第34話 山陽新幹線・2

門倉トンネルを、通過して、【博多】駅まで、あと数十分で着く。勇生は、再び、緊張に襲われていた。隣にいる有加は、リラックスしていた。あれだけ、喋れば、気も晴れるというもの。気持ちが、楽になっている。

「あっ、なんやねん。これ!」

突然、そんな声を上げる勇生。新大阪で、購入した福岡県のガイドブックに、目を通していて、ある事に気づいた。

「どうしたん、勇ちゃん。びっくりするやないの。」

隣にいた有加は、思わず、そんな言葉と共に、視線を向ける。

「お前、博多から、久留米まで、相当、距離あるやん。どういう事。」

龍吾を抱きかかえながら、表情が、ポカーンとしてしまう有加。当の本人は、真剣である。久留米と云えば、結構なの知れた都市、地名であるだけに、博多、北九州と、同様、大きな街だと、思っていた。だから、福岡の中心部にあるイメージがあったのに、福岡の下の方。佐賀県と熊本県の方が近い所に位置していた。有明海までには、行かないにしろ、玄界灘よりも、有明海の方が近い。その事実に、思わず、声を上げてしまったのである。

「当たり前やん。」

この言葉で、わかるように、福岡生まれ、福岡で育った有加には、当たり前の事。山陽新幹線で、博多駅。西鉄天神大牟田線に乗る為に、天神まで、地下鉄。西鉄福岡駅から、特急で、約三十分。西鉄久留米駅で降りて、あとは、各駅に停まる普通車両に乗り換える。頭の中には、そんな段取りが描かれていた。

「嘘やろ。」

また、そんな言葉を上げる。勇生にも、段取りと云うものがある。我妻の父親に逢おうというのである。それなりの心構えというものが、必要になってくる。もう妻になってしまっている。かわいい息子までいる身。我妻の父親に、一度も、顔を合わせていない勇生にとって、頭に描いていた段取りとは、大幅に、ずれてしまう事になる。嫌な汗が、脇から出てくる。まぁ、ここまで、来てしまえば、後戻りなど出来ない。覚悟を、決めなければいけない。また、段取りを組み直して、シミュレーションを、頭の中に、描き直さなければいけない。それをするまでの、勇生のぼやき、悪あがきなのだろう。

勇生が、頭を抱えている隣で、有加は、落ち着いていた。我が息子、龍吾の寝顔を見ながら、笑みを浮かべていた。門倉トンネルを通過したのだから、もう、九州に入っている。十年振りに、故郷に帰ってきたのである。今朝までの不安も、どこかにいってしまっていた。一時間以上も、思い出話をした事で、失っていた記憶の中の、楽しい事、うれしい事があるのに気づいた。確かに、辛く、悲しい記憶の方が、でっかく、重く残っている。しかし、悲しい思い出の隙間に、小さな、楽しく、うれしい出来事が、山のようにあった。有加は、ちょっと前まで、辛く、悲しい記憶としか、向き合っていなかった。おぼろではあるが、母親、京子と過ごした日々。おばあと、毎日、顔を合わせていた日々。そして、有加を死なせまいと、逝ってしまった京子とおばあの記憶。その後の父親、優一と過ごした日々の記憶。すべて、合わせて、有加なのである。優一と逢う事が、気が重く、押し潰されそうになった有加は、もういない。今は、全てを曝け出して、父親に、ぶつかってみようと思っている。そんな有加の表情は、晴れ晴れとしていた。


新幹線の車両は、九州に入り、周りの景色が見えないトンネル内が、しばらく続いていた。車両の電光掲示板に、<まもなく、博多>の電子文字が、流れ出す頃。車窓の景色が明るくなってくる。トンネルを、抜けたようである。有加の瞳に、懐かしい風景が、映し出される。

「わぁっ!」

思わず、そんな言葉を発してしまう。そんな有加の言葉に、反応したのか。腕の中にいる龍吾が、目を覚ます。

「ほら、龍吾、ここが、お母さんの故郷なんよ。」

目が開いている龍吾に気づき、懐かしい風景を見せてやる有加。もうすぐ、博多駅である。

『終点、博多です。乗客の皆さん、お忘れ物が…』

新幹線の停車しようとする振動が伝わってくると、そんな車内アナウンスが、流れ出す。我先にと、出口に向かう乗客達。有加と勇生は、まだ、座っている。

「勇ちゃん、行くよ。荷物、お願い。」

龍吾を抱きかかえている有加は、荷物を持てない。動こうとしない勇生に、そんな言葉を掛けた。

「よし、行くか。」

自分に、気合いを入れる言葉。頭の段取りと、シミュレーションが出来上がった。目を見開き、立ち上がる。ゆっくりと、動いている列の最後尾に並び、博多駅のホームに、足を降ろした。有加にとって、十年振りに目にする風景。記憶にある風景と、さほど、変わり映えのしない風景に、感動に近いものが、込み上げてくる。小、中、高校の修学旅行。失っていた記憶の中にも、今、目にする博多駅の風景が残っている。十年前、大阪に出る時は、もう二度と、ここには、帰ってこないと思っていた場所に、今、立っている。幼稚園の博多駅、小学校の博多駅。中、高の博多駅が、順序良く、記憶の中にある。

「帰ってきたんや。」

そんな言葉を、龍吾を抱きかかえながら、口にする。忙しなく動く、人波の中、有加は立ち止まり、故郷の空気を、思い切り、吸っていた。

「有加、これから、どないするんや。」

そんな勇生の言葉で、有加も、忙しなく動く人波の中に入っていく。そして、現実と、向き合う。父親、優一に黙って、入籍をしてしまい、龍吾まで、生んだという現実。優一は、どう思うのだろう。許してくれると信じているのであるが、自分に、気合いを入れてしまう。十年、逢っていない。最後の手紙は、七年前。人間が、変わるには、十年という歳月は、充分過ぎるほどの時間である。

<もしかして、新しい母親…>

今朝までの不安とは、全く違う、別な不安が、有加に襲ってきた。

「とにかく、地下鉄やから、こっちかな…」

不安になる気持ちを、抑えながら、こんな言葉を口にする。優一も、まだ、四十代後半。女性がいても、おかしくはない。龍吾を、抱きかかえながら、ホームを歩いている。後には、荷物を持った勇生が、付いて来ている。

<どないしよう。そうやったら…>

そんな有加の心の叫びが、聞こえてきそうである。


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