第9話 不老の魔術師登場
「あなたって強いのね」
「いやぁ、俺は本当に下の下ですよ。ジョゼこそすごいです」
頭を掻いて恐縮する姿と、先ほどの剣捌きとがどうにも一致していないアンリである。
浮遊島にはもっと強い武人たちがたくさんいると言われ、そんなところに連れていかれて本当に生きて帰って来られるのか若干心配になる。
「……その翼……」
天翔族の証である翼は、きらめくような純白だ。
図らずも目を奪われていると、アンリがいたずらっぽく微笑んだ。
「触ってみます?」
「いっ、いい……」
顔を引きつらせてしまうジョゼである。
断られたアンリはなぜだか残念そうにしている。
「その服、どうなってるの?」
「背中部分に切れ込みが入ってるんです。いざという時に翼を出せるようにね。特注品なんですよ」
「あ、そう……」
寒がりだから外套を脱がないのかと思っていたが、どうやら背中を隠すためだったようだ。
ジョゼは口を尖らせた。
「森で迷ったのってやっぱり嘘だったのね。飛んで行けばすぐ村まで帰れたじゃないの」
「それは誤解です。俺は飛ぶのが苦手で、長くは飛翔を続けていられないんです……。それより下に降りましょうか」
自分で木を伝って降りるからと、断る間もなくジョゼはアンリにまたもや抱きすくめられてしまった。
仕方なく彼の首に手を回そうとしたところで、大きく身じろぎする。
「危ない! 落ちますよ!」
「あれ、見て!」
隠れ家のある辺りから、黒い煙が出ているのが目に飛び込んできた。
火事……!
ジョゼは地上に降り立つやいなや、アンリの腕をすり抜けて全力で走り出した。
「ジョゼ……わっ!」
後を追おうとしたアンリの背後から、蝙蝠の生き残りの数匹が飛びかかってくる。
すぐに振り払って剣でとどめを刺したものの、その間にもジョゼの姿は見えなくなっていた。
「ジョゼ! 一人では危険です!」
アンリが慌てて後を追うと、ジョゼが隠れ家の前で立ち尽くしているのが遠目に捉えられた。
薄灰色の煙が辺りに充満し、真っ赤な炎が洞窟の穴から吹き上げ、蛇のようにうねっていた。
何があったかは一目瞭然。
誰かがジョゼの隠れ家に、火を放ったのだ。
やったのは先ほどの男たちに違いない。
姿が見えないのは、放火だけしてすぐに森から逃げたからだろう。
「ママの本が……」
ふらふらと炎に近づくジョゼが目に入り、アンリは急いで追いかける。
だが、そこにも数匹の蝙蝠が立ち塞がった。
さらに、明るい炎に吸い寄せられるように、洞窟の方にも何匹かが飛んでいく。
「ジョゼ!」
焦りをはらんだアンリの声に、ジョゼははっとして顔を上げた。
呆けている場合ではない。
後方から迫りくる蝙蝠に対峙しようと短剣を構えたが、なぜか蝙蝠はなかなか襲ってこようとしない。
不審に思って立ち尽くすジョゼの頭上から、背筋の凍るような冷たい声が降ってきたのはそのときだ。
「なぁんだ、炎にまかれて死んだかと思ったのに。案外しぶといんだねぇ」
青白い顔、眼の下に浮かぶ隈。
不穏な雰囲気をまとう痩せぎすの優男————ノクトゥルが木の上に出現していた。
「ノクトゥル……! 火を放ったのはあんたなの!?」
「違うよぉ。やったのは人間たちさ。君を捕まえにきてみたら、先客がいたから驚いたよ」
「どいつもこいつもうざったいわね! 同じタイミングで来ないでよ!」
「ジョゼ! そいつから離れて……!」
後方でアンリが蝙蝠たちにまつわりつかれているのを目の端に捉える。
ノクトゥルが蔑むような笑みを浮かべた。
「おいおい、少し目を離したらもう男を誘惑してるのかい? まったく淫乱な半妖娘だねぇ。母親に似たのかなぁ?」
「……ママを侮辱したらただじゃおかないわよ」
睨みつけるが、ノクトゥルはどこ吹く風だ。
「男を誑し込むのが上手かったからねぇ、ナディーヌは」
「この!」
怒りに任せて短剣を投げつけようと、ノクトゥルに近づいた、その刹那。
突如として、ジョゼの足元の地面に巨大な円形の陣が出現した。
禍々しい黒と赤の妖術の光が、ジョゼに迫る。
「えっ!? 何、これ!?」
「罠です、ジョゼ! 逃げてください!」
「逃げろったって……!」
足を動かそうとするが、なぜだか石のようになって動かない。
その間に、邪気をたっぷりと含んだ黒い触手が陣から勢いよく吹き出し、ジョゼの身体を絡め取っていく。
「離してよ!」
数十本もの触手があっという間にジョゼの手足の自由を奪い、蜘蛛の巣に囚われた蝶のように空中に吊り下げる。
木の上からノクトゥルが飛び降りてきて、拘束されたジョゼの前に立った。
橙色の瞳が妖しい熱を帯びて光る。
「この国——バルディアの聖女の伝説って知ってるかい、ジョゼ」
「…………?」
何を言おうとしているのかまったく予想がつかない。
世界の危機に聖女が現れて人間を救うということくらいはジョゼだって知っている。
半妖のジョゼからしてみれば聖女など厄介な存在に過ぎないが、人間の間では広く支持を得ているのだろう。
数十年だか数百年に一度の間隔で現れるという聖女の伝説はバルディアでは大人から子供にまで人気のある物語である。
だが、それがなんだというのか。
眉をひそめるジョゼに構わず、ノクトゥルは歌うように言葉を紡ぐ。
「二〇年前、この国に一人の女が現れた。妖魔を退ける聖なる力を有した聖女。当時この国を荒らしていた強力な妖魔を倒し、その後は人知れず去っていったとされている。皆知らないんだよねぇ。その『聖女』とやらが、実は強大な力を持つ女魔術師だったってことをさ」
話しながらも触手は動き続けている。
やがてジョゼの細い首にまで触手が伸びて、ぎりぎりと締め上げてきた。
息ができない。
「う……く……」
「その女こそ、君の母親だよ。君は聖女様の娘ってわけ。もっとも君を産んだことで聖なる力は失われたけどねぇ」
「なんであんたがそんなこと知ってるのよ……!」
「決まってるだろぉ。ずっと喰いたくて狙ってたからさぁ、元聖女の身体をねぇ」
「変……態!」
そのときだった。
「おしゃべりが過ぎるぞ、ノクトゥル」
静かな、しかしぞっとするような声が響く。
力を振り絞り触手から逃れようとするジョゼの身体が反射的に凍りつきそうになるほど。
空間がぐにゃりと歪み、一人の男が現れる。
年は二、三十代くらいか。
漆黒の衣に身を包んだ魔術師風の男で、一見どこにでもいそうな普通の人間だ。
だが、その右眼があるはずの部分には不気味な黒い穴が虚空のように広がっている。
そして男の左腕の袖部分には中身がなく、地に向けてだらりと垂れ下がっていた。
(隻眼に、隻腕……!)
男の正体を察したジョゼの身体に緊張が走る。
「あんたが、『不老の魔術師』……!?」
男の口が嗤うのをジョゼは見た。
それは赤い三日月のように不吉な弧を描く。
「それは天翔族が勝手に呼んでいるだけだ。我が名はグエン。このときを待ちわびたぞ、半妖の娘」
仄暗い笑みを顔に張り付けたまま、男がそう口にした瞬間に気配が変わる。
どす黒い、濃厚な邪気が溢れ出す。
「あ……!」
男の長い黒髪が蛇のようにうねる。
先ほどまではなかったはずの赤い入れ墨が、顔に浮き上がった。
「あんたの目的は何!? なぜわたしを狙うの!?」
「知る必要はない。どうせ貴様はすぐに消えてなくなる」
底冷えするような声に、ジョゼは震え上がりそうになるのを必死で耐える。
邪悪さが人の形を取ったような男。
真っ黒い瘴気をまき散らしながらグエンはゆっくりとジョゼに近づいてくる。
不意にその拳を大きく振り上げた。
すると、何もない空間からおぞましいものが出てくる。
「っ、さっきの、人間……!?」
それは死体だった。
天翔族に扮した男が、息絶えた姿で空中に浮いている。
ずぶり、とグエンがその手を死体の体内に突っ込んだ。
「何を……!?」
グエンは男の体内から臓物を引き出すと、あろうことかジョゼの前に差し出してきた。
「喰え」
「っ!」
ジョゼの顔に臓物が押し付けられ、むせかえるような血の匂いが鼻をつく。
「この……!」
隙をついてグエンの手に嚙みついてやると、血ではなく、黒いもやが迸った。
「貴様!」
グエンは黒いもやをまき散らしながら手を振り払った。
独眼が怒りに満ちる。
「くうっ……」
グエンの怒りに呼応して、ジョゼを拘束している触手がぐんときつくなった。
ひときわ強く首を締め上げられ、ジョゼの顔に苦悶の表情が浮かび——そのまま、がくりと頭を垂れた。
「ジョゼ!」
もはや一刻の猶予もないことを見て取ったアンリは蝙蝠を振り払い、ジョゼに向かって駆け出した。
「不老の魔術師」がジョゼに手を伸ばすのが目に入り、焦燥が全身を貫く。
この距離なら破魔の陣を展開したいが、ジョゼまで消滅させてしまうのではないかという懸念がある。
ならばと近づこうとすると、ノクトゥルがそれを阻んだ。
「おっと、近づくなよぉ。色男の兄さん」
妖気がノクトゥルの全身から吹き出した。
人間には毒となる妖魔の気も天翔族のアンリには効かない。
「退きなさい!」
そのまま剣を持ち直し素早く斬りかかった。
ノクトゥルは間一髪のところで躱して舌打ちする。
「そっかぁ、兄さんはあの女の……。ふん、まったくこの餓鬼に関わると、なんでか知らないけど面倒くさいことになるねぇ」
「何……!?」
アンリが眉根を寄せた、そのときだった。
唐突に、眩いばかりの光がジョゼの身体から吹き出した。
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