二の輪 2
次の日は、朝から気が滅入るような雨が降っていた。
このような日は、読書に限る。アールやテム達、近衛騎士団の年の近い少年達は、詰所内の、屋根のある廊下か広間でがやがやと武術訓練をしている。だが、狭いところで得物を振り回せば、誰かに無用の怪我をさせてしまう。戦いに、晴れの日も雨の日も関係無い。それが、育ててくれた祖父ザインの口癖、だから、というわけではないのだが、ライは、弱い雨が降る朝の訓練場で足場の悪さを考慮しつつ一人で模擬武器を振ってから、武具に付いた雨と泥を丁寧に拭い、そして濡れた服を着替えて皇城内にある図書室に滑り込んだ。
近衛騎士になって良かったことが、二つある。一つは、皇城の隅にあった、父ヴィントが使っていた小部屋を見ることができたこと。父が使っていた当時そのままに放って置かれた階段下の小部屋は、薄暗く、そして、施療院でうたたねをしていた時に見た夢に出てきた部屋と全く同じ、だった。
〈薬草の匂い、まだ、残ってた〉
父が使っていた小部屋のことを思い出し、静かに微笑む。ライの曾祖母にして育ての母、そしてヴィントの祖母であるペトラの教え通り、父も、怪我や病気を治す為の薬草術をこの場所でも怠らず学んでいた。書見台に乗る重い本を見下ろし、ライはゆっくりと、微笑んだ。
近衛騎士になって良かったことの二つ目は、皇城内に設えられた図書室に自由に出入りできるようになったことだろう。周りにある、圧倒するほどの高さを持つ本棚を見回し、息を吐く。さすが、権勢を誇る皇国の図書室、幼い頃に恐る恐る入り込んだ最南伯の図書室よりも、厳しい武術修行から逃げ出したくなった時にしばしば隠れて一息ついた南の国の図書室よりも、この図書室は桁違いに大きかった。本棚の半分ほどは皇国の歴史を子細に記した本だが、薬草術の本も武術の本も充実している。ライの背では少し高い書見台を本棚の側まで寄せ、鎖の付いた重い本を書見台に乗せて、ライは心行くまで読書を楽しんでいた。
そう言えば、ふと、サジャ姫のことを思い出す。近衛騎士に任命され、自身の武術訓練にかまけていた所為で、サジャに剣術を教えるというかつての約束をすっかりすっぽかしてしまっている。怒って、いないだろうか? サジャの父である皇王レクトにも、叔母であるレナにも似ていない綺麗な茶色の髪と瞳を脳裏に浮かべ、ライはそっと、首を竦めた。
と。
「何、見てるの?」
足下から聞こえる幼い声に、はっと顔を上げる。そのまま視線を下に向けると、柔らかな碧色の瞳がライを見上げていた。
「ぼくにも見せて」
書見台の横でライを好奇の目で見上げる、どこかレナに似た小さな少年に、微笑む。その柔らかい身体を慎重に持ち上げ、ライは少年に書見台の上の本を見せた。
「これは、草の絵?」
ライの腕の中で、少年が首を傾げる。
「何の本なの?」
「薬草術の本です」
何故か丁寧な口調で、ライは少年の問いに答えていた。
「ふーん」
絵に興味があるのか、薄い羊皮紙を乱暴にめくる少年の手を優しく止める。
「本は、丁寧に扱わなければいけませんよ」
昔祖父に言われたことを、優しい言葉に直して諭すと、少年はライの方を振り向いて首を傾げた。
「そう、なの?」
「そう、です」
この少年は、何者なのだろうか? 首を本の方へと戻す少年を見詰め、首を傾げる。しかしライの疑問は、すぐに解けた。
「ライの邪魔をしてはいけませんよ、ユニ様」
この図書室を管理する老齢の騎士シアンの声に、ユニと呼ばれた少年が声を上げる。
「じゃましてないよ」
「あ、大丈夫です」
ライの方へ近付いてきたシアンに、ライはそう言ってから改めて、腕の中の少年をまじまじと見詰めた。シアンが『様』を付けて呼ぶということは、この少年は、おそらく、皇王レクトの息子、ライが昨日打ち据えてしまった第一皇子ノルドの弟、第二皇子だ。確かに、この少年は、叔母であるレナに、そして父である皇王レクトに似ていた。
