18.5話 屈辱にまみれながらも強固な意志だけを胸に抱き

 雲が隠れ、灯り一つない闇の中。

 道から外れた林の中を一人の少年が歩いていた。 


 丁寧に仕立てられ、金貨数枚にも相当する価値がある服は、何カ所も破れ、血と泥で変色してしまっている。

 

 着ている少年の見た目はひどいものだ、顔は青く、疲労困憊ひろうこんぱいであり、塞がっているもののいくつもの傷を負っている。


 それでも、なお、彼が気品をまとっているように感じるのは、少年のうまれによるものだろうか。 

 全身が濡れているのは、数時間前に降っていた雨のせいではない。豪雨により体が冷えるのを防ぐため、止むまでの間、少年はじっと洞窟にこもっていた。


 だが、この選択は、誤りであり過ちであった。


 ……正確にいえば、少年は一人だけではなかった。洞窟内には彼に仕える配下が数人ほどいた。


けれど、全員追っ手により殺された。城内から脱出したあと、残っていた数少ない味方も洞窟から少年を逃すために死力をつくし、命を奪われた。

  

 だからこそ、生きねばならないと彼は誓った。犠牲になったものたちの意志をひきつぎ、報いるためにも倒れるわけにはいかない。

 幸いなこと、といっていいのかは定かではないが、配下たちの命懸けの奮闘ふんとうによって、追っ手は、本命である少年は見逃したらしい。


 けれど、幸運がいつまで続くかわからない。真夜中だということもあり、後ろから急に襲われないともかぎらない。


 配下たちが作ってくれた時間を浪費しないため、少年はわずかでも敵から、距離をとろうとする


 しかし、その意志に反して、少年の足どりはとても遅かった。


 数時間ずっと走っているが、息は荒く、本人は、走っているはずなのに、歩くよりもずっと鈍い。両膝は砂袋のように重たく、背中にかかる見えない重圧によって、体は前のめりであり、いまにも倒れそうになる。


 少し前から、少年は、自分の不調に気づいていた。


 汗が出てこない。口の中が乾き、微かに出てくる唾も粘着性がある。

 一刻も早く水分をとらなければならない。できれば塩分も。


 昼間少年が見たときは、周囲は平地だった。暗闇の中では、食料を確保するのは難しい。


 しかし、水分だけであれば、いますぐ解決ができる。


 靴を濡らす冷たい感覚。午前に降っていた雨のせいか、少年の足下には水たまりがあった。

 

 つまるところ、方法は一つだ。


 少年は、躊躇ちゅうちょなくはいつくばり、水たまりに口をつけた。


 泥は底のほうに沈殿しているようだ。上のほうであれば、多少は飲める。その証拠に少年の口内に砂や泥はない


 うまれて初めての味だった。意外と悪くないと少年は思いがら、頬を歪ませる。


 とはいえ、それは彼の元々の身分であれば、およそあり得ない行為であった。  

 乾きや飢えに負けたわけではない。前に進むためには、体は水分を欲しており、飲むことで、動けるなら、なんだってする。


 少年はただ、生きたいがために、泥水を飲んでいるわけではない。


 ここで終わるわけにはいかなかった。犠牲になったものたち、何よりいまもなお困窮こんきゅうし、これからも苦しくなるばかりの市民のことを思えば、手段など選んではいらない。 


 目的のためなら泥水をすすることになろうが構わない。彼はきっと生命を維持するためならば、虫どころか汚物だって口にするだろう。


 それほどまでに、強固な意志を少年は胸のうちに秘めていた。


(僕は絶対に死ねない)


 死なないのではなく、死ねない。

 自分が死ねば、この国は終わりだ。いくら巨大な大木であったとしても根が腐ればは、幹は病におかされ、葉も花も枯れて散る。

 それがいつになるのかは、不明だ。ただ、確実なのは、遠くないうち、確実に起こる最低の未来だということ。 

   

(……ダメだな。一人でいるとつい暗いことばかり考える)


 少年は頭を振り、雑念を消して、自分がいまどの辺りのいるのかを考えることにした。


 とはいえ、周囲はいまも変わらず闇が広がっているだけだ。使、現在の体力で使うのは、賢明とはいえない。

 

 それに、その必要はないと少年はあることを思い出していた。


 夕方に微かに聞こえた甲高い音。アレは、きっと鐘の音だろう。そう考えるとおそらく、シュドレーが近い。時期からすると


 少年の予測は、正しい。それは本人もすぐに知ることになった。


 雲から切れ目が差し、わずかな間だが、闇夜を月が照らす。 


 鮮やかな金髪と整った顔――力強い金色の瞳がまだ遠くだったシュドレーの街壁を捉え、方角を定める。

 シュドレーに向かうことは、利点と欠点、両方ある。


 人口が多ければ、身を隠せる場所は増えるし、自分を知る協力者を得ることが可能かもしれない。少しあるお金を使用すれば、食料も得ることはできるだろう。


 反対に欠点は、王国からの追っ手がきた場合、逃げ場がなくなってしまうことか。シュドレーの騎士たちも敵になれば、街からの脱出は難しくなる。


 少年は、立ち止まり、いうばくかの逡巡しゅんじゅんをする。

 雲が再び、隠れるころ、その足は、街から反対のほうへと向かっていた。


 追っ手が、街にいる騎士たちと連携するのを恐れているからではない。

 街で戦闘になれば、民を巻きこむ可能性が高い。そんなことを少年が思った途端、天秤は簡単に向かわないほうへと落ちた。

  

 水分を補給した少年は立ち上がると一歩ずつ前に進む。


 けれど、どこへ?


(まずは体を休める。そのためには、身を潜める場所を探せないと……)


 心の奥底から、ささやかれた弱音を少年は聞こえないふりをした。


 破滅に向かう王国を救うべく、彼は、暗闇の道を歩いていく。


 戦力はなく、方法も手段はまったくわからないまま。唯一残った強固な意志だけを胸に抱く。

 

 それすらなくしてしまえば、きっと自分には何もないことを少年自身が、嫌というほど自覚していた。


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