第32話 有加の憂鬱(ふきでもの)

福岡(久留米)に、里帰りをする早朝。まだ、夜が明け切っていない時間に、目が、覚めてしまう有加。

昨晩は、緊張しているのか、なかなか、寝つけなく、四時間ぐらいの浅い眠りで、目を覚ましてしまう。何も、言葉を発せず、隣で眠る勇生を、起こさないように、ベッドから、抜け出ていた。

スヤ、スヤ…

 ベビーベッドで、そんな寝息を立てて、寝ている龍吾に、目が行く。つい、この間まで、三時間おきに、母乳を与えていた息子が、最近は、六時間、七時間、寝てくれる。龍吾の頭を撫ぜながら、しばらく、時を過ごしていた。表情は、緩んでいる。我が子を、寝顔を見ていると、自然に、穏やかな気持ちになってしまう。それが、母親と、云うものなのだろう。

 有加の足は、洗面台に向かっていた。外は、まだ、薄暗い時間帯。目が覚めてしまった有加は、何をする事もなく、自然に、洗面台に、足が向いていた。

 「ふぅ…」

 洗面台の鏡に映っている、自分の姿を見て、そんな溜め息をつく。ここにいる理由は、何もない。只、いつもの癖で、蛇口をひねり、顔を洗い出す有加。

 ジャバン、ジャバン…!

 顔面、水浸しになった姿を、再度、鏡に、映してみる。

 「あれ!」

 そんな言葉を呟き、濡れた前髪を、片手で上げて、おでこを鏡に映した。

 「ふきでもの。」

 小さく、そんな言葉を発した。ここ数年、ニキビなど、出来ていなかった。ニキビは、若者にできるという事は、間違っているかもしれないが、そんなイメージがある。

 「私、まだ、若いやん。」

 そんな意味不明な言葉を、発してしまう有加。何か、ほんの少し、うれしくなってしまう。まだ、夜が明け切っていない時間帯に、何をやっているのだろう。

 「あっ、ストレス。」

 喜びの感情が、一気に冷めていく。有加は、ここ数年、おでこに吹き出物など、出来ていなかったので、忘れてしまっていたが、ある事柄を思い出す。小、中学校の修学旅行。高校受験。大阪への旅立ち…おでこの吹き出物は、有加が、重いストレスを感じた時に、出ていた。過去の色んなプレッシャーを、思い返してみると、ほんの少しのうれしさも、どこかにいってしまっていた。

 「あぁ、嫌やわぁ。気が重いよぉ。」

 おでこの吹き出物を、前髪で隠すと、洗面台の前で、しゃがみ込んでしまう。有加にとって、気が重い事、あと数時間後に、出かける里帰りである。

 <あっ、お父さん、久しぶり。今度のゴールデンウィークに、逢わせたい人がいるから、帰るね。突然に、ごめんね。とにかく、ゴールデンウィークに、帰るから…>

 そんな言葉を、父親の留守電に入れた、自分のメッセージが、頭に浮かんでくる。そんなメッセージを入れて、三週間、有加は、再度、父親に電話をする事はなかった。

 「いや、どうしよう。行きたくない。」

 有加は、そんな言葉を、洗面台にしゃがみ込みながら、発していた。本当に、行きたくない訳でない。只、父親に逢いづらいというプレッシャーが、有加に、そんな言葉を、口にさせるのである。しばらく、有加は、洗面台の前で、うごめいていた。

 「よし!」

しばらくして、そんな言葉を発して、立ち上がる有加。鏡に、映し出されている。気合いの入った自分の顔を、睨みつける。片手で前髪を上げて、空いている片手の親指を立てて、おでこに、出来たニキビに、近づける。ニキビを、潰すつもりでいる。有加のそんな行為をするのは、プレッシャーに立ち向かう為の儀式であった。

 ぷちぃっ!

 小さい脂肪の塊が、おでこから飛び出すと、吹き出物から、少しの血が滲んでくる。そんな自分の行動を、鏡を通して、全て見つめていた有加。鏡の横にかかっているタオルを手に取り、潰したニキビに、押し当てる。白いタオルに、一点だけ、滲んでいた自分の血を、確認すると、再度、タオルを、おでこに押し当てて、洗面台を離れる。台所にある救急箱を手に取り、テーブルの椅子に座った。体重を前にかけて、片手で、救急箱の絆創膏を探している。おでこに、押し当てたタオルを、何度か、放しては押し付け、血が止まったのかを確認すると、指先で、ニキビの位置を確認しながら、絆創膏を貼り抑えた。

 「ふぅ…!」

 大きな溜め息をつくと同時に、すべての体重を、背もたれにかけていた。

 「何で、父さんに、もう一回、電話をせんかったのやろ。」

 その言葉通り、留守電のメッセージを入れてから、三週間という時間があったのに、再度、電話をする事をしなかった。頭の片隅で、父親からの電話があると、思っていたのか、勇生から、渡された葉書に書かれていた電話番号を、押す事をしなかった。有加の中で、父親に電話をした時、留守電であった事に、ホッとしている自分がいた。正直、電話に出た父親、優一に、どんな会話をするのが、想像できなかったからである。とにかく、そんな有加の後悔する言葉が、早朝の台所に、侘びしく響いていた。

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