第3話 助けを送ると言われても
妖魔は夢を見るのだろうか。
半妖の自分が見るのだから、おそらく妖魔だって夢くらい見るのかもしれない。
けれど、とジョゼは思う。
血も涙もない妖魔は夢なんかきっと見ない。
自分が夢を見るのは、この身体に流れている人間の血によるものなのかも——。
……ジョゼは澄み切った美しい青色の空に浮かんでいた。
これは夢だ。
眼下には切れ切れの薄い雲がゆっくりと流れ、その下には紺碧の海が広がっている。
夢の中だからか、絵画のようにどこかしんと静まり返った無機質な海。
遥か彼方には島々も見えた。
実際に訪れたことなどないが、南国の海とはこのような色をしているらしいと聞いたことがある。
「よう、あいかわらずしけた面してるじゃねえか。今日はどうした?」
振り返ると、燃えさかる炎のような髪色をした男が宙に浮かんでいた。
赤髪のベルメロとジョゼが呼んでいる、夢の中の人物だ。
年は四十代後半くらいだろうか。
金色の瞳は不敵な光を帯び、精悍な顔には人を食ったような笑顔が浮かんでいる。
「うるさいわよ、ベルメロ! 夢魔のくせして」
ベルメロは途端に苦虫を噛み潰したような表情になる。
「だーかーらー、俺は夢魔じゃないっての。夢魔ってのはなぁ、かわいい女の子にあんなことやこんなことをしに夢に侵入してくるんだぜ。俺がお前に一度でもいやらしいことをしたか、ん?」
「してはいないけれどあなたの存在がすでにいやらしい気がするわね」
「おいっ!」
空に浮かびながら腕を組みふんぞり返るという芸当をしていた赤髪の男は、がくっと墜落しそうになるのを慌てて堪える。
冗談よ、とすましたものの、ジョゼはふと真顔になった。
「ねえ、妖魔が天翔族から身を隠す方法ってあるのかしら」
「ああ? そりゃ難しい話だな。天翔族ってのは妖気を探知する能力に優れている。特に天翔族の騎士の連中を誤魔化すのは至難の業だろうな。上級の変化の術でも使えりゃ、一時的には騙せるかもしれんが」
「それじゃあ絶望的ね。わたしの変化の術の腕前は下の下だもの」
「どうしたんだ? 不細工顔がもっと台無しになるぞ」
顔を曇らせるジョゼに憎まれ口を叩きつつも、ベルメロの瞳には優しい光が浮かんでいる。
今年の春に母が亡くなってからというもの、困ったことがあると、この赤髪の男は夢の中に現れては助言をくれたり慰めてくれたりする。
そんなときは、海だったり平地だったり、いつもどこか違う風景の空の中なのだ。
ジョゼは父親を知らないが、もしかしたら自分の願望がこのような夢の形になって現れているのかもしれない、とぼんやり思う。
ただ、夢にしてはあまりにも的確な情報をもらえることもあるため、やはり親切な夢魔が悪戯に夢に入り込んでいる可能性も捨てきれない。
「……不思議よね。夢魔がこんなふうに助けてくれるというのは聞いたことがないわ」
「だから夢魔じゃないって言ってるじゃねぇか。とにかく、聞いてやるから話してみな」
言葉遣いとは裏腹な穏やかな口調に促され、村で薬草が売れずに冬支度が遅れていること、天翔族が半妖の討伐のためにジョゼが棲む森にやって来るらしいこと、友人と思っていた妖魔に狙われていることなどをぽつほつと話した。
いつものように、「マイア村」の近くの「迷いの森」に棲んでいるとは言わないように注意を払いながら。
夢魔に自分の居場所を知られると、本体がやって来て襲われてしまうから絶対に言ってはいけないと母に言い聞かせられていたからだ。
全部話し終わると、ベルメロは納得したように顎を撫でた。
「なーるほどねぇ」
「半妖って不便過ぎるのよ! 普通の妖魔だったら完璧に人間に化けられるのに。わたしは狼の姿にも、人間の姿にもちゃんとなれない」
大きな街に薬草を売りに行くことや、いっそのこと森を出てほかの棲み処を探すことも考えたが、街道を通るのでつい躊躇してしまう。
そもそも、迷いの森のようにあまり人が入ってこない土地はそうはないだろう。
「人間に見つかったら、確実に捕らえられるだろうしなあ。使い魔にでもされたらそれこそ目も当てられんぞ」
「使い魔? それって魔術師が妖魔を従わせる術よね」
「ああ。一度使い魔契約を結んだら最後、術者の意思には逆らえなくなる。使える術者は少ないだろうが気をつけろよ」
