二の輪 4
その、二、三日後。
ぐずつく前の曇った空を見上げながら、あの薄暗い森へ行く準備をしていたライは、小さな明るい影に捕まった。
「ねえ、どこに行くの、ライ?」
無邪気な碧い瞳で微笑む第二皇子ユニに、曖昧に笑う。父ヴィントの、斬り落とされた右腕が葬られているというあの場所に、もう一度行きたい。ただそれだけ。今度は、何か父が好きだったもの――父の面影すら知らないライには、何を供えれば良いのか皆目見当がつかなかったが――を持って。だが、この悲しみは、ライだけのもの。子供であり、主君の一人でもあるユニには、見せてはいけない。ライも一応近衛騎士に任命されているのだから、ユニも一応、仕えるべき主君、だ。
「外へ行くんなら、一緒に行こう」
そのライを、ユニは皇城側の厩まで引っ張っていく。厩にいたのは、テムとアール、そして第一皇子ノルド。近衛騎士隊長であるフィルが馬を何頭か選んでいる姿も見える。
「ぼくは、ライと一緒に行く」
そのフィルの前に、ユニがライを示す。
「ライがついていれば、一緒に行っても良いんでしょ?」
ユニの言葉に、フィルは小さく溜息をつき、馬に馬具を着けていた少年三人は呆れた笑みを浮かべた。
「ライ、馬には乗れるか?」
フィルの質問に、首を縦に振る。乗馬は、祖父ザインからも、伯父であるルフからも必須だと言われた。小さい子を乗せて走ったことは無いが、何とかなるだろう。
「仕方無いですね」
そう言いながら、フィルは栗毛の丈夫そうな馬をライとユニの前に引き出した。
「この馬なら、温和ですから、大丈夫でしょう」
教わったとおりに借りた馬具を着け、ユニを乗せてからライ自身も乗る。先に準備を終えて皇都の北へ向かった少年三人に追い付く為に、ライは馬腹を強く蹴った。
「うわっ、速い!」
きゃっきゃと歓声を上げるユニが馬から落ちないように左腕で支えながら、右手で轡を操る。皇都の北側を流れる大河ルダルの向こうでは、小麦や大麦の穂が、秋の風に揺れていた。大地の恵みを収穫している人々の姿も見える。山や森、そして海に囲まれ、平地は少ない最南伯領は、それでも様々で色とりどりの恵みを得ることができる土地だが、遮るものの無いこの大平原も、さすが、皇国を支える大地だ。馬を速歩から並足に変え、ライはゆっくりと、故郷では見ることができない景色を見詰めた。
「追い付かなくても良いの?」
明らかにいらついた声に、下を向く。
「兄様達、もうずっと遠くだよ」
ぷっと頬を膨らませたユニに、ライは思わず微笑んだ。
「皇国は、豊かな土地ですね」
そのユニに、周りに見える畑を指し示す。
「大地と、人々が、この国を支えているのですね」
幼い頃、祖父ザインから教わったことを口にすると、ユニもようやく自分の周りを見回し、そして納得するように頷いた。
「騎士の役目は、このように豊かな大地と人々を守ることだと、私の祖父は言っていました」
「お祖父さん、が?」
ライの言葉に、ユニがきらきらした碧い瞳をライに向ける。その瞳に、皇妹であるレナを思い出し、ライは心の中で首を横に振った。
「ライのお祖父さんって、どんな人? 優しい?」
そのライに、ユニの質問が降ってくる。
「そう、ですね……」
そのユニの質問に、ライが答えようとした、正にその時。ライの視界上方を、どす黒い影が過ぎる。灰色の雲を割って現れたそれは、鋭い爪と嘴を持つ、巨大な怪鳥。
「……なっ」
戸惑いの声を上げるより先に、その巨大な怪鳥は、ライとユニの遙か前方にいた少年三人の馬に、その巨大な鉤爪を向けていた。
「兄上!」
叫ぶユニと共に、馬から滑り下りる。
「草影に隠れていてください!」
そう言いながら、怯えて震えるユニを道横の小麦畑に隠し、ライは再び馬に乗った。
普段は用いない鞭を使い、馬を全速力で走らせる。怪鳥の爪に馬上で応戦したアールの剣が真っ二つに折れるのを見るや否や、ライはアールと、アールを引き裂こうとした鉤爪の間に割って入り、襲い来る鉤爪を剣で留めた。だが、ライの剣も、真っ二つに折れる。最南伯領一の鍛冶師が作った、丈夫なものなのに。しかし呆然とする前に、ライはアールと共に馬から滑り降り、近くの小麦畑に転がり込んだ。
怪鳥の爪に引き裂かれた馬の、濃い血の匂いに、胸が痛くなる。しかし剣も、槍も、手元には無い。どう、すれば。飛び出そうと身構えるアールの身体を腕に感じながら、ライはきっと怪鳥を睨んだ。せめて、この獣と同じ大きさであれば。翼と鉤爪があれば、こんな怪鳥など蹴り潰してやるのに。
次の瞬間。周りにあった小麦畑の黄金色が、眼下に広がる。
〈……え?〉
空を、飛んでいる。その事実に気付くより先に、ライは、眼下でテムとノルドに襲いかかろうとしていた怪鳥の、どす黒い背を、自身の鉤爪付きの重い足で左側から蹴り上げた。奇声を上げ、小麦畑の間の道上に落ちる怪鳥の背を、その重い足で踏みつける。なおも暴れる怪鳥の、声ではない悲鳴に耳鳴りを覚えながら、同じ怪鳥と化したライは怪鳥の首に鉤爪を下ろした。だが、もう少しで首を押さえることができると思った時に、怪鳥が最後の足掻きを見せる。鋭い嘴が足に刺さり、ライは思わず叫び、腕が化した翼で空中に飛び上がった。そのライを更に傷付けようと、暗い血の色に染まった怪鳥の嘴がライの足を襲う。だが、その嘴がライの足に届く前に、怪鳥の首は不意にその力を失い、再び地面に倒れた。
「ライ、今だっ!」
耳に響くのは、アールの声。その声のままに、ライは怪鳥の首をライ自身の鉤爪で圧し締めた。
骨を押し潰した感覚と、命を失った筋肉が弛緩する感覚が、ライの全身を襲う。次に視界に映ったのは、怪鳥の形をしたどす黒い靄と、その靄の中に見える、俯せに倒れた、黒く汚れた青色の上着を羽織った人間の、小さな姿。あれは。その上着の左袖にくっきりと見える、二本の白線に、震えが走る。まさか、……近衛騎士? 近衛騎士が、第一皇子を襲う怪鳥に? 混乱するライの意識は、不意に途切れた。
「ライ!」
鋭い声に、目を開く。秋の曇り空が、ずっと遠くに見えた。
「ライ! しっかりしろっ!」
アールと、テムとノルドとユニの姿が、ぼんやりと視界に映る。おそらく怪鳥を刺したのだろう、アールの手の中にある血に濡れた銀色の短剣に、ライは少しだけ目を細めた。あの短剣は、ライがお守りとして持っている短剣に似ている。その思考を最後に、ライの意識は闇に飲まれた。
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