第9話 おばあ

「あっ、そうや。明日、おばあが、顔出すって、電話あったよ。」

しばらく、夫婦の時間を、楽しんでいると、京子は、不意にそんな言葉を口にする。

「おばあ…あいつ、まだ、生きとったとか。」

優一は、こんな言葉を京子に返した。

「もう、優ちゃんは、心無い事、言わないの。」

京子の言葉通り、優一は、おばあに対して、悪意があるわけではない。優一と京子は、同じ、孤児院。養護施設の出身であった。そして、<おばあ>は、養護施設があった場所の近くの駄菓子屋のおばあちゃん。養護施設の子供達から、とても、慕われていた存在。

「おばあ、いつまで経っても、ガキ扱い。俺、もう二十八やっとよ。」

少し、酒に酔っているせいもあるのか、言葉が乱暴になっている。

「それだけ、優ちゃんの事が、かわいいやけんね。」

悪たれを口にする優一に、笑みを浮かべて、そんな言葉を口にしている。

「気持ちか、悪か事、言うなっちゃ。」

「だって、私より、優ちゃんの方が、おばあと、付き合い、長いのよ。」

京子が、十を数えていた年に、京子の両親は、交通事故にあい、同時に、他界している。その後、二年、親戚の家を、たらい回しにされ、最終的に、優一と同じ、養護施設にやってきた。だから、まだ、両親の顔は、覚えている。しかし、優一は違った。【捨て子】である。生まれて間のない状態で、毛布一枚に包まれたまま、養護施設の前に、置かれていたらしい。季節は、真冬。十二月の、とても寒い夜の事であった。その時、毛布一枚の優一を、抱きかかえて、施設に飛び込んできたのが、おばあであった。名もなく、誕生日もない。親の顔さえ知らない、名無しの権兵衛。施設側が、【優一】と名づけ、誕生日も、捨てられた日になっている。そんな事もあってか、おばあは、優一の事を、気に掛けていた。

京子の知る優一は、中学卒業後、すぐに、施設を出ている。施設内でも、学校でも、浮いていた存在で、(不良)という部類に入るのかもしれない。群れる事を嫌い、一匹狼で、何かある事に、反発をしていた優一。施設の人間からも、学校の教師達も、お手上げ状態。只、時間が流れるのを、待っている状況であった。しかし、おばあだけは違った。根気よく、優一と向き合った。優一が、問題を起こすと、飛んできて、優一を叱り飛ばす。施設の人間でも、学校の教員でもない、只の駄菓子屋のおばあちゃんが、優一の事を、見つめてくれていた。だから、優一は、おばあに、頭が上がらない。口では、突っ張っているが、心底、おばあを慕っていた。施設から出ても、たまに、優一の所に顔を出して、説教というか、激励というか。世間知らずであった、まだ、子供だった優一を支えていた。その甲斐もあり、優一は、一年遅れではあるが、定時制高校に通い出す。今があるのは、おばあの存在がなければ、有り得ない。おばあが、優一にとっての、大きな存在になっているのは、京子も、理解している。

「まぁ、長いけど…腐れ縁って、やつ…」

優一の、悪態は続いている。

「もう、そんな事、言わないの。有加にとっても、いいおばあちゃんよ。<おばあ、おばあ>って、懐いているとよ。」

「フン、勝手に、俺の子供、手なづけるなって…血の繋がりも、ねぇのに…」

優一の悪態が、度を過ぎてしまう。京子の表情が、一瞬にして変わる。

『優ちゃん!』

口にしては、いけない言葉。京子は、怒鳴り声を上げた。

・・・

優一は、酒に酔いながらも、口走った言葉を飲み込んだ。京子は、そんな優一に、顔を突き出し、こんな言葉を発した。

「何、言ってんの。親のいない、私達にとって、おばあが、どんな存在か、わかっていると、優ちゃんにとっては、私以上に、大切にしないと、いけんとよ。言っていい事と、悪かこと、わからんね!」

京子の怒りが、わかりすぎるほど、わかっている優一。京子にとっても、<おばあ>の存在は、特別なのである。施設に、入った時、最初に、声を掛けてくれた大人が、おばあ。施設の子供、一人、一人、目を合わせて、挨拶をしてくれた。悪い事をすれば、真剣に怒ってくれた、良い事をすれば、抱き締めてくれる。施設の子供達にとって、特別な存在。京子が、優一に向かって、怒りを表すのも、当然の事なのである。

「…悪かった、言い過ぎた…」

両親の顔を知らない優一にとって、<おばあ>存在は、他の子供達とは、違っていた。<おばあ>が、優一の事を見る目は、他の子供達とは違っていた。まるで、我が子を見るように…

「悪かったじゃあ、ないわよ。素直に、なりなさいって言うの…」

京子は、振り上げた拳を、振り下ろせないでいた。優一の事を、ずっと、見てきた。優一が、悪態をたれるのは、おばあに対しての愛情の裏返し、そんな事はわかっていた。

「ごめん、お前の、言う通りや、ごめん。」

今度は、京子が、言葉を失ってしまう。優一とおばあの間には、京子にも、立ち入れないものがある。両親の顔を知らない。名なしの権兵衛だった優一には、大人の付き合い方が、わからなかったのである。京子は、両親と暮らしていた時期の記憶がある。施設の子供達も、どんな状況であれ、親の顔は知っている。<捨て子>であるのは、優一だけであった。京子にはない感情を、優一は持っている。京子には、わからない気持ちが、優一には、あるのである。

「京子、俺が、悪かったとよ、なぁ…」

京子の気持ちを、汲み取るような言葉。言葉を、口から出さない京子の瞳を見つめている。その後、二人の間に、言葉は要らなかった。二人は、静かに、お酒を飲んでいる。しばらくすると、二人の唇が、重なっていた。隣の部屋では、有加が眠っている。どんな夢を、見ているだろう。いつもの夜。そんな何でもない夜が、更けていく。


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