三の輪 2

 ガタン! 強い揺れに、はっと目を覚ます。生成色の幌を通って降り注ぐぼんやりとした光に、ライは目を細めた。


「悪い夢でも見たのか?」


 気遣いが混じった声に、顔を御者席の方へ向ける。ライが乗る幌付きの馬車に併走するように馬を操るアールが、腰まで使って振り向いているのが見えた。


「うなされてたぞ」


 そう言って明るく笑うアールに、静かに微笑む。そのアールの左袖に縫いつけられた三つの『輪』を、ライは眩しく見詰めた。


 第一皇子、第二皇子とともに遠乗りに出かけた際、突然襲い来た幻獣を退治した褒美として、ライもアールも、そして一緒にいた従兄のテムもそれぞれ一つずつ『輪』をもらった。そして更なるご褒美として、ライとアールは、アールの母である北の女王エーリチェに会いに行く許可を、皇王から得た。


「まだ、幻獣からの怪我が回復してないんじゃないのか?」


 馬車を操る、近衛騎士隊の副隊長が、心配そうにライの方を振り向く。


「もう少し、ライが回復してから北に向かった方が良かったんじゃないのか、アール」


「北はもう冬だ」


 副隊長の懸念に、アールは笑って答えた。


「ライの回復を待ってたら、道が雪で閉ざされてしまう。そうなれば、春まで待たないといけない」


 そう言いながら、不意に、アールは身軽に乗っていた馬から馬車の御者席に乗り移る。そして持っていた手綱を副隊長に渡すと、ライが横になっている馬車の荷台の方へと滑り込んできた。


「狭いな、ここ」


 アール用に場所を空ける為に上半身を起こしたライの横で、毒突いたアールがライの横の長持を小突く。荷台にあるのはライの他に、皇王レクトが北の女王エーリチェに渡すようにとアールに渡した小さめの箱と、何故か付いて来ている従兄のテムと第一皇子ノルドの着替えが入った大きな長持二つ。こんな大きな箱に、いったい服が何着入っているのだろうか? 枕代わりにしていた、自分の服を入れた背負袋と横の長持を比較して、ライはふっと溜息をついた。


「なあ、ライ」


 そのライの横で、アールが口の端を上げる。一瞬だけ、言葉を止めると、アールは思い切ったような口調でライに言った。


「その。……どうやったら、幻獣になれるんだ?」


「え?」


 質問の内容よりも、アールの、好奇心をいっぱいにしたライと同じ色の瞳に、驚く。アールと話をしたいと、ずっと思っていた。しかしアールから話をしてくれるなんて。嬉しさを感じ、ライは思わず微笑んだ。


「まずは、毎日、獣や鳥を観察する」


 幼い頃、曾祖母ペトラから教わったことを、そのままアールに教える。


「そして、自分が獣や鳥になった時のことを、夢想する」


「それだけか?」


 ライの解答に、アールは拍子抜けしたような顔をした。


「もっと簡単にできないのか?」


「うん、……多分」


 それ以上の、幻獣化の訓練方法は、ライも知らない。ライ自身、あの怪鳥に化けたのが、初めての変身だったのだから。


「うーん。……ま、いっか」


 曖昧なライの頷きに、アールも曖昧に納得する。


「じゃあ、今度は、ライが一個、俺に質問して良いぜ」


 そして。次のアールの、少し人を見下したような言葉に、ライは思わず吹き出した。


「そうだね」


 疑問に思っていたことを、一つだけ聞く。


「初めての試合で、私を傷付けたあの針、いつもは何処にしまっている?」


「げ」


 戦術上、それは誰にも知られたくなかったんだけど。ライの質問に、アールが横を向く。しかしすぐに、アールは濃青色の上着の左袖を肘までめくり、白いチュニックに縫いつけた細いポケットをライに示した。


