第31話 有加の憂鬱

龍吾は、口を尖らせていた。少し、温めのお湯に、かわいい裸の龍吾を入れる勇生。龍吾の真似をしているのか、不思議と、勇生も口を尖らせていた。

クワァー

そんな表情をして、勇生の顔を見つめている。そんな我が子に、トロけている頃。有加は、家電の受話器を握っていた。勇生から、渡された葉書を、手にして、父親優一に、電話をかけようとしていた。

「どうしよう。なんて、話せばいいの。」

有加の口から、そんな言葉が出てくる。確かに、十年以上も、会話をしていない。

つー、つー、つー…

受話器から、そんな音が聞こえてくる。福岡に、久留米への里帰り。父親の居場所も、電話番号もわかった。後は、<帰るから>と言うだけである。なかなか、プッシュホンを、押せないでいた。

「やっぱり、手紙を、書いた方がええんかなぁ。」

そんな言葉が、口にしてしまう。只、<帰るから>と言うだけの勇気が、出てこない。

「結婚したって、子供も、生まれたって、そんな事をいったら、怒られるやんな。多分、いや、喜ぶかも知れんし…」

有加の独り言が続く。自問自答しながら、何か、いい言葉を捜している。十年と云う空白の歳月が、有加に、重く圧し掛かっていた。勇生と龍吾が、風呂から出てくるまで、そんな時間が流れていた。


真っ裸の龍吾を抱きかかえて、勇生が姿を見せる。

「おぉ、お父さんに、電話してたんか。で、なんて…」

受話器を、持っている有加の姿を目にして、そんな言葉を、発した勇生。真っ裸の龍吾を、奥の部屋まで連れて行き、ふわふわのベビー服に、着替えさせている。有加は、受話器を置いて、エプロンを身に付ける。

トン、トン、トン…

夕食の支度を、始める有加。台所の物音に、龍吾を着替えさしている勇生の耳に届く。襖の仕切りから、顔を出すと、台所に立っている有加の後ろ身が、瞳に映る。

「有加、出前でええのに…」

声は、聞こえているのだろうが、返事がない。勇生は、かわいらしい龍吾を抱きかかえ、台所の有加の後ろに立つ。

「そうや、どうやったん。お父さんとの電話…」

正直、優一との電話の内容が、気になってしまう。興味を、持ってしまう。十年振りの親子の会話。

もくもくと、料理に集中している。それでも、しつこく、聞いてしまう勇生。

「なぁ、聞かせてくれや。有加ちゃん。」

どうしても、聞きたいのか、甘え言葉になってしまっていた。

持っていた包丁が、止まる。勇生は、その瞬間、殺気を感じた。それと同時に、周りの空気が、さぁぁと、冷たくなるのが、わかる。

『うるさい!』

そんな有加の怒鳴り声を、発したと同時に、勇生は、有加から、離れていた。<やってしまった>感が、漂う。有加の肩が、震えている。

「ごめん、しつこかったな。悪かったから、そう、怒るなや。」

有加は、震える肩を見つめながら、そんな言葉を口にする。

「かけてない。明日、かけるよ。」

そんな有加の言葉で、周りの空気が、ますます、重くなった。てっきり、電話をかけていると思っていた勇生。有加からの恐怖と、身勝手な思い込みで、言葉を失ってしまう。

「父さん、残業かも、しれへんし、あっ、そう、この時期は、帰りが遅かったし…」

勇生に、背を向けたまま、そんな言葉を発している。勇生に、言葉を掛けているのではなく、またまた、自分に問いかけていた。勇生と、龍吾が、風呂に入っている時間、結構、長かったと思う。そんな時間をかけて、電話をかける事が、出来なかった自分に対して、気恥ずかしさが、あるのかもしれない。

「かけてないって…」

小声で、そんな言葉を呟くと、ものすごく形相の有加が、振り向いた。

「だから、言ってるやん。父さん、残業やし、電話しても、迷惑なんやって…」

もう、残業は、確定してしまっている。勇生は、それ以上、言葉を口に出せない。有加の周りの空気が、ぴりぴりしているのが、勇生は、感じ取っていた。

有加は、そんな言葉を、ぶつぶつと発しながら、調理を再開する。そんな有加を、見ていると、何度も、受話器を手にしながら、かけることが出来なかった有加の気持ちが、なんとなくではあるが、理解し始める。ゆっくりと、周りの空気が、いつもの雰囲気に戻っていく。夕食が、テーブルに並ぶ頃には、いつもの夕卓の雰囲気になっていた。有加にも、笑みが浮かんでいる。まぁ、いいではないか。有加には、通らなければいけない事は、わかっているし、覚悟をしている。まぁ、いいではないか。有加が、少しずつではあるが、優一と逢おうとしているのだから・・・


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