第17話 記憶の引き出しの奥の奥
ざわ、ざわ…
周りのざわめく物音が、耳に入ってくる。有加の目の前に現れた優一が止まろうとしない。有加と目が合っているはずなのに、瞳を微動足りさせず、歩み寄ってくる。
<はぁっ!>
有加は、咄嗟に、目を閉じてしまう。妙な感覚を、有加は感じ取った。恐る恐る、目を開けてみるが、目の前には、優一の姿はない。有加は、振り向き、後方に視線を向ける。今度は、優一の後ろ身が、瞳に映っている。妙な感覚は、優一が、有加の身体を、すり抜けた時のものであった。
<えっ!>
有加は、自分の身体に、目を向けてみる。
<エッ、何、なんなん>
有加は、今の状況に、驚いている。身体が浮いている。足が、地に付いていない。
『有加ちゃん…、わかとるやろ。』
耳の奥から、おばあの言葉が響いてくる。有加の身体を、大勢の人達が、すり抜けていく。有加は、おばあの声を、無視して、周りの状況に目にやる。
<懐かしいやん、ここ、駅やん>
失っていた記憶の中にある、おばあの駄菓子屋の近くにあった、最寄駅の風景。有加は、とにかく、優一の後ろ身を、追いかける事にした。
<あっ!>
優一が、改札を抜けて、手を振る女の子に、歩み寄っていた。
<私や、いくつぐらいだろう>
そんな言葉を、口にする。一時停止したままの記憶。ベッドの上で、無表情のまま、寝ている幼い自分の姿が、頭に浮かぶ。すると、又、耳の奥から、おばあの声が、響いてきた。
『有加、これが、あんたが、失っている記憶たい。自分の目で、たしかめんしゃい。』
有加は、なんとなく、今の状況を理解する。おばあの意識の中にいる事。私の姿は、周りの人達には、見えていない事。とにかく、有加の知りたい記憶であるのは、間違いない。有加は、このまま、見てみよう思う。このまま、優一の後ろ身を、追いかけてみようと思う。
「おぉ、有加。一人で来てくれたんか。えらいなぁ。」
優一は、思い切りの笑みを浮かべて、手を振る愛娘の有加に、そんな言葉を掛けて、抱き上げる。
「もうすぐで、私も、十歳やよ。」
有加は、優一を見上げて、そんな言葉を発した。一瞬であるが、優一の表情が曇る。有加を、持ち上げている腕も、下がってしまう。
「ねぇ、お父、今日、泊まるんやろ。」
偽りのない笑みを浮かべて、そんな有加の言葉に、優一の表情が、<喜>に変わる。無理やり、浮かべる<喜>ではあるが、優一にとって、精一杯の愛情表現。有加の誕生日は、京子の命日でもあった。
「あぁ、今日は、有加の好きな水炊きにしような。」
有加の瞳が、きらきら、光る。有加にとって、水炊きが、どうのこうのというよりも、優一が傍にいる事だけで、うれしい事なのだろう。
「やったー、今日は、水炊きだぁ。お父、早く、帰ろ。買い物して…おばあも、まっとるし…」
そんな言葉で、優一の手を、力強く引っ張る。優一の身体は、有加の力で傾いている。優一は、自然と、笑みがこぼれていた。有加の喜ぶ笑みが、身体全体に溢れている。そんな愛娘を見ていると、自然に、<喜>の表情が、現れてくる。
「よ~し、行くか、有加。」
優一は、人が、混雑する駅前で、有加の正面に立ち、腰に手をやると、思い切り、力を込めて、有加を持ち上げた。身体を反転させて、自分の肩に乗せる。
「有加、重たくなったなぁ。」
…
大きくなった有加は、そんな優一の言動に、少しの恥ずかしさを感じている。でも、うれしくもある。久しぶりの優一の肩車。久しぶりとは云っても、相当振り。恥ずかしさで、少し、はにかんでいた。
子供の頃から、通い慣れた商店街。二人は、手を繋いで、歩いている。
とある精肉屋の前、優一は、水炊き用の、鳥の胸肉を、注文していた。
