第35話 ありがと、なんて
夕闇に暮れるセランの城で、リシャード卿は苦悩していた。
(もうジョゼはセランに来てくれないのでは……。くっ、嫌われてしまったか……?)
いらぬこととは思いながらもついついジョゼの侍女の人選に口出しし、それがジョゼの逆鱗に触れたのだ。
長年会いたいと望み続けていた孫娘に嫌われてしまったと思い込んでいるリシャード卿の心は千々に乱れていた。
「いや、だがしかし、儂は間違ったことは言っておらん! いや、でも……もう会えんのか……うう……」
両手で頭を抱えながら部屋の隅から隅を行ったり来たりする辺境伯を、側仕えの者が心配そうに見つめている。
だが、悩める時間は長くは続かなかった。
長男のマシューが転がるように部屋に駆け込んできたからだ。
「ちちち父上!」
「なんだマシュー、騒がしい」
「ジョ、ジョゼが戻ってまいりました!」
「なんと!」
リシャードの表情が喜びに染まる。
だが、マシューがそれを遮って叫んだ。
「よ、妖魔を伴っております!!」
「なんだと!?」
言い終わるより前に、部屋の窓が大きな音を立てて開かれた。
「ジョゼ、アンリ殿下! それに、うわぁ! お、お前は……!?」
窓からの突然の侵入者たちは、それぞれの背に異なる種族の翼をはためかせていた。
天翔族の証である純白の翼を広げたアンリはジョゼを抱きかかえ、窓から部屋に舞い降りる。
続いて蝙蝠の翼を擁したノクトゥルが、片腕にメイメイをぶら下げるようにしてゆらりと入ってきた。
痩せぎすの蝙蝠の妖魔の登場に、リシャードもマシューも大慌てで身構えた。
「ジョゼ! これはどういうことだ!!」
「リシャード卿、お願いがあるの! ベッドを貸して!」
——一瞬の沈黙。
それからリシャードの口から発されたのは、混乱の極みの絶叫だった。
「はああぁ!? お、おぬしは何を言っておる……!?」
「リシャード卿、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ですが鳳凰帝陛下の一大事なのです。責任は俺がすべて取りますので、ぜひお願いします。あ、あとこの妖魔は悪い者ではありません。ジョゼとナディーヌおばさんをずっと守ってくれていた、かの狼王ロドルフォの一の配下ノクトゥルです」
アンリはその腕からジョゼをおろすと、形だけは恐縮したように頭をさげる。
紹介されたノクトゥルは、生まれて初めて空を飛んで盛大に目を回したメイメイを床に放り出しているところだ。
リシャードの視線を受けると、ぱちりと片目をつぶってみせる。
「よろしくねぇ、おじいちゃん」
「お、おじいちゃんだと……!」
「だってぇ、ジョゼのおじいちゃんでしょ? ほらジョゼ、おじいちゃんお願い! って言って頼みなよぉ。そしたら寝室を貸してくれるかもよぉ?」
「え。やだ、なんでそんなことしなきゃいけないのよ」
「おやおや、ナディーヌは人に物を頼む態度っていうのを君に教えなかったとみえるねぇ」
リシャードとマシューは目の前で展開されるやり取りに呆気にとられて言葉もない。
なんなんだこれは。
だが、リシャードは腐っても元武人である。
鉄の精神力で己を律すると、厳かな声でこう言った。
「ごほん。えー、事情はわかった。だが、ベッドを貸せなどと……。一体何をするつもりですかな、アンリ殿下?」
「夢渡りの術を使いたいんです。精神体となって人の夢の中に潜る術です。浮遊島まで戻っている時間がないのと、彼——ノクトゥルを連れていくことができないので……」
アンリの言葉にリシャードは再度ノクトゥルに視線を向けると、不吉を背負ったような青白い顔が手燭の灯りに照らされていた。
背筋を這うような震えがリシャードを襲う。
自分の城にこうも堂々と妖魔が入りこんでいるという事実がとにかく信じられなかった。