「でも、逆に言えば使い魔を使役できるくらいの術者なら、わたしに変化の術をかけられるかもしれないわよね。ママが生きてた頃はわたしに上級の変化の術をかけてくれていたの。小さい頃には都でも暮らしていたし」
亡くなってしまったジョゼの母は凄腕の魔術師だった。
「そうか、お前さんの母親が……」
一瞬、ベルメロが遠い眼になる。
「変化の術があれば、もっと遠くのほかの棲み処を探せるかも……」
「おいおい、魔導師を自分から探すってことか? そんな簡単に会えるもんでもないだろ」
ジョゼはふんっと鼻を鳴らした。
「あてはあるわ」
施療院の医者が話していた魔術師のことをベルメロに告げる。
今ならまだ、村にいるだろう。
「変化の術をかけてもらえないか聞いてみようかしら」
真剣な顔で検討するのを、赤髪の男が手を挙げて制した。
その顔には懸念の色がありありと浮かび、若干早口になっている。
「待てよ、性急に決めるのはよくないぜ」
「だからって悠長に構えていて、明日にも天翔族が迷いの森に来ちゃったらどうするのよ?」
「迷いの森?」
「あっ……!」
ジョゼは慌てて口を抑えた。
(……しまった。自分でばらしてしまってどうするのよ)
これまで気をつけていたのに、あやまって居場所を口にしてしまった。
どうやら自分で思うよりずっと気が動転しているようだ。
「そうか! 迷いの森……バルディアの西だな。ようやくわかったぜ。迎えに行ってやりたいが、すぐには無理だな」
「来なくていいわよ!」
うろたえるジョゼをなだめるように、ベルメロが口元に笑みを浮かべる。
「助けを送ってやるよ」
「いらなーい!!」
いくら友好的に思えても、妖魔なんて信用できない。
ノクトゥルだってジョゼを突然狙うようになったのだから。
ただでさえ問題が山積しているのに、これ以上の危険はごめんだった。
焦燥に駆られるジョゼに反してベルメロはご機嫌だったが、何かが気にかかるようで慎重に口を開いた。
「まあ落ち着けって。ところでこんな季節に天翔族が討伐隊を派遣するだなんて、おかしいと思わないか?」
「……どういうこと?」
「起きたら、空をよく見てみろ。気をつけろよ。お前さん、もしかしたら企み事の渦中にいるのかもしれん」
よくわからなかったが、居場所を知られてしまったという恐怖は一旦脇に置いておく。
いつも有用な忠告をしてくれる夢魔の言うことだし、ここは聞いておくべきだろう。
わかったわと返事をした。
薄闇の中で、ジョゼは目を覚ました。
迷いの森の中の自然の洞窟が少女の棲み処だ。
外からは入り口がわかりづらくしてあるため、簡単には見つからないようになっている。
石の寝台から身を起こし、手早く身支度を整える。
かまどの燃えかすを火かき棒でつついてから、近くの小川から汲んでおいた水で顔を拭うと、ぽつりと言った。
「ベルメロの言うとおりにしてみようかしら」
夢魔かもしれない男に空を見ろと言われて、素直にその通りにするのもどうかとは思うが、とにかく外へ出る。
(そうだ。練習のために、一応ね)
ジョゼの隠れ家の辺りまで人間が入ってくることはあまりないが、それでも変化の術を使って人化しておく。
胸の前で手を組み集中すると、獣の耳が人間のそれに変化し、尻尾が消える。
途端に身体からがくんと力が抜ける。
(やっぱり疲れる。なんでこんなに人間の姿を保つのって難しいのかしら……)
もともと術を行使するのは苦手なのだが、ここのところ特に術の効き目が悪くなってきている気がする。
以前はこれほど脱力感を覚えなかったし、術がすぐに解けてしまうこともなかった。
全身にだるさを感じつつも、愛用の弓を肩に引っ掛けて外に出た。
木々が鬱蒼と生い茂る迷いの森は、天高く伸びた枝葉が陽の光を遮り、日中でも薄暗い。
それでも、ジョゼの歩みに迷いは一切感じられない。
知らぬ者が足を踏み入れればたちまちに方角を見失ってしまう迷いの森も、少女にとっては勝手知ったる自分の庭だ。
人間たちはこの森には妖魔がうようよ棲んでいると信じている節があるが、実際にはそんなことはない。
確かに、森の深部には妖魔がいる。
けれど、広すぎるこの森では、そこまでたどり着くには何日もかかるのだ。
迷いの森に入ったら出てこられないなんていうのは、おおかた人間が勝手に森に立ち入って、迷い込んで戻れなくなったのを妖魔に食べられてしまったと信じているのだろう。