「有加ちゃん、今日は、お父さんと、一緒やっと。」
精肉屋の親父が、そんな言葉を口にしながら、慌ただしく、手を動かせている。
「うん。」
有加は、歯切れのいい返事すると、親父の視線が、優一に向けられる。
「あの優一が、子供連れとは…」
そんな言葉が、優一の耳に届いた。いい事も、悪い事も、優一の過去を知っている人間。優一は、恥ずかしそうに、頭を、軽く、下げる。
「お父、有加、いつも、おばあと買い物来ると。ここのお肉屋のコロッケ、おいしいんや。」
そんな事、優一の方が知っている。有加の言葉に、精肉屋の親父の表情が緩む。
「うれしい事ばぁ、言ってくれるとやね、有加ちゃん。う~ん、今日は、気分がよか、コロッケ、持っていくね。」
「うん、ミンチカツも…」
「こら、有加。」
有加は、図に乗った言葉に、思わず、言葉を入れてしまう優一。
「有加ちゃんには、参ったばい。今日は、久しぶりに、お前の顔をばぁ、見れたしやな。優一。」
そんな言葉を発して、皺れた顔で、優一に、微笑みかける。その表情が、懐かしく、うれしさを感じさせてくれる。
「すいません、おっちゃん。」
優一は、自然に、そんな言葉を発していた。
精肉屋を、少し歩くと、八百屋がある。
「春菊、春菊…」
有加は、そんな言葉を発しながら、八百屋の前で、立ち止まる。
「おぉ、めずらしか、顔やね。」
優一の顔が、目に入り、そんな言葉を口にする、八百屋の若亭主。
「有加ちゃん、今日は、お父と、買い物ね。」
「うん。」
又、有加のとびっきり笑顔で、返事をしている。幼馴染というべきか、子供の頃からの顔見知り。
「有加ちゃん、今日は、何にするね。」
八百屋の若亭主は、しゃがみこんで、有加に、そんな言葉を掛けている。
「春菊と、白葱。あとは…お父、あとは・・・」
有加は、そんな言葉と一緒に、優一の事を見上げる。若亭主も、有加につられて、視線を、優一に向ける。
「そうやな。白菜と椎茸、生姜も…」
「ハイ、毎度、春菊と白葱、白菜と椎茸、生姜ね。」
そんな威勢のいい声を上げて、立ち上がる若亭主。
「優一、元気に、しとたとか。」
優一に、背を向けたまま、そんな言葉を口にしだす。
「あぁ、どうにか、生きとるわ。」
「おじさん、今日は、何、おまけしてくれると。」
そんな二人の会話に、下の方から、そんな言葉が聞こえてくる。
「有加ちゃんは、しっかりしとるなぁ。よし、今日は、ジャガイモなんて、どうや。」
鍋、水炊きとは、全く、関係ない食材。若亭主は、籠に入ったジャガイモを手に取り、袋に入れてやる。
「優一よ。」
明らかに、有加に語りかける声と、優一への言葉のトーンが、違っていた。振り向き、食材を手渡しする若亭主の表情が、真剣になっていた。
「なんや。」
「もう、そろそろ、いいやろ。戻って来い。ここへ…おばあも、もう年や。一緒に、いてやれ。」
そんな言葉を添えて、優一に、食材を渡す。優一の気持ちを、知っているのであろう。少なくても、優一の気持ちがわかっている言葉が、優一の耳に届いていた。
「あぁ、近いうちにな。」
若亭主は、そんな言葉と、優一の表情を目にして、笑みを浮かべた。
「毎度、800円ね。」
威勢のいい声が、気持ちよく、辺りに響いていた。
この商店街を抜けたところに、おばあの駄菓子屋がある。優一は、買い物をした食材の袋を提げて、有加の手を引いて、歩いている。懐かしい匂いがする。下町という言葉が似合う、この町を、有加と二人、並んで歩いていた。
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