第10話 おばあ おばあ

久留米の安アパートの一室。京子とおばあの姿が見える。さっきまで、有加のはしゃぎ声が、部屋中に響いていたのに、静かになった事で、京子は、ふと、おばあと有加が遊んでいる部屋を覗いてみる。

スー、スー、スー…

かわいらしい寝息を立てて、おばあの膝の上で、寝入っている有加の姿が、瞳に映っている。

「京子ちゃん、有加ちゃん、寝てもうた。」

遊び疲れたのか、かわいらしい寝顔に、京子は、ふと、見入ってしまう。

「あっ、布団ばぁ、ひかんと。」

そんな言葉を口にすると、慌てている。そんな京子をよそに、おばあは、有加の背中を、軽く叩きながら、そのリズムに合わせて、子守唄を口ずさんでいる。穏やかな、心地いい音色が、有加を深い夢の世界に導いていた。

「おばあ、布団、引けたから、寝かせて…」

「あぁ、そうやね。」

シワシワの顔が、飛び切りの笑顔になっている。優しく、有加の身体を抱きかかえるおばあは、有加を起こさない様に、布団に寝かせる。京子の表情にも、笑みがこぼれていた。有加を抱きかかえる、おばあの姿を、亡き母親とダブらせているのであろう。そして、静かに、襖を閉める。

「おばあ、お茶で、いいよね。」

「ああ、悪いね。京子ちゃん。」

居間の炬燵に、向かい合って、座る二人。京子は、一息つくおばあに、熱いお茶を入れる。

「おばあ、私も、いい年やけん、ちゃん付けは、やめてよ。」

そんな言葉を添えて、おばあに、お茶を差し出す。

「なんば、ゆうとると、京子ちゃんは、いつまで経っても、あの頃の京子ちゃん、やがね。」

そんな言葉の後、湯呑を、口に運んでいる。小学校の頃から、見ている京子は、おばあにとって、<ちゃん>なのである。正直、京子は、そんなおばあの言葉が、うれしかった。おばあが、自分の事を、見てくれているという実感が、京子にはうれしかった。

「あのね。さっきの子守唄、教えてくれんね。有加のやつ、おばあの子守唄やったら、一発で、寝息やもん。」

京子は、楽しそうに、そんな言葉を投げかけた。

「京子ちゃん、子守唄って云うのは、教えてもらうもんじゃなかと、自然に、覚えるもんやっとよ。」

熱いお茶を啜りながら、そんな言葉を、京子に返す。

そうなのであろう。子守唄と云うものは、教えられるものじゃないような気がする。子供の頃、母親が歌ってくれたものを聞いて、自然に、覚えているものなのであろう。

「じゃあ、おばあに、毎日、来てもらわんと…私、耳にして、覚えるから…」

おばあは、そんな京子の言葉が、うれしかった。戦争で、家族というものを、失ったおばあにとって、京子の言葉が、うれしかった。

「そういえば、優一にも、よく歌ってやった。有加ちゃんみたいに、よく、わしの膝の上で、寝とった。」

穏やかな顔、笑みをこぼしながら、そんな言葉を口にするおばあ。ふと、京子は、考える。優一の幼い頃の事は、全く知らない。京子が、養護施設にやってきたのが、十二歳の時。京子の知る優一は、すでに、<悪がき>と云う、レッテルを貼られていた。

「ねぇ、おばあ。優一の小さい時って、どんな子供だったん。教えてくれんね。」

京子のふとした疑問を、おばあにぶつけてみる。優一の幼い時、どんな子供だったのだろうと考えると、急に、興味が湧いてきた。

「ふぅん、優一の幼い時ね。」

「うん、そう、教えてよ。おばあ。」

身を乗り出してしまう京子。おばあは、静かに、話を始めた。

「優一は、本当に、泣き虫で、心、優しい子やったとよ。よく泣かされて、帰ってきとった。心優しい子やから、殴られても、殴り返す事は、しなかった。」

京子は、そんなおばあの言葉が、意外であった。京子の知る優一とは、180度違っている。

「わしが、やられたら、やり返せば、ええんじゃと言うと、<だって、おばあ、殴ったら、痛いんだよ。痛いと、悲しんだよ>って、泣きながら、ゆうんよ。」

目尻が釣り上がり、周りを寄せつけない。優一しか知らない。口も、悪ければ、手もすぐに出る。<悪がき>の度を、越えていた優一しか、知らない京子。

「いつからかね。あんな風になったのは…」

しみじみ、そんな言葉を口にするおばあ。優一の幼い頃を知っているだけに、一瞬、悲しそうな顔をする。

「でも、中身は、変わってなか。よく、泣かされてきとった、あの頃のままたい。心優しい子供のまま、<おばあ、おばあ>って、わしの膝の上で、寝とった頃のまま、なんよ。」

京子には、わかる。優一の優しさを、知っているから…おばあの瞳は、潤んでいた。悲しみの涙なのか、うれしさの涙なのか、京子には、分からない。

「でも、もう、わしは、必要なかね。京子ちゃんがおる。有加ちゃんもおる。優一には、家族が出来たばい。ほんまもんの…優一が、小学三年ぐらいか、<おばあなんで、僕には、お父さんも、お母さんも、おらんの。僕が、悪い子やから…>多分、学校で、なんか、言われたんやろな。そん時、わしは、何も言えんかった。優一を、抱き締める事しか、出来んかった。」

皺くちゃの目尻から、一滴の涙が、流れ落ちた。あの気丈なおばあの姿は、ここにはなかった。

京子は、思っている事が、言葉に出来ないでいた。

「嫌だねぇ。年をとると、涙脆くなるね…わしは、そろそろ、いぬとしようかね。」

そんな言葉を発して、立ち上がろうとするおばあ。

がばっ!

京子も立ち上がり、思わず、おばあの袖口を、掴んでしまう。

「おばあ、あんな、あんね…」

京子は、何かを言おうとして、言葉を止めてしまう。

「どうしたと、京子ちゃん。」

「…おばあ、今日は、泊まっててよ。優ちゃん、今日、夜勤やけど、夕食食べに帰ってくるし、その方が、有加も、喜ぶし…うん、そう、それがよか。」

京子は、そんな言葉を発して、自分で納得する様に、スタスタと、買い物支度をする。

「ちょっと、京子ちゃん。」

おばあは、京子の言葉に戸惑ってしまう。

「おばあ、嫌だって言っても、駄目たい。私が、そう決めたと。じゃあ、夕食の買い物行って来るけん。有加の事、お願い。」

半ば強引な言葉。無理やり、おばあに、留守番をさせようとする。足早に、玄関に向かう京子の姿を、おばあは、見つめていた。

「おばあ。」

背を向けたまま、そんな言葉を発する京子。

「あんね。まだ、おばあに、見守ってもらわんと、困ると。」

この言葉が、本当に、京子が言いたかった言葉なのだろう。

「だから、必要ないなんて、言わんとって!」

京子は、振り向いた。力強い目つきで、おばあの事を見つめて、言葉を続ける。

「私も、おばあに、励まされたり、助けてもらったり、いっぱいあるとよ。両親のいない私達にとって、必要な人なの。大事な人なの。」

京子は、言葉を切らさないで、続ける。本音という言葉を続けていた。

「おばあは、優ちゃんと私の、お母さんなの。有加にとっては、お祖母ちゃんなの。おばあは、他人じゃなかと。だから、必要ないなんて…。私も、優ちゃんも、おばあ孝行しとらん。全然、やっとらん。だから、ずっと、傍にいて、私達、三人を、見守っといて…お願い!」

そんな言葉を、言い終わると、思い切り、頭を下げる京子。

「・・・以上です。私からのお願いです。じゃあ、行って来ます。」

頭を下げたまま、そんな言葉が加わる。

バタン!

京子が、部屋を後にする。おばあの瞳からは、溢れんばかりの涙が、流れ出す。京子の言葉が、うれしくて、どうする事も出来ないでいる。天涯孤独のおばあ。戦争で、夫に先だたれ、戦後、病気で、幼い我が子を、逝かせてしまった。孤独な老人が、大粒の涙を流していた。

その日の夕刻、食卓には、四人の姿があった。はしゃぎまくる有加。悪態をたれる優一。応戦するおばあ。そんな二人を、見守る京子。明るい、楽しい夕卓を、囲んでいた。そんな家族の姿。いつもよりも、少し賑やかな時間が流れていく。明日に繋がる今日が、流れていく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る