一の輪 2
爽やかな芳香に、ゆっくりと、重い瞼を上げる。
寝かされている固いベッドの感覚とともに、ライの左腕に触れる柔らかな指の感覚が、ライを何処か安心させた。
「目覚めたのね。良かった」
その、ライの左腕に冷たい湿布のようなものを貼っていた女性が、目覚めたライに笑いかける。緩く結われた黄金の髪に縁取られた、安心感のある微笑みに、ライも思わず微笑んだ。
「ここは、施療院」
そのライの耳に、女性の優しげな声が響く。
「裏口の方で迷う人は、珍しいわね」
そう言って、ライの額に手を当てた女性に、ライは今度は気恥ずかしく、笑った。しかしながら。
「私は、レナ。この施療院の主」
女性が名乗った、その名前に、一瞬にして唇が強ばる。
「あなたのことは、知っているわ。ライ。……ヴィントの、息子ね」
続いての、レナの言葉に、ライは押し黙ったまま、頷いた。施療院の主、レナのことは、イーディケ伯母から聞いて知っている。現在の皇王レクトの年の離れた妹であること。まだ二十代であるにもかかわらず、回復の魔法と薬草術に精通していること。皇都のすぐ側にある初代皇王の別邸を改築して設置された施療院を切り盛りし、その治療の腕により皇国では老若男女問わず慕われていること。そして、……父ヴィントの、婚約者であったこと。
「本当に、あなたはヴィントによく似てるわね」
そう言って、レナはライに背を向ける。そして。
「婚約者の件は、私が、……我が儘を言っただけ」
親の権勢を笠に着、皇女であるレナを戯れに拐かし、レナばかりでなく皇国までも自分達の思い通りにしようとした北の大公の息子とその取り巻き達からレナを庇ってくれたヴィントに一目惚れをしたレナは、父である前の皇王に無理を言ってヴィントを自分の婚約者にしてもらった。その時のレナはまだ八つだったから、誰も、当時二十であったヴィントとの婚約を本気にはしていなかったようだけど。僅かに震えた、レナの背中に、ライの胸はきりりと、震えた。
「ヴィントは、優しかった」
ヴィントが、故郷に妻と、まだ見ぬ幼子を残して来ていることは、レナも耳にしていた。それでもレナは、我が儘を通し、そしてヴィントは、無理矢理の小さな婚約者をきちんと、婚約者として遇した。……短い、間だったが。
「私だけではなく、兄上、レクト陛下にも、優しかったわ」
そう言ってライに向き直ったレナの、柔らかな碧い瞳に、涙を認める。何も言えなくなり、ライはただ黙って、レナを見詰めた。
「……北の毒ね」
気を取り直したレナが、ライの左腕を再び手に取る。
「暑かったからかしら、少し化膿もしている」
そしてレナは、ライの左腕をベッドの上に優しく置くと、ベッドから離れ、部屋の隅に置かれた大きな机の上の本を手に取った。ライが寝かされている場所は、レナの個室であるらしい。大きな机の他に、瓶や薬草が並んだ背の高い棚も見える。
「これは、ヴィントの本」
ライの横に戻って来たレナが、ライに手の中の小さな本を見せる。几帳面な小さな字と、細い線で描かれた挿し絵が、ライの目を射た。
「ヴィントが、北の国の捕虜になっている時に書き写して持って帰った、北部の薬草術の本」
レナの言葉に、もう一度、目の前の本をまじまじと見詰める。これが、父の字。細かい文字に、ライはふっと息を吐いた。父方の伯父、南の国の王ルフから聞いた父の姿は、大胆な計略を立てる、剣の技に長けた武人。だが、この文字からは、その姿は全く、分からない。意外と、繊細な人、だったのかもしれない。ライは思わず、微笑んだ。
「ヴィントはね、剣の技も凄かったけど、薬草にも算術にも通じていたわ」
少しだけ明るさを取り戻した、レナの言葉に、こくんと頷く。薬草術は、ライの曾祖母でもあるペトラに厳しく仕込まれたのだろう。
「確か、六つ目の輪をもらった時かしら」
ライが寝かされているベッドの側でレナが調合する薬草の匂いに眠気を覚えたライの耳に、レナの声が響く。
「ヴィントは、毒殺されかけた前の皇王の命を救ったことも、あったの」
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