一の輪 4
胸を鷲掴みにされたような悲しみに、はっと、ベッドに上半身を起こす。毒と血の苦い味が口の中に残っている気がして、ライはベッド側に置かれていた水差しを掴むなり中に入っていた水をごくごくと飲み干した。
一息ついて、辺りを見回す。高い場所に設えられた窓から降り注ぐ、夕方の黄色い光が、重厚な机や棚を柔らかく見せていた。誰も、いない。細波のような喧噪が、遠くで響いている。夕刻だから、夕食や就寝の準備で皆忙しいのだろう。
ベッドと机の向こう、棚の横の扉が開いているのを見つけ、そっと、ベッドから滑り降りる。扉の向こうは、中庭に降りることができる階段の付いたバルコニーになっていた。
「あら、起きたのね」
施療院の平屋建ての建物と煉瓦塀に囲まれたその中庭で、鉢に植えられた草に水を与えていたレナが、ライに柔らかな微笑みを投げかける。
「左腕は、もう、痛くない?」
「はい」
そのレナに頷いてから、ライも中庭へと降り立った。
「ここにある薬草はね、ヴィントが種を持ってきたものが殆どなのよ」
レナの側に立ったライに、レナが言葉を紡ぐ。前の皇王とその部下達が毒殺されそうになり、当時皇太子だったレクトの妻が亡くなったあと、ヴィントは北の国と南の国から薬草の種子を送ってもらい、レナの師匠である施療院の前の院長にその種を渡した。悲劇を、繰り返したくない。その、言葉とともに。
「気候が違うからかしら、北の国の薬草も南の国の薬草も育て難いのだけど、ここの薬草で助かった人も大勢いるの」
レナの言葉を聞きながら、俯いて、息を吐く。先程の夢のことを思い出し、ライはレナに見えないように首を横に振った。何故、父は、身を挺してまで前の皇王やレクトを救おうとしたのだろうか? それが、分からない。父の気持ちが理解できないことに不安を覚え、ライは無理矢理もう一つの疑問へと頭を切り替えた。夢の中で、父は、鳥に変身していた。あれが、ペトラの言っていた『幻獣化』なのだろうか?
と。
鋭い叫び声が、物思いに耽っていたライの耳を強く叩く。
「何事です!」
レナが叫ぶより早く、ライは叫び声が聞こえてきた方向、煉瓦塀に開いた小さな扉から施療院の外へ飛び出した。
辺りを見回す間も無く、林の向こうで複数の男達が小さな一つの影を取り囲んでいるのが見える。その影を認めるや否や、ライは一息で、小さな影の腕を乱暴に掴む男の腕を掴んで捻り上げた。
「このっ!」
「やったな!」
少女に見える小さな影を背中に庇ったライの前に、汚れた衣服を着た髭面の男達の怒りで真っ赤になった顔が現れる。一番最初にライに飛びかかった男をひらりと躱すなり、ライは男が持っていた錆びた剣を奪い取り、バランスを崩してライに背中を見せた男の項を剣の柄で強く叩いた。同じ調子で、ライと少女を囲む男達を全て地面に沈める。地面に転がって呻く男達が反撃してこないことを確かめると、ライは背中の少女を抱え、再び一息で、煉瓦塀の中の施療院に滑り込んだ。
「サジャ!」
後ろ手で扉を閉めるライの耳に、レナの声が響く。
「レナ叔母様!」
どうやら少女はレナの姪らしい。少女はレナの腕に飛び込むと堰を切ったように泣きじゃくった。
「無事で良かった」
少女の、乱れた茶色の髪を撫でるレナに、ほっと息を吐く。
「あの、……ありがとう」
レナから身を離し、ライに頭を下げた少女に、ライは好感を覚えて微笑んだ。
「ライ、私からもお礼を言うわ。ありがとう」
レナの言葉にこそばゆさを覚え、俯いて頷く。少女は、レナの姪、皇王レクトの第一皇女サジャ。時折、レナの所に皇城で必要な薬草を取りに来るらしい。レナの説明に、ライは小さく頷いた。
「それにしても」
不意にレナが、サジャに対し、叱るように溜息をつく。
「こんな夕刻に出歩くなんて」
「だって、皇城にいても、暇なんですもの」
「それでも、皇女たるもの、一人で出歩いては」
「うん、そうなんだけど」
「……まあ、良いわ」
もう一度、レナが大きく、息を吐く。そしてレナは、ライの方を向いて微笑んだ。
「サジャ、今日は泊まっていきなさい。明日はライと一緒に皇都に戻るのです」
「はい」
先程の口答えから一転した、しょんぼりとしたサジャの言葉に、ライは思わず口の端を上げた。
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