第19話 擦りおろしリンゴとおれんじじゅーす

そんなおばあの後ろに、意識の中の有加がいる。涙を流し、おばあの背中を、見つめていた。

<おばあ…>

声にしているが、おばあには聞こえていない。涙で、視界が曇ってしまうほど、有加の表情が崩れていた。


『なんね、優一。有加ちゃんの事は、任せとき。そんな心配せんで、いいから…』

有加が、涙で、視界を曇らせている間に、場面が変わっていた。振り向く有加の瞳に、ダイヤル式の黒い受話器を持っている、おばあの姿が映っていた。

「あっ、そうや、おばあ…今日は、残業やけん、遅くなる。」

微かに、受話器の向こうから、優一の声が、聞こえてくる。

「そうかい、わかった。」

 そんな言葉を口にする。静かに、受話器を置くおばあ。意識の中の有加は、自然に、涙がひいていく。感動的な場面から、一般的な生活の情景。おばあが、見せたい記憶が、続いていく。

 「フぅ、優一は、こんなに心配性やったかね。よし、こんな事、しとられん。有加ちゃんに、擂り林檎、持っていかんと。」

おばあは、そんな言葉を呟くと、台所に向かう。言葉通り、皮のついたままのりんごを、おろし金で、擂り始める。

 擂り終わった林檎を、小さな容器に盛り、氷の入ったオレンジジュースのグラスと一緒に、小ぢんまりとしたお盆に載せて、階段を上がっていく。二階には、有加の部屋がある。襖を開けて、部屋に入ると、顔が、ほんのり、赤みかかっている有加が、ベッドに寝ている。

 「有加、どうね。」

 おばあは、そんな言葉を発しながら、有加の顔を覗き込む。持ってきたお盆を、ベッドの脇に置いて、額に手を当ててみる。

 「まだ、熱、あるね。」

 有加は、そんなおばあの声と、額に当たった感覚で、ゆっくりと目を覚ます。

 「…」

 声を出したくても、言葉に出来ない様である。おばあは、有加の身体を起こしてやる。

 「有加ちゃん、いっぱい、汗かいたとね。いい事ばい、いい事。」

 おばあは、そんな言葉を口にすると、部屋のタンスに向かい、バスタオルと、有加の着替えを取り出した。

 「…」

 その間、顔を真っ赤にして、ボーとしている有加の姿。

 「有加、汗をかくって事は、身体が、熱を冷まそうとしている事やとよ。いっぱい、汗を、かきや…」

 そんな言葉を口にしながら、有加のパジャマを脱がし、汗を拭いてやる。有加は、おばあに、されるまま状態である。

 「有加ちゃん、林檎、擂ってきたけん、食べるね。」

 コクリ

 有加は頷き、当たり前の様に、口をあけている。思い切り、甘えている。風邪をひいた時ぐらいしか、こんな事は、してもらえない。こんな状況を、少し、楽しんでいる様でもある。

 「有加、きちんと、布団、被って、寝とるとやよ。」

 おばあは、そんな言葉を、有加に掛けて、部屋を出て行く。おばあの背を通して、軽く、手を振っている有加が、かわいらしく見えてしまう。

 スタ、スタ…

 おばあが、階段を降りて来る。階段の横にある部屋。週末には、優一の部屋になる。おばあは、その部屋の前に立っていた。

 「はぁ~、まだ、まだやね。片付けなぁ。よし、やるたい。」

 手に持っていたお盆を、台所のテーブルに置くと、早速、部屋の片付けに入る。片づけをするおばあの背中が、幾分か、楽しそうに見える。

 時計の長針が、瞬く間に、三周してしまっていた。おばあは、どんな事を思い、この時間を、過ごしたのだろう。楽しそうなおばあの背中が、印象的であった。

 

 「少し、熱、下がってきたね。」

 おばあは、さっきと同じメニューを、お盆に載せて、有加の部屋にいた。幾分か、顔の赤みが、マシになったように思える。

 「有加ちゃん、汗、拭こうかね。」

 そんな言葉は、おばあが口にすると、有加は、自分で、起き上がる。おばあの顔を見て、二カッと、笑って見せる。

 「ほぉ、有加、えらか、えらか。」

コクリ!

