一の輪 3
扉の向こうに見えた、真剣な面持ちに、にこりと微笑む。
「ありがとう、レナ」
そう言って、ヴィントはレナの震える腕が捧げ持つ、美味しそうな菓子が乗った皿を受け取った。
「本当に、食べるの?」
その菓子を躊躇無く手に取り、口まで持っていたヴィントの耳に、震えるレナの声が響く。
「食べないと、毒消しは作れない」
僅かな光でも分かる、すっかり青ざめてしまった顔のレナに、もう一度にこりと微笑んでから、ヴィントは一口で、手の中の菓子を食べた。
皇城では今日、春を祝う毎年恒例の祭りが行われた。皇城の地下に封じられている『幻獣』を封じ直した時に受けた傷がまだ治りきっていないヴィントは、春祭りにも、その後行われた宴会にも欠席せざるを得なかったのだが、その宴会で、毒の入った菓子が振る舞われたらしい。宴会に参加していた王族や貴族達はほぼ倒れ、苦しい死の床についている。そして。前日に腹を壊し、宴会に参加していなかった皇太子レクトに、毒殺の嫌疑が掛かっているという。
毒が盛られた、皇王主催の宴会には、レクトの代理として彼の妻である皇太子妃が出席している。レクトは、心から大切にしている妃にまで毒を盛るようなことはしない。皇王のみならず皇太子妃にも毒が盛られ、苦しい床についていることを知ったヴィントはすぐに、様子を見に来たレナに、毒が入っているという菓子を持ってくるよう依頼した。理由はもちろん、解毒剤を作る為。ヴィント自身が鼠に変身して台所に潜り込んでも良かったのだが、前に変身の練習として鼠の姿で台所に入り込んだ時に、台所で働く使用人達に追いかけられ、箒で叩かれそうになった苦い思い出がある。台所で毒を食し、この、ヴィントがねぐらにしている皇城内の小さな部屋に戻るまでに倒れてしまっても、ヴィントの目的は果たせない。子供なら、この大変な時に誰の目にも留まることなく台所に侵入できる。ヴィントの冷静な判断を、レナは見事に果たしてくれた。
「……北の毒だな」
苦い菓子を咀嚼して、その中に含まれている僅かな苦みの違いを判別する。この毒は、北の王国に囚われていた時に味見をさせてもらったもの、だ。皇国には、この毒を中和できる薬草は無い。北の王国に、行かなければ。
「取ってくる」
そう呟いて、窓の側に立つ。僅かな眩暈を感じ、ヴィントは窓枠を掴んで息を吐いた。
「大丈夫なの?」
そのヴィントの黒い服を、レナが強く引く。
「まだ、この前の怪我だって治ってないのに」
ヴィントを見上げたレナの悲しげな顔に、ヴィントは首を横に振った。自分は、どうなっても構わない。しかしレクトへの嫌疑は、晴らさなければ。
ヴィント自身の不在を誤魔化しておくよう、小さな声で、レナに頼む。目を瞑り、全神経を額の一点に集中させると、すぐに、ヴィントは燕の姿で皇都上空を飛んでいた。
月も星も無い、あくまで暗い空間を、風の匂いを道標にひたすら北へと飛ぶ。摂取した毒によって意識が遠くなる前に、ヴィントは見覚えのある北の王宮の、様々な薬草を植えた鉢が並ぶベランダに降り立った。
「ヴィント!」
人型に戻ったヴィントの耳に、懐かしい人物の驚きの声が入ってくる。
「エーリチェ」
赤子を抱き、大きく見開かれた瞳でヴィントを見る北の王女エーリチェに、ヴィントは微笑むより先に頭を下げた。
「薬草を、分けてほしい」
「勿論だ」
どれでも、好きなだけ持って行くが良い。エーリチェの言葉に、素早く、ベランダの鉢植えを吟味する。良かった。ここにある薬草だけで、解毒剤は作れる。腕いっぱいの薬草を一つの包みにし、ヴィントは今度は鷹の姿を取ろうと意識を集中した。
その時。ヴィントの口に、苦いものが差し込まれる。瞼を上げると、ヴィントの目の前に、エーリチェの紅玉のような瞳があった。
「飲んで行け」
拒むより先に、もう一枚、薬草らしきものがヴィントの口に突っ込まれる。作った解毒剤が本当に効くかどうか確かめる為に、毒を判別する以上に多く菓子を飲み込んだのに。そう言おうとしたヴィントの口は、エーリチェの唇に塞がれた。
「途中で倒れたら、誰も助けられない」
それも、そうか。エーリチェの瞳にこくんと頷く。ヴィントは口の中の薬草を飲み下し、鷹の姿を取った。毒の影響か、帰りは行きよりも更に遠く感じる。薄明るくなりかけた空を何とか横切り、自分の部屋に戻った瞬間、ヴィントは冷たい床に倒れ込んだ。
「ヴィント!」
レナの金切り声に、何とか微笑んで身体を持ち上げる。毒がかなり回っているらしい。酷い眩暈の中、ヴィントは床に落ちた包みを拾い、机に置いた。
「陛下は、まだ」
「大丈夫。まだ、生きてる」
ヴィントが留守の間にレナが用意してくれたのであろう、薬草を煎じる為の擂り鉢や薬研に、微笑む。頭の中に入っている調合方法に従い、ヴィントの手は素早く、必要な薬草を選んでいた。
「……できた」
椀の中に見える、濃い緑色に、息を吐く。喉の詰まりを覚え、咳込むと、口の中に鉄の味が広がった。
「ヴィント!」
レナが叫ぶより先に、手で口を押さえる。赤黒い液体が、ヴィントの小さな手から溢れ、机の上に大きく零れ落ちた。
「大丈夫」
口を押さえていない方の手で椀を掴み、一口だけ、啜る。おそらくこれで、大丈夫だろう。胸の痛みと、再び溢れ出てくる血の味を感じながら、ヴィントは椀をレナの掌の上に乗せた。
「これを」
皇王陛下に、飲ませて。その言葉は、ヴィントの喉で止まる。次の瞬間、感じたのは、石床の冷たい感覚。
はたと、目覚める。
「ヴィント! 目覚めたっ!」
次の瞬間。ヴィントの視界は、レナの胸に覆われた。
「良かった。もう、平気?」
ベッドに横たわるヴィントの上に乗り、覗き込むようにヴィントを見詰めるレナの、ずっと泣いていたらしい腫れた瞳を、ただただ見詰める。
「陛下は?」
ヴィントの口から言葉がでたのは、少し経ってからだった。
「うん、大丈夫」
皇王陛下も、毒に倒れた人々も、ヴィントが作った解毒剤とその後北の王国から贈られた薬草で何とか毒から立ち直った。レナの言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。だが。ヴィントから一瞬目を逸らした後、レナは下を向いたまま言った。
「義姉様、が……」
レナの言葉に、息が止まる。
前の冬に皇女を産み落としてからずっと、皇太子妃の体調が思わしくなかったことは、レクトからの話で知っていた。その影響が、ここに現れるとは。残酷な結果に、ヴィントは小さく首を横に振った。
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