三の輪 1

「レクト殿下!」


 これで何度目かの大声を、前を走る馬上の人物に投げる。そのヴィントを無視したまま、レクトは疲れを見せる馬に鞭を当てると、広めの荒野を横断するようにめちゃくちゃに馬を走らせた。


「レクト殿下!」


 このままでは、馬が潰れてしまう。馬腹を蹴り、レクトの側へ急ぐ。もう一度レクトに呼びかけようとした、ヴィントの口から出たのは、溜息だった。


 レクトの気持ちは、分かるつもりだ。最愛の妃を、毒殺という卑怯な手段で亡くしたばかりだというのに、新しい妃を娶れと言われたら、誰だってやるせない気持ちになるだろう。妃を娶ることが政略的に正しいことだと分かっているから、尚更。ヴィント自身、レナとエーリチェの件は置くとしても、最南伯領に置いて来ざるを得なかったユーリ以外の女性を妻にすることは、……できない。馬には悪いが、しばらく放っておくしかないのだろう。溜息とともにヴィントはそう、結論を出した。


 その時。


 鋭い風音に、身を捻る。ヴィントの側を鋭い気配が通り過ぎたことに気付くより早く、ヴィントは羽織っていた黒のマントの端を身体に結び、即席の矢除けを作った。


「レクト殿下!」


 同時に、レクトの側に馬を進める。レクトが乗る馬と、レクト自身の肩に太い矢が刺さっているのを認めるや否や、ヴィントはレクトを庇うように自分の馬に乗せ、馬腹を強く蹴った。


〈隠れられる、場所は〉


 素早く、辺りを見回す。あった。荒野の向こうに見えた森に、ヴィントは矢傷に呻くレクトを抱えたまま馬を疾駆させた。勿論、森の中に伏兵がいるかもしれないことは、予測済み。伏兵がいるならいるで、こちらにも考えがある。久し振りの怒りを、ヴィントはまざまざと感じていた。北の大公とその息子達はまだ、ヴィントとレクトを逆恨みしているというのか。ならば。……徹底的に叩くのみ。


 予想通り、森の中に入るや否や、木々の間から矢が飛んでくる。左腕でレクトを支え、右手に持った剣でその矢を悉く打ち落としながら、ヴィントは木々が密になった場所の影に馬ごと乗り入れ、レクトとともに馬から降りるなり先ほどまで乗っていた馬の尻を蹴って森の外に追い出した。その馬を射る矢の軌跡から、射手の場所を正確に特定する。レクトを木の陰に隠し、背負っていた弓矢を手にして別の影に身を隠すと、ヴィントは一つの矢も無駄にすることなく樹上の射手を撃ち殺した。


「そこまでだ」


 聞き知った声に、はっとして振り向く。血の気を失ったレクトの首筋に当てられた短剣の鈍い光を認識するより早く、ヴィントは弓を地面に落とした。


「さすがに、理解が早いな」


 レクトに短剣を突きつけている、北の大公の息子の醜悪な顔に、唇を噛み締める。しかしこの場所でこそ、冷静にならなければ。息を整え、顔を動かさずに辺りを見回す。敵は、ざっと十人ほど。幻獣の、狂戦士の力を、使えば。心の底で頷くと、ヴィントは地面を蹴り、一足で北の大公の息子の眼前に立った。


「なっ!」


 ヴィントの方に向けられた短剣を難無く躱し、相手の首を一瞬で刎ねる。逆恨みされた上に、ヴィントが大切に思っている人々をさんざん傷付けた人物に、ヴィントは一欠片の慈悲も感じなかった。


「このっ!」


 首領である北の大公の息子が斃れる様に、ヴィントを囲んでいた残りの騎士達が剣を抜く。数は多いが、しかしヴィントの敵ではない。数瞬の後、森の中に立っているのはヴィント一人になっていた。


「レクト殿下!」


 木々の間に倒れ、身動き一つしないレクトを、動く左腕だけで抱き上げる。矢傷が、意外と酷い。早く皇城に連れ帰らなければ。その思いだけで、ヴィントは霧をまとい、大きな翼を持つ幻獣へと姿を変えた。


 幻獣の太い左腕にレクトを抱え、夕刻の空へと駆け上がる。瞬きをする前に、皇城裏手の、近衛騎士達が使用する武術訓練場の空き地が見えて来、ヴィントはほっと息を吐いた。次の瞬間。眩暈を覚え、首を横に振る。あっと思う間も無く、ヴィントの身体は固い地面に墜落した。不規則に並んだ小さな石碑が、ぼうっとした視界に映る。どうやら、近衛騎士の訓練場ではなく、その横の墓地に、落ちてしまったようだ。


「ヴィント!」


 耳に響く、レクトの声が、遠い。


〈大丈夫です、殿下〉


 青白い顔でヴィントを見、唇を歪ませているように見えるレクトに、ヴィントは少しだけ、微笑んだ。……ただ、少し、眠いだけ。眠ったら、また、レクトを守れるようになる。そう考え、ヴィントは迫る闇に身を任せた。

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