「この草は、この辺りに生えているの?」
僅かな戸惑いを覚えたライに、第二皇子ユニのあくまで無邪気な声が降ってくる。
「おそらく」
本で学ぶだけではなく、実際に歩いて確かめる必要がある。ユニの言葉から、育ての親であるペトラの厳しい言葉を思い出し、ライは心の中で頷いた。と、その時。
「ここにいたのか」
利かん気の強そうな声に、再び顔を上げる。腕の中にいるユニを少しだけ大きくしたような影を本棚の向こうに見つけ、ライは目を瞬かせた。あれは、確か。
「兄様」
近付く影に、ライの腕の中でユニが暴れる。床に下ろすと、ユニはとたとたとその影に飛びついた。
「探したぞ」
その影、第一皇子ノルドが、意外に優しい仕草でユニの金色の髪を撫でる。
「だって、誰もかまってくれないんだもの」
そう言ってぷっと頬を膨らませたユニの表情に可愛らしさを覚え、ライは思わず微笑んだ。だが。
「ここで何をしている!」
謹厳な声が、図書室の温度を下げる。顔を上げると、皇王レクトの碧色の瞳が、二人の皇子を鋭く見下ろしているのが見えた。その瞳に対抗する視線を宿した第一皇子ノルドが、それでも無言のまま、第二皇子ユニの手を引き、ユニを庇うように図書室を出ていく様も。
「全く、可愛げの無い奴だ」
皇王レクトの声が元に戻ったのは、二人の皇子の姿が完全に見えなくなってから。
「陛下が厳し過ぎるのですよ」
近衛騎士隊長でもある伯父、フィルの声に、ライはやっと礼儀を思い出し、レクトとフィルに向かって頭を下げた。
「邪魔をして悪かったな」
「いいえ」
普段通りの、優しさを有する碧い瞳に、ほっと息を吐いて首を横に振る。ライの横に立った皇王レクトは、書見台の上の本を見詰めて口の端を上げた。
「熱心だな」
褒め言葉に、頬が熱くなる。
「近衛騎士の制服を着ているから、ますますヴィントにそっくりだ」
「そう言えば、北の大公の不正を見破ったのもヴィントでしたね」
そして。フィルが発した父の名に、皇王レクトが小さく首を横に振る様を、ライはただ静かに、見詰めた。
「そうでしたね」
フィルの言葉に、図書室の管理用机の方に戻っていたシアンもライの側に現れる。
「あれは、三の輪でしたか?」
「四の輪だ。不正を確定するのに時間が掛かったからな」
シアンに対するレクトの明確な声が、ライの耳に心地良く響いた。
弱い見習い騎士を武術試合でいびり殺そうとし、またレナ姫を自分のものにしようとした北の大公の傲慢な息子とその取り巻き達を制した功績により、いきなり『二つ輪』の近衛騎士に任命されたヴィントは、今のライと同じように皇城内の図書室に入り浸っていた。本を探している時に、本の隙間に押し込まれていた羊皮紙の束を見つけたヴィントは、書かれていた計算を自身で検算してみてから、司書であるシアンにその羊皮紙を見せ、計算結果が間違っていることを指摘した。ヴィントが見つけた羊皮紙の束を、シアンが過去の帳簿と見比べ、財務を司っていた北の大公が長年に渡り皇国の財を着服していたことが発覚した。結果、北の大公は地位を剥奪され、故郷である北の地に一生軟禁されることになった。勿論、北の大公に連なる一族も、息子達を含めて皆、皇都から追放された。そして、不正が発覚するきっかけを作り、皇国の財政を救ったヴィントには、四番目の『輪』が授けられた。
そんなことも、やってたんだ。意外な父の姿に、正直驚く。武術と、薬草術だけではない、もう一つの、父の姿に。
「良い父を、持ったな」
半ば呆然とするライの肩、皇王レクトが軽く叩く。肩に触れたその手の温かさに、言いしれぬ物悲しさを覚え、ライはそっと、息を吐いた。
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