第7話 もう一つの物語(失われた記憶)

―この物語を、続ける為に、もうひとつの物語をしなければいけない。有加が、失ってしまった記憶。そして、父親、母親、おばあの物語を…―



 時代は、1980年代初め。昭和の時代が、60年を向かえた時代。九州福岡。久留米という下町の安アパートの一室。三人の家族が、幸せに暮らしていた。

 「優ちゃん、もうちょっとで、夕食の支度、終わるけん、銭湯に行く準備しといて…」

 台所で、忙しなく、動いている女性。有加の母である。2Kの間取り、幼い有加と遊んでいる男性が、有加の父、優一である。

 「おい、有加、お母が、言っている事ばぁ、わかったか。」

 人形遊びに夢中になっている有加。両肩に掴んで、そんな言葉を口にする優一。

 「うん。」

 父親、優一を見上げて、コクリと頷いた有加は、飛び切りの笑顔を見せて、風呂場に駆け出していく。幼稚園の年少組。近頃、何でも、一人でやりたがる、活発な女の子。優一は、そんな愛娘の後ろ身を眺めながら、笑みを浮かべている。

 「よし、後は、温めるだけ…優ちゃん、準備できたと。」

バタ、バタ…

 「京子、有加、そっち、行ったぞ。」

 有加は、風呂場で、洗面器の中に、シャンプーとリンス、荒タオルを入れ、京子のいる台所に駆けていく。京子の事を見上げて、ニカッと、笑っている。

「お母、準備、ばっちりでしゅ。」

京子は、そんな愛娘の有加の姿を見て、目線を合わせる為に、しゃがみ込んだ。

 「そうね。有加、一人でやったんね。えらいね。」

 そんな言葉を口にして、有加の頭を、優しく撫ぜてやる。その間、優一は、紙袋に、着替えや、バスタオルを入れて、用意をしていた。

 テヘェ。

照れくさそうに、笑みを浮かべて、京子に抱きつく有加。エプロンをつけたまま、幸福な楽しさが、込み上げてくる京子。

キャッ、キャッ、キャッ…

そんな二人の姿を眺めている優一。楽しそうにはしゃぐ母子の姿を、ゆったりとした心持ちで、見つめていた。見守っている。【幸福】と云う言葉を、噛み締める。

ちょっとした事で、日常的な、何でもない事で、人は【幸福】になれる。我妻の幸せそうな笑顔。愛娘の曇りのない笑みで、穏やかな空気が流れている。優一にとって、(幸せ)を感じる時間であった。


「お風呂、お風呂。お父とお風呂。お母とお風呂…」

両脇に、優一と京子。真ん中の有加と、手を繋ぎ、銭湯に向かう道。有加の楽しげな作り歌を、二人の耳に届く。休日の銭湯通いは、恒例になっている。親子三人の楽しげな姿が、この寒さを、浮き飛ばしていた。

季節は、晩冬。三月の初春。春の足音が、もう、そこまで来ていた

「有加、もうすぐ、五歳の誕生日だな。何か、買ってほしいものあるか。」

優一の、そんな問いかけに、歌う口を噤み、優一を見上げた。

・・・

有加は、返す言葉に困っているのか、考えているのか、黙っている。

「優ちゃん、急に、そんな事言っても、有加は、わからんでしょ。」

優一は、立ち止まり、有加を抱きかかえる。京子は、自然に、優一が持っていた紙袋を、手に取っていた。

「有加、いいか、欲しい物があったら、何でも、こうてやるたい。なんば、ほしいね。」

優一は、有加の瞳を見つめ、そんな言葉を口にする。有加は、かわいらしい、険しい顔をしている。その横で、静かに、そんな二人を見守る京子がいる。

「ふぅとね、有加ね。ほしいものはね。・・・弟!弟がほしい。そう、私、弟がほしいの。」

一瞬にして、優一と京子の顔が、真っ赤になり、顔を見合わせた。そんな二人を、お構いなしに、<弟>という言葉を、連呼している有加。

商店街を、往来する人達には、賑やかな親子連れに、映っているであろう。しかし、当人達は、恥ずかしさで、周りを見られないでいた。

「あんね。幼稚園の、コウ君も、タカ君も、みずきちゃんも…みんな、弟がおるんよ。だからね、私もほしい。弟が、ほしい。」

耳から、顔全体が、真っ赤になっている二人。

「有加、弟か…それは、難しいかも知れんな。他にないか。お人形さんとか、ぬいぐるみとか。あるやろ。」

慌てて、そんな言葉を口にしていた。話を、別な方向に持っていこうとする優一。そんな思いなど、届くわけがなく。有加の<弟>の連呼が続く事になる。

「もう、優ちゃんが、変な事、言うから…」

優一に、恥ずかしさをぶつけてしまう京子。優一も、困った顔をして、苦笑していた。

まだ、風が冷たい三月の空の下。耳まで、真っ赤に染まった二人。空も、少し、赤みがかっている。そんな親子三人が、商店街を歩いている。茜色の空の下、幸せいっぱいの【家族】の姿が、ここにはある。


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