〇の輪 3

 無音の暗闇の中、目を開け、そして閉じる。


 父のことは、十歳まで暮らしていた故郷の地、最南伯領の領主である母方祖父の屋敷に飾られた一枚の絵でしか知らない。母との結婚式の時の姿を描いたというその絵の中の父は、ライと同じ、黒色の髪と華奢な身体を持っていた。


 南の国の先王ヤールと、最南伯夫妻に仕えるお針子であった少女との息子が、ライの父ヴィント。生まれてすぐに母を亡くしたヴィントは母方の祖母ペトラに引き取られ、十歳まで森の中で暮らしていたという。そのヴィントを、南の国の先王ヤールは半ば強引に自身の許へと引き取り、騎士として育てた上で、一人娘しかいなかった最南伯の婿にした。その決定には、妻が信頼を寄せていた手先の器用な少女を強引に自分のものにした先王ヤールに怒りを覚えた最南伯、ライの母方祖父でもあるザインの意志も入っていたという。ヴィントは、最南伯の娘ユーリと結婚し、小さいが豊かな領土の領主として幸せに生きる予定だった。だが。南の国の隣国、大陸の大部分を支配する強大な皇国に長年人質となっていた、南の国の先王ヤールの弟が不意の病に斃れ、別の人質を差し出す必要が生じた時、先王ヤールは、当時重い病気に罹っていた娘のイーディケの代わりに、結婚式を挙げたばかりのヴィントを皇国に差し出すことに決めた。子供を宿した妻を最南伯領に残したまま、ヴィントは皇国に赴き、三年後、妻にも、生まれた息子にも二度と会うことなく亡くなった。それが、当の息子であるライが知っている全て。皇国に赴き、亡くなるまでの三年間、父は何を思っていたのだろうか? それを知る為に、ライは父方の伯父、南の国の現王ルフに懇願する形でこの皇国を訪れ、『皇国の客人』となった。


 しかしながら。……分からないことばかりだ。重い身体で、寝返りを打つ。特に、異母弟だというアールの、父に似た瞳の色が、ライの脳裏から離れない。母がいたのに、何故、父は、……母を裏切ったのだろうか。毎朝毎晩、屋敷の窓から空を見上げ、父が帰ってくることを願っていた母なのに。溢れる涙を感じ、ライは枕で顔を拭った。


 アールに傷付けられた怪我の所為か、まだ少し身体が怠い。もう一度寝返りを打ち、ライは大きく息を吐いた。身体が動かない時は、寝るに限る。それが、ライを十まで育ててくれた祖父ザインの口癖。十の年まで暮らしていた最南伯領で、祖父からは読み書きや計算など、領主になる為の基本知識を、そして曾祖母のペトラからは薬草や魔法の術を教わった。そして十の年から預けられた、南の国の王宮では、伯父である南の国の王ルフから、騎士としての武術や礼儀作法を教わった。今は十七だが、二十になったら、祖父の跡を継いで最南伯になるよう、南の国の王も祖父自身も言っている。それが、ライの未来。それはそれで良いと、ライ自身は思っている。しかしそれでも、引っかかってしまうのは、やはり、面影すら知らぬ父のこと。武術に長けていたと、伯父であるルフは褒めていた。博学で、冷静な人物だったとも。しかしその言葉だけでは、父のことは全く分からない。だから、確かめる。その為には、今は。眠る為に、ライはぎゅっと目を閉じた。今は、体力を溜める時。


 瞼の裏の暗闇を、じっと、見据える。


「眠れない時は、自分が鳥になったと思ってみなさい」


 夏の夜に曾祖母ペトラが耳元で囁いてくれた言葉が暗闇に響いたように感じ、ライはぱっと瞼を上げた。しかし見えるのは、無機質な天井。ペトラが棲む小屋の、茅を組み合わせた真ん中が高い天井ではない。どうしてあんな深い森の奥のあばら屋に、ペトラは一人で棲んでいるのだろう? 曾祖母、というより厳しい姉、としか思えなかったペトラの、皺一つ無い赤い顔を思い出し、ライは首を傾げた。最南伯である祖父ザインなら、頼めば村の一角に石造りの立派な家を用意してくれるはず、なのに。春や秋の寒い朝、暖かそうな白い毛布にくるまっていたペトラの姿を思い出し、ライは少しだけ首を横に振った。それはともかく。夏の間、森の中のペトラの小屋に預けられていた時に聞いた、昔話や魔法の話を思い出す。毎晩、ライが寝る前に、ペトラはライに昼間観察した獣や鳥のことを思い出すよう、言っていた。鳥になって空を飛ぶ姿や、獣として野や森を駆け抜ける姿を想像するように、と。何故? その言葉に首を傾げたライに、ペトラは真顔で答えた。


「『幻獣』になる為の、訓練」


 その昔、まだ皇国も最南伯領も無かった頃、海と山と森に囲まれた、大陸の南端にあるこの地には、『幻獣』と名付けられた、鳥とも獣ともつかない巨大な獣がいたという。皇国を打ち立てた初代皇王アレオスとともに、世を平らげる為に活躍したという、その獣のことを『知る』為に、幻獣になる訓練をする必要がある。そう、ペトラはライに言った。人が鳥や獣になることが、本当にできるのだろうか? それが、現在のライの意見。しかし、ペトラの言葉を心から否定できないのは、父ヴィントがその『幻獣』になる能力を有していたらしい、から。


「ヴィントが、あなたのお父様が、鳥になって戻って来るのを待っているの」


 朝晩、空を見上げていた母は、ある時、幼いライにそう告げた。ライに物語を読み聞かせている時も、好きだった紫色の菫の花を刺繍している時も、母は時折、窓の向こうに広がる空を愛おしげに見詰めていた。亡くなる直前まで窓辺に佇み、父を待っていた母。その母の、空を見詰める瞳の色を、ライは今でも鮮やかに思い出すことができる。


 幻獣とは何か、ペトラは、はっきりとしたことは言わなかった。しかし父が、幻獣とは言わないまでも鳥や獣になることができたのなら、ライも、……なってみたい。ふわりと、身体が浮いたように感じ、ライは微笑んで目を閉じた。

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