まだ、声は出ないみたいであるが、力強く、頷いている有加。

「もう、大丈夫やね。有加、着替え終わったら、擂り林檎食べて、もう、一眠りしようかね。」

おばあの表情が、緩んでいく。元気になっていく有加を見ているだけで、うれしくなっていくのであろう。

「ねぇ、おばあ。下で、何かしているみたいやけど、何、やってんの。」

太陽の香りのするパジャマに、腕を通しながら、そんな言葉を口にする有加。

「あれ、騒がしかったとね。静かにしとったつもりやけど…」

有加の汗びしゃのパジャマを、片付けながら、そんな言葉を発する。

「有加に、ゆうとらんかったね。優一が、週末に、引っ越してくるとよ。だから、部屋の片付けてたたい。」

そんなおばあの言葉が、耳に届くと、有加は、驚きの顔をする。声も出ないぐらい、びっくりしている様である。そんな表情で、おばあの事を、見つめている有加の姿。

『おばあ、どうして、お父は、私と会ってくれんと…何で、私と暮らしてくれんと、私、何か、悪い事した。どうして、教えて…』

おばあは、そんな言葉を思い浮かべる。五年前、京子が他界して、一年余り、優一は、有加に逢おうとしなかった時の、有加の言葉。何も言えなく、有加の事を抱き締める事しか、出来なかった。

「おばあ、本当に、お父が、この家に、私達と暮らしてくれるの。」

有加は、うれしさのあまり、熱を持っている身体で、ベッドの上で、飛び跳ねている。

「こら、有加。また、熱が、上がってしまうたい、静かに、寝とらんと…」

有加は、想像もしていなかったおばあの言葉に、うれしい気持ちが、爆発しているのだろう。有加にとっては、待ち望んでいた事。おばあと優一、三人で、ここで生活をする事を、ずっと、望んでいた。うれしくて、うれしくて、こんな行動になってしまっていた。

『ヤッター、ヤッター!』

こんなに、喜んでいる有加の姿を見て、おばあは、はしゃぐのを止めようとしない。

「こら、こら…」

そんな言葉を口にしているのに、笑みを浮かべたまま、有加を見守っている。こんなに、楽しそうな有加を見ているだけで、幸せな気分になってくる。

「有加、そんなにはしゃいだら、いかんよ。こら、こら…」

正座をしたまま、有加のはしゃぎ様に、笑顔を見せている。有加と同じ気持ちなのであろう。おばあも、有加みたいに、ストレートに、気持ちを出してみたいとも思う。小さな、小さな幸せを、噛み締めているおばあがいた。


意識の中の有加が、そんなおばあを見ていると、急に、上の方に吊り上げられるような感覚があり、目の前が真っ白になっていく。靄のかかった空間に、引き戻される。

『どうね、有加、思い出したか。』

もくもくと靄が、おばあの姿に変わっていく。正座をしたまま、有加にそんな言葉を掛ける。

『えっ、何で、おばあが…』

突然の事に、戸惑っている有加。

『なんじゃ、まだ、思い出せんのか。有加。』

有加の心が、読まれているのだろう。目の前のおばあが、困った表情をしている。

『じかに、見せるとは、酷やと、思ったとに、仕方なかね。』

おばあが、有加の額に手を当てる。また、おばあの意識の中に、送ろうとしているのだ。

『おばあ、私に、何を見せたいの。何を、思い出させたいの。』

『有加、いいかい。これは、思いださんといかんばい。わかったかい。』

戸惑う有加を見つめて、そんな言葉を口にする。おばあの強い意識が、伝わってくる。

『そう、そう、それでいいたい。有加、目を閉じてごらん…』

有加は、強いおばあの意識に、観念したのか、覚悟を決めた。力いっぱい目を閉じて、後頭部の強い衝撃に備える。

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