「お願い! 事は一刻を争うの。おじいちゃんでもなんでも呼ぶから……!」
逡巡する様子を見せるリシャードに、ジョゼはいてもたってもいられずに思わず叫んでいた。
「……わかった。寝室でもなんでもおぬしの好きなように使うがよい。ここはおぬしの家なのだから」
孫娘の必死の頼みに、リシャードの心は決まった。
「ほらほら」と蝙蝠の妖魔に背を押されて、ジョゼがリシャードの前に進み出る。
なんでこんな展開に? と気まずそうに頬を染めたジョゼが、蚊の鳴くような声でこう言った。
「えっと……ありがと、おじいちゃん。……これでいいの?」
ドスッ、という矢が刺さるような音が皆の耳に聞こえた気がした。
耳まで真っ赤になったリシャードが、それでも威厳を保とうと「うむ」と一言だけ発する。
「もう! なんなのこれ?」
やってられないというように両手で頭を押さえるジョゼに、にやにや笑いを浮かべたノクトゥルがすかさず答えた。
「いいじゃない。ナディーヌも喜ぶよぉ、君がおじいちゃんと仲良くすれば」
「さすがですね〜、ノクトゥル」
「ハイ、ジョゼの扱いがうまいデス!」
感心しきりのアンリとメイメイに、むくれ顔のジョゼににやけ顔を一生懸命引き締めようと努力するリシャードに、わけのわからない蝙蝠の妖魔。
そこに、完全に一人置いていかれた状態のマシューが呆然と佇んでいた。
だが、セラン領の者は勇敢で知られる。
マシューとて武人だ。
父がしたように胆力を総動員させてどうにか精神を立て直す。
「とりあえず、し、寝室の用意を……」
蒼白な顔の側仕えもなんとか頷きを返した。
※ ※ ※
リシャード卿が用意してくれた居室は広く快適な造りだった。
天蓋付きの巨大な寝台の周りに集まって大急ぎで段取りが話し合われる。
「それでどうするの? 皆で一斉にここで寝るってわけ?」
アンリとノクトゥルがもの言いたげに目線を交わした。
どうやら自分にはわからない問題が二人には見えているようだ。
「……何よ?」
「それだとまずいことになるかもしれません。父上は精神体だけでなく、その肉体までもをジョゼの夢の中に隠しています。だけど、俺やノクトゥルが使う術では、精神体しか夢の中に送り込むことはできないんです」
つまり、精神が肉体から離れたあとの空っぽの容れ物が残ってしまうというわけだ。
「——だから、俺は残ります。夢渡りにはジョゼとノクトゥルの二人で行ってきてください」
「賢明な判断だねぇ」
本当は自分が行きたいだろうに、とノクトゥルは心の中で呟きつつも、さっさと寝台に腰かけた。
「なんで……逆じゃ駄目なの?」
「途中でグエンに気づかれた場合のことを考えてですよ。ノクトゥルは現在彼の使い魔にされています。もし見つかったら敵側に回る」
ジョゼは唾を飲みこんだ。
一度契約を結んだら最後、使い魔は術者の意思に逆らうことはできない。
「グエンが夢の中まで追って来たとしても、前のときのように俺を呼べば目を覚まして逃げることができる。でも現実世界のほうの肉体を狙われたら? ノクトゥルは眠っている俺たちの身体を引き裂くでしょう。だから俺がここに残ってあなたたちの身体を見張ります」
「……わかった」
ジョゼは躊躇いつつもノクトゥルの横に座る。
アンリが寝台の側に立った。
「ジョゼ、万が一グエンが夢の中に出てきたらすぐに兄さんを呼ぶんだよぉ」
ジョゼはひとつ頷いてから、胸の鎖をちらりと見下ろす。
自分にとってはこれが命綱だ。
「さ、時間がない。始めるよぉ」
ノクトゥルの長い腕がジョゼの身体をすっぽりと包んだ。
アンリがジョゼの顔の前に手を伸ばす。
それが合図だった。
すぐにジョゼは眠りに落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます