第41話 桜の木

この日の夕刻。全てのものが、ゆったりと、流れている。優一は、西日が差す縁側に座り、庭の大きな桜の木を見つめていた。

「父さん、はい、どうぞ…」

有加が、大きな湯のみに、湯気が立つ、熱いお茶を、優一の前に、差し出した。

「ありがとう…勇生君は…」

湯気を立てている大きな湯飲みを、手に取り、そんな言葉を口にする。

「うん、龍吾を、寝かせに、二階に行った。」

「ああ、そうか…」

「この桜の木も、父さんが、植たん…」

穏やかな時間の中の、親の子の会話。優一は、湯飲みを啜りながら、桜の木を見つめている。

「いや、これだけは、生き残ったんよ。」

そんな優一の言葉が、聞こえる中、有加の記憶、おばあの駄菓子屋の庭の風景が、甦ってくる。

「あの火事で、この桜の木だけが、生き残ったと。たかが七年で、桜の木は、こんなに、大きくは、ならん。」

優一は、そんな言葉を続ける。有加は、庭全体を、見渡してみると、桜の木だけが、でっかく、周りの木々達は、丈も短く、若い。

「じゃあ、この桜、あの時のままやんや。」

「そうたい、おばあが、生きとった時の桜や、しぶとく、まだ生きとる。なぁ、おばあ…お前が死んで、この桜だけが残った、何でや、何で、こんな事。するったい。そんなに、わしの事が、心配か。わしは、一人で、よかったたい。有加を、苦しめる事、せんでも、ええやろ。俺は、ここに、戻ってきただけで、幸せやっとよ。おばあの、思い出が、つまっとる。この土地で、過ごすだけで、よかったたい。まぁ、おばあのする事やから、これで、ええんやろ。本当に、ありがとうな。」

優一は、おばあに、話しかけるように、話をしだす。有加は、そんな父親の姿を、黙って見つめていた。

「有加…」

「何、父さん…」

静かに、優しく、優一に、言葉を返す有加。

「お前が、大阪に出て行った日。京子とおばあの墓を参ったと。お前が、記憶を失ったから、二人の命日に、お前に黙って、墓を参るようにしとった。ここから、十分ぐらいの所にあるから、毎回、ここに来とった。この土地な、おばあが、わしの為に残してくれてたんよ。あの火事の後、弁護士が来てな。この土地と、おばあが残したものを、相続するのは、あなたですって、言われて、血の繋がっていないわしに、正直、驚いたと…おばあの野郎、死期を感じていたのか、そんな事、弁護士に、頼んでいたんよ。おかしいやろ。こんなもん、もらってもうれしくなか。めんどくさいから、後の事は、その弁護士に任せた。八年間、ほったらかしやったから、荒れ放題で、木で作った柵も、ボロボロでやったと。でもな、この桜の木に、花が咲いているのが、目に入ってきたとよ。死んでると思っとった。もう、花なんか、咲かないと、思っとった。わしが、気づかんかっただけやったと。毎年、少しずつ、少しずつ、花を咲かしていたんやろう。その時、ここに住もうと思ったばい。おばあの思い出が詰まるこの土地に、来ようと思ったと。」

ゆったりとした口調で、優一の話は、続いた。西日が差す縁側で、そんな優一の言葉が、有加の心に、ゆったりと、入ってくる。

「そんな事が、あったん。」

「まあ、その後が、大変やったけどな。草を刈ったり、家を建てる為に、土地を平らにしたり…」

「ちょっと、待って、父さん…自分で建てたのこの家…」

優一の言葉を、驚いて、こんな言葉を口にしていた有加。

「もちろん、専門的な事は、頼んだとよ。自分で、出来る事は、自分でやった。三年もかかったわ。」

そんな言葉を、口にして、笑っている優一。呆れると云うか、言葉にならないでいる。

「あんな、有加。自分の手をかける事に、意味があったと。おばあが、残してくれたものに、自分の手を入れなか、あかんかったと…」

優一の言う事が、分かるような、分からないような、不思議な感覚。

「まぁ、お前には分からんでもよか。わしのケジメやからな…とにかく、帰ってきたんやから、明日、墓参りにいこうや。京子も、おばあも、まっとる。」

「あっ、そうやね。墓参りしな。」

西日が差す縁側で、父親は語る。空の赤みが、徐々に、暗くなってくる。確実に、親子の形に戻っている。随分、遠回りしたかもしれない。その分、絆は、強くなっている。

「さぁ、夕食を、支度しないと…」

有加は、そんな言葉と同時に、立ち上がる。優一は、しばらく、この場所で、桜の木を見ていた。桜の木に、おばあの姿を、見ている様に…

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