六の輪 3

 昔懐かしい天井が、ライを優しく出迎える。最南伯の屋敷の、自分が使っていた子供部屋だ。ライがそう、認識する前に、冷たい手がライの額をそっと撫でた。


「熱は、だいぶん引いたわね」


 その冷たい手の持ち主、ペトラが、ライを見下ろして微笑む。そのペトラの、冷徹な目の色は、夢で見たグレンの目の色に、何処となく似ていた。


「エルの夢を、見たでしょ」


 ライの額に冷たい手拭いを置いたペトラが、ライを見詰めて息を吐く。そして。不意にペトラは、ベッドに置かれたライの左腕を強く掴んだ。


「エルに、ヴィントに言わなかったことが、あるの」


 初めて見る、ペトラの泣き顔に、呆然としてしまう。


「『幻獣』が、イグラフ兄様が、アレオスに従わざるを得なくなったのは、私の所為。兄様が、狂ってしまったのも」


 そのライの耳に、ペトラの告白が、静かに響いた。


 皇国の初代皇王アレオスが、大陸を統一するという野望の下に無理矢理従えさせた『幻獣』は、ペトラの兄。獣や鳥、空想上の怪物にも化すことができる能力を持った、心優しい青年だった。その能力が故に、森の中で妹のペトラとともに引き籠もるようにして暮らしていたイグラフだが、ある時、森に薬草摘みに来た最南伯領の村の少女と恋に落ち、森を出て少女とともに村での暮らしを始めた。そのことが許せなかった妹のペトラは、戦力になる者を探して南の国を彷徨っていたアレオスに兄イグラフの能力を告げ、そしてアレオスは、兄が妻としていた少女を人質とした上で、自分に従うよう、イグラフに強要した。少女とイグラフはアレオスに連行され、その幻獣化の能力によってイグラフはアレオスに敵対する勢力を殲滅した。そのイグラフの能力に恐れを為したのだろう。大陸を統一し皇国を打ち立てたアレオスは、イグラフを騙し、妻とともに、新しく作った皇都の地下迷宮へと閉じ籠めた。何の力も持たない妻は地下で、柱に鎖で縛られたイグラフの足下で餓死したという。妻の無残な死に、イグラフは狂い、そして壮大な復讐を企てた。まず、アレオスと同盟関係にある北の国に嫁ぐという皇女を魔力で以て誘惑し、自身の子種を植え付けた。自分の子供なら、男でも女でも、アレオスを倒す力を持っているだろう。その期待を、込めて。実際に、皇女が生んだ息子グレンは文にも武にも優れた青年となり、人質として暮らしていた皇都で頭角を現し前人未踏の『七つ輪』となった。そのグレンに、アレオスに対する憎しみを覚えさせ、アレオスを殺させればよい。地下に閉じ籠められたイグラフの思惑は、しかしもう一人の息子によって破壊された。兄を売った罪の意識からペトラが引き取り、己が知る技の全てを伝授した、イグラフと最愛の少女との息子、エルによって。


 そうか。ペトラの告白で、はたと気付く。エルとグレンが似ていたのは、二人が異母兄弟だったから。ライと、……アールの関係と、同じ。


「二振りの剣を拵えた後、エルはこの地に帰ってきて結婚したの」


 無意識にこくんと頷いたライの耳に、ペトラの告白が続く。


「エルの娘が、あなたの祖母」


 それが、ヴィントには伝えなかった、ペトラの秘密。


「兄は、まだ、アレオスの一族に恨みを持っているようね」


 憔悴しきった声が、暗い空間に響く。


「皇王レクトを惑わせて、皇国を滅ぼさせようとしている」


 ペトラの声の中にある、強い確信に、ライもこくんと頷いた。


 脳裏を過ぎるのは、父の面影を探す為に赴いた皇都で出会った様々な人々。右も左も分からないライに優しくしてくれた伯母イーディケとその夫である近衛騎士隊長フィル。皇都のことを色々教えてくれた従兄のオスト。アールから受けた傷を治療してくれた、柔らかな碧い瞳をもつレナと、レナと同じ瞳でライに甘えてきた第二皇子ユニ。そして、打ち解けることができたのかどうか分からない、ライと同じ色の瞳を持つ異母弟アール。北の国の女王エーリチェも、皇都を守る近衛騎士の人々も、皆、ライにとって、南の国や最南伯領の人々と同じくらい大切な存在になっている。だから。


「幻獣の、イグラフの暴走を止める方法は、あるのですか?」


 心に浮かぶ想いのまま、ペトラに尋ねる。


「勿論、あるわ」


 そう言って、ペトラはエーリチェ女王からもらった剣を、ライの目の前に掲げた。


「この剣と、銀の短剣を使えば」


 エルが北の国で鍛えた剣を用いれば、無理矢理幻獣にされてしまった人を幻獣の身体から引き剥がすことができる。南の国の人々がお守りとして携帯する銀の短剣を用いれば、幻獣の息の根を止めることができる。しかしどちらの効果も、幻獣イグラフの血を受けた者が剣を振るわなければ現れない。


「イグラフの血を受け継いでいるのは、あなたとアールだけ」


 ペトラの冷静な言葉が、ライの全身を震わせる。


「だからあなたが、皇都に行かなければならない」


 それでも。ペトラの言葉に、ライは強く、頷いた。


「それで良いわ」


 そのライに普段通りの微笑みを浮かべたペトラが、ベッド側に置かれた黒いマントの上に件の剣を置く。


「このマントには、幻獣化を助ける魔法が掛かっている」


 そして。マントと剣の上に、ペトラは腰のベルトに差していた、自身の銀の短剣を置いた。


「この短剣は、エルが私の為に作ってくれたもの」


 短剣と剣に、そっと手を伸ばす。ベッドから滑り降り、上着とマントを身につけたライを、ペトラは止めなかった。


 高窓から降り注ぐ月の光に、息を吐く。腰に差した剣と短剣を確かめてから、ライは狼の姿で最南伯の屋敷を飛び出した。


 目指すは、皇都。

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