第34話 暴かれた過去

 ノクトゥルは目の下にくっきりと浮かんだ隈を指で伸ばすと、表情を少しだけ引き締めた。

 

「事の起こりはロディ様の配下の大蜥蜴の妖魔が突然狂ったこと。なんの前触れもなかった——たったひとつ、奴の片目が潰れ、三本脚になったこと以外はね。それからだよぉ、奴が妖魔だろうが人間だろうがのべつ幕無しに襲いだしたのは」

「二〇年前にバルディアを跋扈した妖魔のことですね」


 あれが狼王の配下だったとは。

 戦士たちをなぎ倒す、巨大な蜥蜴の挿絵をジョゼは思い浮かべた。


「もっと悪かったのは奴に追従して一緒に暴れる妖魔も出てきたってこと。結果、国は荒れた。普通の妖魔ならそれを喜ぶんだろうけど、我が主はそうじゃなかった」

「狼王が事態を憂いたと?」

「それどころか自ら大蜥蜴を倒しに出かけるって言い出したんだよぉ。配下の不始末をつけるってね。ロディ様はね、人間びいきだったんだぁ。長きを生きる大妖魔のロディ様にとって、人間の命なんて一瞬。それでも短い命を精一杯生きる陽炎みたいな人間たちをロディ様は愛した。人に姿を変え、ガロフの山を出てバルディアに到着したとき、戦に出くわした。そこで……ナディーヌに出会った」


 当時の情景を思い浮かべるかのように、ノクトゥルは目を細めた。


「あの女はロディ様の正体を一発で見抜いたよぉ。ロディ様はすぐに興味を持っちゃって、あの手この手で気を引こうとしてたなぁ……。それなのに全然なびかなくて、それでもう一気にメロメロになってた。くふふ」


 ノクトゥルはやたらと楽しそうに、まるで乙女がするように両手で口元を押さえている。

 ジョゼも母と狼王の馴れ初めは気にはなったが、それよりも大蜥蜴やグエンの話が早く聞きたいと思ってしまう。

 そんなジョゼの気持ちを見抜き、ノクトゥルが手を広げた。


「なぁんだよ、君って色気もなけりゃあ恋にも興味ないんだなぁ。発情期もまだのお子様だもんねぇ」

「うるさいわよ!」


 ジョゼがいきり立つと、ノクトゥルはつまらなそうに鼻を鳴らした。


「しょうがないなぁ。大蜥蜴についてだろ? 奴はね、すごく強かった。黒い邪気を全身に纏っていて、触れるものすべての生命を吸い取っていた」

「それって……!」


 まただ。

 大蜥蜴と「不老の魔術師」グエンとの不思議な共通点。


「ロディ様とナディーヌはなんだかんだ言いながら惹かれ合ったんだろうね。二人は協力して大蜥蜴を退治することにした。けれど、敵は強大で狼王と聖女の力を持ってしてもなかなか手が出せない。そこで、もう一人強力な助っ人が現れた。兄さん、誰だかわかってるだろぉ?」


 アンリは眼鏡を押し上げてノクトゥルを見た。


「——鳳凰帝クローヴィス陛下ですね」


 出来のいい生徒を持った教師のように、満足そうにノクトゥルは笑った。


「天翔族の軍事記録で、二〇年前のものだけないんです。失われた軍事記録。あれは、鳳凰帝が浮遊島を不在にしていた証拠の隠滅なのでしょう。父上は守護条約のないバルディアを密かに助けようと戦に参戦していたのでは? 父上なら狼王の正体も知った上で、協力を申し入れそうですよ」


 ジョゼはあっと口を押さえた。

 天宮で鳳凰帝の外征記録を調べたとき、整然と並んだ本の中でひとつだけ欠けた箇所が確かにあった。

 考えてみたらおかしかったのだ。

 面倒見が良く、情に厚い赤髪の帝が人間たちの苦境を放っておけるなんて……。

 

「くくく。冴えてるね、兄さん。その通りだよぉ。実際、ロディ様とクローヴィスは腹心の友となった。本来なら敵同士なはずなのにぃ、妙に気が合ってた。鳳凰帝も人間が好きだから話が合ったのかなぁ? ハスミン——兄さんの母親とクローヴィスがくっついたのもそのときだよぉ。ロディ様とナディーヌ、クローヴィスとハスミン。四人は本当に強かった。夢みたいな強さだった」


 ノクトゥルはうっとりとした表情になる。

 主に心酔しきっているこの妖魔は、一時的にでも仲間となった者たちにも、ある種の敬愛の情を持ち合わせているのかもしれなかった。


「四人は力を合わせて大蜥蜴を倒した。けど、話はそこで終わりじゃなかった」


 ノクトゥルの横顔が西日に照らされる。

 すでに西日が地平線にほど近くなってきていた。


「さてと、ここでグエンの話に移ろうか。あいつはナディーヌとハスミンにくっついて妖魔討伐に参加した傭兵だった。無口で無愛想だったけど、真面目で誠実な奴だった。ロディ様に振り回される僕に同情して、酒なんか持ってきてくれてさぁ……くくく」

