第29話 現実と向き合う有加

旅行から、帰ってきて、数日、過ぎた夕刻。有加は、ベビーカーに龍吾を乗せて、夕食の買い物に、出かけていた。過ごしやすい季節に、大阪の街を歩いている。自分のマンション近くのスーパーからの帰り、ベビーカーに乗る龍吾が、キャピキャピと覚えたての言葉を発している。そんな穏やかな時間が、流れていた。

マンションの郵便受け箱の前で、有加は、一通の手紙を手にしている。

「戻ってきたんや。」

さっきまでの、爽やかな気分とは、一転して、心なしか、声に力がない。手に持っている手紙には、<宛先不明>という赤いスタンプが、押されている。一週間前、有加が、父親である優一宛に、書いた手紙であった。

身体の力が抜けた状態で、マンションのエレベーターに乗る。肩の力が、抜けている。旅行から戻った翌日。実家に、電話をかけてみた。<ツー、ツー、ツー、お客様のおかけになった電話番号は…>と云う、アナウンス。今、<宛先不明>の手紙を手にしていると云う事は、有加の知る住所、電話番号先には、優一がいない事が、確定したわけである。

ガチャッ

力なく、玄関の鍵を開ける有加。龍吾を、片手で抱きかかえ、ベビーカーをたたむ。玄関先に、買い物をしてきた食材を置いて、いつの間にか、スヤスヤ眠っている龍吾を、ベビーベットに寝かせた。食材を、冷蔵庫に入れるものは入れ、一呼吸つく。キッチンのテーブルに座り込み、自分で書いた優一宛の手紙を、目の前に置いた。上阪当初は、一ヶ月ごとに、優一から、手紙が来ていた事を思い出す。

「何で、とっとかったんやろ。」

そんな言葉が、自然と出てきてしまう。後悔の言葉。優一から送られてきた手紙は、すべて、捨ててしまっていた。もう逢うつもりはなかった。正直、手紙が来る事が、うざく、感じていた。一通、二通は、目を通したのは覚えているが、それ以降は、ダイレクトメールみたいに、目を通さず、捨てていた。今となっては、発した言葉通り、後悔しかない。

「どないしよう。」

そんな言葉を、最後に、有加の思考回路が、完璧に止まってしまう。キッチンのテーブルの前で、<宛先不明>の手紙を見つめながら、死んだ魚の目のまま、時間が流れていく。


『おぎゃぁ、おぎゃぁ…。』

マンションの部屋の外まで、龍吾の泣き声が聞こえていた。

がチャ・ガチャ!

慌てて、鍵穴に、鍵を突っ込み、玄関先に、勇生の姿を見せる。

「どうしたんや!」

外は、もう暗くなっている。今日は、いつもより、少し早めの帰宅。勇生は、外まで、聞こえてきた龍吾の泣き声に、顔面蒼白、血症を変えて、飛び込んでくる。

キッチンのテーブルの前で、死んだように、動かない有加の姿が、目に入る。

「有加、何してん、龍吾、泣いているやろ。

有加の前を、素通りする。慌てて、ベビーベッドの龍吾の方に向かう。そんな言葉を、口にする勇生に、気づいていない有加は、テーブルの一点だけを見ていた。

 『おぎゃあ、おぎゃあ…。』

 「有加、お前、何、やってんねん。」

 泣き喚く龍吾を抱きかかえ、有加に、詰め寄っていく間も、有加は動じようともしない。

『おい、有加!』

有加の隣まで行き、そんな言葉を大声で叫ぶと、有加の肩が、ビクリと、動いた。

「えっ!」

そんな声を上げて、隣の勇生に、視線を向けた。

「お帰り、勇ちゃん。」

勇生の顔を見て、そんな言葉を発した。

「お帰りとちゃうやろ。有加。」

今の情況も理解できないでいた有加。龍吾が泣いていた事にも、気づいていなかった様子。

「エッ、勇ちゃんが、いるって事は…」

『おぎゃ、おぎゃあ…。』

勇生の腕の中で、大泣きをしている龍吾に気づいた有加は、立ち上がり、勇生から、龍吾を奪い取ると、今の状況を、頭をフル回転させて、理解しようとする。

「ごめん、勇ちゃん。何もしてへん。龍吾、ごめんな。おしめかな、おっぱいかなぁ。」

そんな言葉を口にして、慌て、ふためいている有加の姿を見て、込みあがっていた怒りが、沈んでいく。有加の悪ふざけ事ではないというのは、すぐにわかる。ベビーベッドのある部屋で、おしめを変えている有加。

「ごめん、お風呂も、夕食も…」

「有加、風呂は、俺が入れるから…」

勇生は、そんな言葉を残して、風呂場に足を向ける。

ジャァー、ジャァー…

風呂場の蛇口をひねり、お湯になるのを待っている。そんな間、有加の事を考えていた。今まで、こんな事はなかった。体調が悪いのか、育児ノイローゼなのか、色んな言葉が、頭に浮かんでは、沈んでいく。風呂場から、台所に戻ると、勇生は、有加に、こんな言葉をかけた。

「どうしたん、お前らしくないな。」

「うん、ちょっとね。頭が、真っ白になって…気がついたら、こんな事に…ごめん、今から夕食、作るから…」

おしめを変え終った龍吾を、おんぶ紐でオブって、慌てて、台所に立とうとする有加の腕を掴んだ勇生。

「今日は出前でも、取ろう。それよりも、何があったんや、話してくれへんか。」

そんな言葉を口にすると、おぶっている龍吾を、抱きかかえようと、おんぶ紐を緩めた。有加は、勇生が龍吾を、抱きかかえたのを見ると、さっきまで、座っていた椅子に、腰を下ろす。有加の正面に、勇生と龍吾の顔が見える。

「勇ちゃん、これ、戻ってきたんよ。」

有加は、覚悟を決める。自分の書いた手紙を見せる。勇生の瞳に、<宛先不明>の赤いスタンプが映る。

「勇ちゃん、どないしよう。十年間も、ほっといたから、お父さん、どこにいるか、わからへんようになってもうた。」

今さらであるが、有加には、親戚という類のものは、存在しない。優一が、施設育ちで、母親の京子には、親戚がいるのだろうが、逢った事もない。だから、親戚に、聞くという事も出来ない。俯いて、困り果てている有加の表情とは違い、勇生の方は、表情を変えないでいる。

「そうか…」

そんな言葉を、口にするだけである。勇生が、顔の表情を変えない理由。有加に、内緒にしている事。それは、年に、二、三回ほど、有加には内緒で、ある人に、手紙を出していた。有加と、一緒に暮らし出した頃であるから、もう、五年ぐらいは続いているだろうか。この場で、その内緒事を、話していいものなのかと、考えていた。

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