2話 野犬と知らないナイフ
次にエリックが目を覚ますと上空には、青い景色が広がっていた。
「……空か」
あおむけになっていたらしく、エリックは立ち上がり、周囲を観察する。
辺りには、不規則に木々が生え、清涼とした濃い香りが充満している。どこからか聞こえてくるのは、鳥の鳴き声や水の流れる音。
自分は森にいるらしい。エリックがそう気づいたのはしばらくしてからだ。おそらく、生前はこういった場所にくることが少ない、あるいは一度もなく、知識でしか知らなかったからだろう。
「……そういえば、場所を指定していなかったな」
材質は不明だが、シャツとズボン、それに靴という最低限、外で活動できる格好をしているのが、不幸中の幸いか。人の住んでいる場所が近くにあればいいのだが。
行き先は決めていないが、ひとまず水の音がする方角へ歩くことにした。水辺なら人がいるかもしれない。
草は膝ほどの高さしか生えていなかった。おかげで足下にさえ注意すれば、進むことはさほど難しくはない。
少しすると木々ばかりだった景色が、不意に開かれ、目の前に川が広がる。これが水の流れる正体だったらしい。
ただ、たしかめたいのは、もっと別のことだ。流れる水は透明で、エリックは顔を近づける。
水面に映るのは、茶髪の十四か十五歳ほどの少年。
「……これがいまの俺か……」
違和感を覚えるということは、生前の自分とは似ていないのかもしれない。もっとも、いまのおおよその年齢を知りたかっただけなので、そこらへんについては、どうでもいいことだが。
エリックのわずかに思った疑問は、顔を洗い、水を飲んだときには消えていた。
川辺には、人の姿は見えない。このままそっていけば誰かに出会うことができるだろうか。
そうエリックが考えていたときだった。
森の茂みのほうで、何かが動き、出てきた存在と視線がぶつかる。
川辺を利用するのは、必ずしも人だけではない。動物だって水分を欲する。
それは一匹の野犬だった。痩せこけてはいないが、体毛は不揃いに生え、唸り声をあげている。
滴るよだれは、エリックのことをエサとして見ていない。敵意がむき出しなのは、明らかだった。
いまのエリックは丸腰だ。武器になりそうなものはなく、野犬と真っ向から立ち向かっても勝ち目など万に一つもない。
川に入れば野犬は追ってこれないだろう。しかし、下手をすれば自分が溺れてしまう。流れはあまり速くはないが、水深を調べている暇はない。
となれば、手段は一つだ。
エリックは元きた方角、つまり森へと引き返した。もちろん全速力で。
走りながら後ろから聞こえる荒い息づかい。
野犬はエリックを追うのをやめなかった。それどころか速度も一向に衰えることなく、木々の間をすり抜ける。
さしずめ野犬にとってこの一帯は庭というべきか。たいしてエリックは右も左もわからず、すぐに追いつかれてしまう。
走りながらエリックが後ろを振り返る。
目の前に野犬の姿があった。
エリックはとっさに身をひねり、野犬の突進を躱す。だが、野犬は四肢を半回転させ、すぐにエリックへと襲いかかる。
「ぐっ……!」
野犬の体当たりを受け、エリックの体に衝撃が走り、いともたやすく地面に倒れてしまうと上からのしかかるように野犬が襲いかかる。
元々最初の一撃を回避したことのは、偶然によるものだったのだ。獣の身体能力との少年の腕力。どちらが勝るのかなどいうべきでもない。
野犬の獰猛な歯がエリックの顔に迫る。エリックは懸命に暴れるが、いかんせん少年の腕力では、わずかな抵抗が精いっぱいだ。
それも次第に弱くなっていく。
生臭いよだれが顔に垂れ、牙が目に触れそうなほどに近づいてしまう。
もう十秒も経たないうちに、野犬は自分を殺す。エリックは、そのことを理解していた。
(こんなところで俺は死ぬのか?)
エリックは生に執着があるわけではない。第二の命を得るための条件を快諾したのだって、生存を意識したからではない。
ただし、そんなエリックであっても、譲れないものがある。
目的のために死ぬのはいい。それはしかたがない。
だが、意味のないことで、野犬に食い散らかされるのは、自分の魂が許さない。
(こんなところで理不尽に殺されてたまるかッ!)
そう願ったとき、エリックの右手には一本のナイフが握られていた。
これがいつあったのか。どこから出てきたのか。どうやって現れたのか。
普段のエリックであれば、いくつも疑問が浮かんでいたに違いない。
しかし、この場面において、思ったこと。
敵を殺すことができる。それだけのシンプルなものだった。
気づいたあとの行動には、一切の迷いもためらいもなかった。
右手にあったナイフは、寸分のくるいもなく、野犬の首横に刺さる。
狙った行為だった。エリックが野犬の首以外を狙わなかったのは、脂肪や骨が邪魔になり、刃が途中で止まってしまうと判断したからだ。
その方法は、この場における最良の手段だった。
野犬はしばらくの間、エリックの上で暴れていたが、何度かナイフを刺すとそのままピクリとも動かなくなる。
「……はあはあ……。くそっ……!」
エリックは重たい野犬の死体をゴミのようにどかすと切れ切れになっていた呼吸を整える。
消耗が激しい。肉体的な疲労もそうだが精神的な疲労のほうも酷いものだ。大きな傷はなかったが、命を奪われる手前だったのだから、無理もない。
野犬一匹程度で死にかける体たらく。こんなことで本当に世界を救えるのだろうかとエリックは、ため息をはく。実際、ナイフがなければ、自分は確実に死んでいた。
「……そうだ。このナイフ」
気づけば使用していたが、自分はいつこのナイフを握っていたのか。少なくとも最初のもちものにはなかった。地面に落ちていたのを知らず知らずのうちに握っていたのだろうか。
ナイフには特別なところはないように見える。グリップは強化プラスチック。年代ものらしいが、よく整備されているのか、刃こぼれは一つもない。
(とにかく、いまは命があったことを喜ぶべきか)
世界を救う目的が達せられないまま早々にして死んでは何のために第二の生を与えられたのかわかったものではない。
野犬の生暖かい血が気持ち悪い。そう感じたエリックは服の袖で血を拭う。
「……はっ?」
エリックが戸惑いの声を漏らしたのは、握っていたはずのナイフがいつの間にか消えていたからだ。
知らない間に手から滑り落ちたのかと地面に目をやるが、どこにも見渡らない。
まるで最初から存在していなかったかのように、ナイフは消えてしまっていた。
これはグルーブにおける現象なのだろうか。あるいは、女神、エクスのいっていた数少ないサポートの一つなのか。
川辺に戻りながら、エリックはいくつか仮定するが、この場では明確な答えは出なかった。
急に出現し、消えたナイフは、一旦保留にするしかないだろう。焦る必要はない。不足している情報は、補っていけばいい。
そう決めるとエリックは当初の予定通り、川辺にそって歩いていったのだった。
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