「ここに、隠し持っている」


 自分自身が毒の影響を受けないように工夫して、袖に針を隠す技は、母方の祖父、先代の北の国の王から教わったもの。痺れる程度の毒を針に仕込む術も、祖父から教わった。アールはそう、ライに告げた。


「毒の調合には十分注意しろって、エーリチェは口うるさいんだけど」


 そう言って、アールが再び横を向く。


「あ、その、……悪かったな、毒が、強過ぎて」


「ううん」


 謝ることが負けだと感じているのか、唇を尖らせているアールの横顔に、首を横に振る。ライが毒で苦しんだのは、アールが隠し持つ暗器に気付かなかった、ライ自身の驕りの所為。アールの所為では、ない。


「ん、なら」


 ライの笑みに、アールが顔をライの方へ戻す。


「おい、アール!」


 馬車の前を走る、何故か付いて来ているテムの声が聞こえてきたのはそのすぐ後。


「たらたら走ってるのも飽きた。競争しようぜ」


「おう」


 じゃあ手始めに、自分が馬になった気で馬に乗ってみる。そう言って、白いマントを翻したアールが身軽く、馬車から馬に戻る。乾いた細い道を走り去る三頭の馬の、土埃を、ライはどこか羨ましげに見ていた。


「ライも、馬で行った方が良かったか?」


 それでも、御者席の副隊長の声に、首を横に振って黒のマントを身体に巻き付ける。幻獣から受けた足の引っ掻き傷は、レナの手当でほぼ治っている。微熱が続き、身体が気怠いのは、幻獣に変身した為。幻獣化は、体力を多大に消費するらしい。皇城でライを治療してくれた皇妹レナの、柔らかな碧い瞳を、ライは心温かく思い出していた。そして。


「それとも、女王エーリチェ陛下にお会いするのが、怖いのか?」


 副隊長の言葉に、心が冷える。そう。北の国の女王エーリチェは、アールの実の母。そしてアールは、……ライの、異母弟。ライの父ヴィントを目の敵にしていた息子を持つ、皇国北部の差配を任されていた大公に唆された先代の北の国の王が皇国を攻めてきた時に、ヴィントは北の国の戦力を分断する為に自ら囮になり、北の国の王とは別に騎士達を率いていた、まだ王女であった頃のエーリチェに捕らえられたという。そして、その戦で捕らえられた先代の北の国の王との人質交換で皇国に戻ってくるまでに、父は、エーリチェを妊娠させた。何故父は、母を裏切るようなことをしたのだろう。皇国に赴き、伯母であるイーディケからアールを初めて紹介された時からしばしばライを襲っている、怒りにも似た悲しみが、ライの唇を震えさせた。


 と。


「ヴィントは、理由無く、愛する者を悲しませるようなことはしない」


 副隊長の声が、耳を打つ。顔を上げると、膝を抱いて震えるライを見詰める、副隊長の優しい瞳が、見えた。


「俺は、……ヴィントが、おまえの親父がいなかったら、いまここでのんびりと馬車を操ってなんかいなかった」


 まだ見習い騎士だった頃、皇王も観覧する武術試合で、酷薄で有名な北の大公の息子と対戦することになってしまった副隊長は、力の差が大き過ぎる北の大公の息子に一方的な攻撃を受けていた。副隊長が致命傷を受ける直前に、規則を破って試合場に乱入し、北の大公の息子から副隊長を庇ったのが、ライの父ヴィント。


「ヴィントは、無茶な奴でもあったけど、決して、弱い者や大切な者を泣かせるようなことはしなかった」


 突然聞いた、父の皇国でのエピソードに、呆然とする。そのライに、副隊長は安心できる笑みを浮かべた。


「だから、北の国の女王エーリチェ陛下とアールのことも、きっと理由があるんだと、俺は信じている」


 副隊長の言葉よりも、彼が浮かべた笑みに、ほっと息を吐く。そう、怒ったり悩んだりするのは、真実を知ってからだ。馬車を止め、ライの方に顔を向けたままの副隊長に、ライは強く、頷いた。

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