際して、一年過ぎた頃、どちらからともなく、一緒に住むようになった。七年の年月が、お互いを理解するには、十分な時間である。
「そうやったな。ごめん、こめん。」
二人の、そんなたわいのない会話で、盛り上がっていた。
黒いアスファルトで、舗装された道。周りに、民家などない山道の脇に、車を停めている。
「う~ん、はぁ…」
勇生は、外に出て、雄大な山々に向かって、身体を伸ばして、長めの深呼吸をしている。
「よ~し、龍吾、かわいい。」
そんな言葉を口にしながら、起きない様に、後部座席のチャイルドシートに、龍吾を横たわしていた。
「勇ちゃん、大丈夫よ。」
龍吾が、目を覚まさない様に、ドアを静かに閉めて、勇生に、そんな言葉を掛ける。
「有加、すごいな、この景色…」
「本当だね。」
勇生のいる位置に、足を進める有加は、勇生と並んで、そんな言葉を口にする。大阪市内に住む二人には、紀伊山地の雄大な自然は、新鮮なものに、映っているのだろう。
「久留米って、こんな感じとは、ちゃうよな。」
勇生は、急に、こんな言葉を口にする。<福岡、久留米>有加の生まれ育った町である。
「勇ちゃん、久留米、馬鹿にしているでしょ。大阪よりは、田舎かもしれないけど、こんなに山の中では、ありません。」
大阪育ちの勇生は、<九州、福岡>の事を、あまりわかっていない。
「そう、そうなんや…」
勇生は、言葉を止めた。これ以上の事は、有加に聞けない。二人は、結婚をしている。有加を嫁として、もらったのであるから、普通であれば、一度は、有加の実家のある<久留米>に、行った事がある筈であろう。言葉を止めた。有加に、これ以上、聞けない理由は、有加の父親に会っていないからである。有加は、父子家庭で育っている。父親とは、仲が悪いというか、有加が嫌って、高校卒業をすると、家出同然に、大阪に出てきたらしい。当然のごとく、父親とは、連絡を取り合っていない。だから、式も挙げていない。二人で、結婚衣装を着ている写真があるだけである。
勇生は、付き合う際に、有加から幼い時の記憶がない事。父親とは、絶縁状態である事を、聞かされていたのであるが、正直、こんなに根深いものだとは、思ってもいなかった。有加に、父親の事を、聞こうものなら、有加の怒りは、手に負えないものになる。
「ほな、そろそろ、行こうか。」
「うん、そうやね。」
小春日和と云う言葉が、よく似合う、快晴の空の下。二人は、顔を見合わせていた。
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