「グエンと知り合いだったの……」

「あいつは元々は悪い人間じゃない。悪さをしているのは、奴に取り憑いている『何か』なんだよぉ」

「何か……って?」


 ノクトゥルの橙色の瞳が底光りするのを、ジョゼは恐ろしげな気持ちで見つめた。


「グエンが操ってたあの黒い邪気、覚えてるでしょぉ? 多分ねぇ、あれが本体」

「ええ……? 邪気がグエンを逆に操っているってこと?」


 ノクトゥルは舌なめずりした。


「大蜥蜴を倒したとき、奴の身体から黒煙のような黒いもやが立ち上った。それはあちこち移動したあと、グエンの近くで消えた」

「…………!」


 黒いもや。

 それはすなわち邪気、「不老の魔術師」の本体……?


「僕たちは何もわかってなかった。あのもやは宿主から宿主へと寄生を繰り返す病気みたいなものだってことをねぇ。大蜥蜴を倒して気を抜いたんだよぉ。ロディ様も特に気にしてなかったし、鳳凰帝も大蜥蜴が『不老の魔術師』の宿主だなんて気づいちゃいなかった。でも、ナディーヌは何かおかしいと思ったんだろうねぇ。その後突然姿を消したグエンのことをずっと気にかけていた」  


 ノクトゥルが目を伏せる。

 目の下の隈がよけいに際立って見えた。


「ロディ様はナディーヌを城へ連れ帰って、二人はそのまましばらく幸せに暮らしていた。クローヴィスは浮遊島へ帰った。あいつはハスミンが自分の子を身ごもってるって知らなかった間抜け野郎さぁ。どっちみち、あの女の性格じゃあ、天翔族の島になんて連れてったってうまくいくわけないからそれでよかったってロディ様は言ってたっけ」


 アンリは腕を組んで苦笑している。


「そして数年経って、ジョゼ……君が生まれた」


 まるで処刑宣言のような声色に、ジョゼの背中に緊張が走った。


「ナディーヌの聖女の力は出産と同時に消えた。グエンがそのときをいまかと待っていたことなんて、僕たちは知る由もなかった」

「…………!」

「そして、グエンは再び戻ってきた。人格は変貌し、右目と左手を失った姿でねぇ」

「大蜥蜴といい、グエンといい、なんで身体にそんな変化が生じるんでしょうか。——もしや、『贄』?」

「ご明察ぅ。僕もそう思う」


 アンリとノクトゥルが頷きあっているが、ジョゼには意味がわからない。

 

「なんなのよ、二人だけでわかりあっちゃって!」


 この間までは敵同士だったはずの男たちがなぜか旧友めきているのが不思議でならずに文句を投げつけると、アンリが振り返って説明を引き受ける。


「あの邪気が『不老の魔術師』の本体だとすると、おそらく常世のもの。宿主の身体の一部分を『贄』——つまり、それを引き換えにしてこの世に具現化しているんです」

「常世って……?」

「簡単に言うと死後の世界です。それが邪悪な意思を持ってこの世界に現れている……。天翔族が何度『不老の魔術師』を倒しても、再び蘇ってきたのはそのためでしょう」

「邪気が本体だと気づけなかったってこと?」

「はい。または邪気を常世に追い払っても、完全に消滅したわけではないのでまた戻ってきたという可能性もありますね」


 なんてことだ。

 それではいたちごっこではないか。

 ジョゼは躊躇いながらも訊いた。


「グエンが狼王を殺したの……?」


 ノクトゥルの気配が変わった。 

 怒りと悲しみが混じりあった気。

 無言の肯定を悟り、ジョゼの胸にも悲しみが落ちる。


「ロディ様とグエンは相打ちだった。ロディ様は倒れ、グエンは消えていった。けど、ロディ様はわかってたんだよぉ、グエンは死んでない、きっとまた戻ってくるって……。だから僕に、僕たちに命じた。『ナディーヌとジョゼを守れ』ってね。グエンの本当の狙いは聖女の力だから」

「なんで……?」

「それが唯一『不老の魔術師』を消滅させられる力だからさぁ。力で倒しても、また宿主を変えるだけ。奴を倒すには聖なる力が必要なんだよぉ。ナディーヌの聖なる力は君を産んだことで消えた。あとは君だけだ」

「わたしをどうしたいって……?」

「僕は最初、グエンは君を使い魔にしたいんだと思ってたんだけどね、そうじゃない。君を——宿主にしたいんだよぉ」


 ジョゼはぞっとした。

 冷気が満ちるように、身体が芯から冷たくなっていく。


「宿主にするってどうやって?」

「『不老の魔術師』の邪気は、誰にでも憑りつけるってわけじゃないらしいんだよねぇ。宿主になるには『素質』がいるんだよ。今の君にはそれがない。だから迷いの森で、グエンは君に人間を喰わせようとした」

「何それ? 宿主……? 素質……?」


 混乱するジョゼを優しく諭すように、ノクトゥルがあくまでも穏やかに続ける。


「考えてごらん、ジョゼ。狼の妖魔なのに、なぜ君が肉を食べないか。ただ単に好き嫌いの問題と思ってるかもしれないけど、そうじゃないよぉ。ナディーヌが君が子供の頃から徹底してからさぁ」

「……どういうことよ?」 

「肉の味をもともと知らなければ、食べたいと思わない。何かの拍子に間違って獣の肉……特にを口にしてしまうこともない。まあ随分と極端だけど、そう思ったらしいね」

「まさか……!」

 

 アンリが弾かれたように顔をあげた。

 馬車を振り返り、先ほどからこちらの様子を伺っていたメイメイを視認する。


「兄さん、わかったの? さすがだねぇ」

「思い当たるものがこれしかないってだけですけど……」


 こころなしか緊張したような表情を浮かべ、アンリが予想を口にする。


「もしかして、その『素質』とやらは……同胞を食したことがあるかってことなんじゃないですか?」

「えっ……」


 その言葉が意味するものを理解するまでに、静かな怖気がジョゼの背中に忍び寄る。

   

「迷いの森で、グエンはわたしに人肉を食べさせようとした……!」

「その通り。残された仲間たちで考えた結果、そうだという結論に至ったんだよぉ。大蜥蜴を倒したあと、黒いもやはあちこち移動していた。グエンを見つけたらまるで恋する相手を見つけたかのように一斉に奴の身体に入っていったよ。それで考えてみた。大蜥蜴とグエンの共通点ってなんだろうってね」


 素早く落ち着きを取り戻したアンリが問いかける。


「大蜥蜴は共食いが習性だったと?」

「そお。あとは消去法。ロディ様や僕は眷属は食べない。ナディーヌもハスミンももちろんなし。けど、グエンは人肉を喰ったことがあるって、以前酒を飲んだときに話してくれたからねぇ」


 メイメイが自身の口を押さえているのが目の端に映る。

 グエンの出身のイスファネアの穢人の村では、成人の儀で同胞の肉を食す——それが死人の魂を現世へと繋ぐ「魂の継承」という大切な行為だからだ。


 ——禁忌を冒す。

 それこそが宿主の素質。  


「グエンを倒すには、わたしの『聖女の力』を使うしかないってことね」

「そう。でも、ただ聖なる力を浴びせるだけじゃ駄目だよぉ。まずは完膚なきまでに叩きのめして、邪気が次の宿主を探してグエンの身体から離れたところを狙うのさぁ」


 アンリは唸った。


 何せ相手は天翔族の長である鳳凰帝に、大妖魔狼王ロディ、それに協力な女魔術師二人をもってしてようやく倒せた強敵なのだ。


「ここでよぉうやく本題!」


 ノクトゥルが勢いよく両手を合わせた。


「正直、ジョゼと兄さんだけじゃ心もとないよねぇ。僕はグエンの野郎に使い魔にされちゃってるから表立って協力できないしぃ。僕たちには強力な助っ人——クローヴィスが必要だよねぇ」

「あんた、居場所を知ってるの?」


 けけけ、と気味の悪い笑いをノクトゥルが発した。


「ハスミンの夢渡りの術、覚えてるぅ? クローヴィスも気に入ってよく使ってたみたいだけど。グエンに不意打ちされたクローヴィスは自分の身体共々、夢に逃げたんだよぉ。それからずーっと隠れてる」

「身体ごと、夢に……。誰の夢にですか?」 

「決まってるよぉ」


 ノクトゥルは長い爪を動かし、その先をぴたりとジョゼに向けた。

 

「えっ」


 ジョゼは思わず両手で自らの肩を抱いた。

 ベルメロ——鳳凰帝がジョゼの夢に隠れている? 


「なんか気色悪いんだけど……」 

「だよねぇ。でもそのおかげでグエンは今までクローヴィスに手出しできていない。さてと……ジョゼ、兄さん。もうあまり時間がない。グエンは力をつけてすぐに戻ってくる。その前に夢渡りの術でジョゼの夢に入るよぉ」


 予想もしていなかった言葉に、ジョゼの水色の瞳とアンリの金の瞳が見合わされる。

 

 自分の夢に入る?

 そんなことができるんだろうか。


「でも、どこで? 下手な場所じゃ襲われるかもしれないし。浮遊島に行ったりしたら、あんた天翔族に殺されちゃうわよ」


 ジョゼの心配はもっともだったが、ノクトゥルは平然として言った。


「なぁに、もっといい場所があるじゃん」

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