やがて、ふっと木々が途切れた。
燦々と陽の光が降り注ぐ開けた場所に出る。
その一角に土が盛り上げられたところがあり、小石が放射状に並べられていた。
「ママ、おはよう」
この下にジョゼの母、ナディーヌが眠っている。
魔術師だった母は色々な術を使えたけれど、ただの人間だった。
流行り病であっという間に亡くなってしまってからもう三年。
日課の黙とうを捧げてから、空を見上げる。
ここが唯一空を覗ける場所だが、見る限りなんの変哲もない。
秋の空は天高く、雲も見当たらない。
(晴れてるだけのただの空よね……)
空を見たところで何がわかるというのだろう。
もし今夜もベルメロが夢に現れたら聞いてみよう、とジョゼは思った。
しかし、予想に反してベルメロは一向に夢に現れなかった。
それから三日、仕方なくジョゼは毎日空を見上げて過ごした。
ベルメロが何を言いたかったのか相変わらずさっぱりわからなかったが、雲の動きを見ていると一瞬たりとも同じ形になることはなく、ついついぼうっと眺めてしまうこともしばしばだった。
「ママだったら、空を見ろと言われたら何を感じたかしらね」
母が生きていた頃なら、わからないことは何でも教えてくれたし、話だって聞いてもらえた。
一人では、考えが煮詰まった時に困る。
ジョゼはぶるっと身体を震わせた。
まだ秋の入りかけと思っていたが、ここのところ朝晩はめっきり冷えるようになった。
これからどんどん寒くなってくるだろう。
母が亡くなってからの三度目の冬。
昨年までは運よく食料が手に入っていたけれど、今年はどうなるかわからない。
今年は特に冷えそうだ。
一人きりの隠れ家で無事に冬を越せるかどうか、不安が胸に迫る。
「そういえば、もうすぐ収穫祭かぁ。昔は、都に住んでたこともあったのにね」
もっと幼かった頃は、母とバルディアの王都で暮らしていたのだ。
仲の良かった友達だっていた。
「アンリ、どうしてるかしら」
ごちゃごちゃした下町の一画の狭い家。
隣近所にも同じような家がひしめいていて、アンリは真隣の家の子供だった。
煤けたような灰色の髪をした、ちょっとおっちょこちょいで気弱な男の子。
おてんばで負けん気の強い自分とは正反対だった。
「あの頃はアンリと毎日一緒に遊んでたっけ。楽しかったなぁ……」
思考が楽しかった子供時代に飛んでいきそうになる。
けれど、同時に嫌なことも思い出してしまった。
「变化の術が解けて、半妖ってばれちゃったのよね」
母が变化の術をかけてくれていたのだが、どういうわけだか成長するにつれて変化の術があまり効かなくなってきたのだ。
ある日、とうとう子供たちの前で変化の術が解けてしまった。
母と二人、逃げるように王都を出て迷いの森に棲むようになったのはそれからだ。
都ではいつ正体がばれるかとひやひやしながら暮らしていたから、これでよかったのだと納得してはいる。
でも。
辛いことも確かにあったけれど、都には楽しい思い出が詰まっていた。
考えたところで仕方ないのはわかっている。
下手な変化の術しか使えなければ、もとより人里で暮らすのは不可能だ。
けれど、母も亡くなった今、一人でこれ以上森に棲み続けられるのだろうか……。
秋の空を見上げてしばし考え込む。
(やっぱり、もっと南に棲み処を変えるしかない……? ママのお墓を放っていく……?)
息を吐いてふと視線を落とすと、赤い物体が目に入る。
「あら……! ドュラスの実じゃない!」
母の墓の周りに真っ赤な果実がいくつも落ちているのが目に入った。
小さいけれど紅い宝石の様に艶々に光っているその実は、ドゥラスというこの時期にしか採ることのできない自然の恵みだ。
市場などには滅多に出回らない貴重な品である。
甘酸っぱくみずみずしい果実はジョゼの大好物だった。
鳥か、獣か。
どこからか運んできて、そのまま忘れたのに違いない。
その場にしゃがみ込んで実を手に取った。
まるで母が果物を天から送ってくれたかのような、不思議な気分になる。
持っていた小刀を出し、その場で皮を剥こうとしたその時——。
「早まってはいけませぇぇぇぇぇん!!」
「…………!!?」
後ろから誰かに力強く抱きしめられた。
————否、羽交い締めにされた。
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