第33話 ノクトゥル再び

 馬車の窓から外をそっと覗くと、西日を受けて山の頂上の雪が朱く染まっていた。

 車内の沈黙を破ったのはメイメイだ。


「あの……さっきはすみませんデシタ! せっかくお祖父様とお会いできたのニ」

「いいのよ。話してみてわかったけど、やっぱりわたしは人間と相容れない気がしてきたし」

「そんナ……」

「そんなに仏頂面するもんじゃないですよ。ジョゼ。リシャード卿も今頃は言い過ぎたと思ってるかもしれません。セラン領って直情的な人が多いのかな。せっかちで、思ったことはなんでも口にする」


 取りなすように始めたアンリの言葉だが、最終的には苦笑に変わる。


「素直になれない不器用さと、頑固なほどの実直さ。なんとも愛すべき人格だと思いますけど」

「だからって何言ってもいいってわけじゃないでしょ? もうセランには行きたくないわ」

「そんなこと言ったらメイメイが気にするじゃないですか。また春になったら訪れてみましょう」

「もー、勝手に決めないで! だいたい春になったらわたしは……」


 ジョゼはそこで言葉を切った。

 春になったらもう自分はアンリの側にはいないのだ。

 けれどなぜかそうはっきり言いたくない。


「ジョゼ、そのことですけど……」


 アンリが何か言いかけたそのときだった。


「————!」


 ジョゼの耳がぴんと立ち、アンリが弾かれたように顔をあげた。


「妖気!」


 瞬間、急速に辺りに妖気が満ちた。

 大きな音がして、馬車が急に止まる。

 続いてどんどんという振動が馬車の屋根に響いた。


「この気……! ジョゼ、俺が先に出ます! メイメイをお願いします」

 

 ジョゼはすでに動いていた。

 馬車に積んであった弓矢を手に、メイメイの側に寄っている。


 三人は無言で目配せを交わし——アンリが勢いよく扉を蹴り開けた。


「ノクトゥル!」


 外に飛び出したアンリが翼を広げて空中に浮かぶ。

 すでに周りは吸血蝙蝠たちに囲まれていた。

 馬車の上にも横にも蝙蝠たちが張り付いている。

 

 そして飛び交う蝙蝠たちの中心にノクトゥルがいた。

 ジョゼは弓を引いたが、ふと異変に気づきその手を止める。


 攻撃してこようとしていない……?


「ジョゼ、久しぶりだねぇ。やっと浮遊島から出てきてくれたかぁ」


 蝙蝠の羽根を羽ばたかせ、ノクトゥルが地上に降り立つ。

 ジョゼは馬車から急いで降りると、声を張り上げてかつての友に対峙した。


「ノクトゥル! あんた、本当に『不老の魔術師』の使い魔にされちゃったの?」


 ノクトゥルは大げさな身振りで肩を竦めた。

 肯定を示され、ジョゼは呆れ顔になる。


「なんでそんなに間抜けなのよ!」


 ジョゼの言葉にムッとしたのか、ノクトゥルが不機嫌そうにジョゼを指差した。


「君だってあの兄さんの使い魔にされてるだろぉ。人のこと言えるぅ?」

「それは……元はと言えばあんたのせいじゃないの! こっちは首絞められて死にかけたんだからね!」


 ぎゃんぎゃんと悪口の応酬の体となった二人である。

 アンリは純白の翼をはためかせてジョゼの隣に降り立つと、頭をひとつ掻いた。


「あのー、ノクトゥル? それであなたは一体何しに来たんですか?」


 はたと動きを止めたノクトゥルは、咳払いをひとつするとにやりと笑った。


「決まってる。取り引きさぁ」

「……何が望みなの?」


 警戒心をむき出しにするジョゼだが、ノクトゥルは無言で鎖骨の辺りを開けて見せる。 

 そこにあったのは、赤い鎖の紋様。  

 使い魔の証である、血の契約であった。

  

 ノクトゥルは忌々しそうにそれを爪で引っ掻く。


「このくそ契約から僕を解放してほしい」

「それは……」

「ちょっと待ってください。望みはわかりましたが、取り引きするかどうかはその内容によります」


 アンリが前に進み出る。 

 すでにこの展開を予期していたのか、ノクトゥルは薄く笑った。


「もちろん手ぶらじゃないよ。お土産はグエンの野郎の倒し方……って言ったら?」


 アンリの脳内でもノクトゥルからの提案はいくつか予想していたのだが、その中でも一番良いものが来たのだろう。

 満足そうに頷いた。


「その話、詳しく聞きましょう」






 迷いの森の深部に棲まうノクトゥルのもとにグエンが現れたのは夏の終わりだ。


 最初はいつものように森で行き倒れている人間がいるだけかと思っていた。

 眷属の吸血蝙蝠たちに死肉を食べさせてやろうかとふらりと近づいた途端に、だまし討ちのような形で逆に襲われた。 

 気がついたときには強引に使い魔契約を結ばされてしまったというわけだ。


「それからあなたはグエンに逆らえずにいるわけですね。こんなところで俺たちと接触してて平気なんですか?」


 まずはノクトゥルから事情を聞かなければならない。

 慎重に問いかけるアンリに、ノクトゥルは口元を歪めた。  


「奴は今『狭間』と呼ばれるところに籠ってる。ジョゼに身体を焼かれたからこっちに気をやっている余裕はない。ま、それでもあまり時間はないよぉ。君たちと接触してるってばれたら僕は消滅させられるからねぇ」 

「使い魔にされたこと、なんでもっと早く話してくれなかったの!?」   


 ジョゼが非難の声をあげると、ノクトゥルが忌々しそうに手を振った。  

 何もない場所を平手で叩いたように見えたが、そこにぐにゃりと歪みが生じる。

 ノクトゥルがいつも空間を渡るときに使う術だ。

 

「この術って近距離しか移動はできないんだけど、空間を捻じ曲げてそこに潜んでいられる。あのくそ野郎がいつも僕のそばにいて聞き耳立ててたんだよぉ。僕は君を逃がそうと脅してみたり、君を捕らえるように命じられたときにも手抜きしてみたり、これでも融通効かせてあげてたんだけどぉ?」


 アンリがなるほどと頷いた。

 

「わざわざジョゼの生き肝を狙っているなんて脅すだけ脅して何もしなかった理由がそれだったんですね」

「何よそれ……! こっちはそれでどれだけ……」


 その先は言葉にならなかった。

 ノクトゥルがジョゼを狙うなど、きっと本意ではないと信じたかったけれど、これまで確信が持てなかったのだ。


 ノクトゥルがジョゼの頭に手を置く。 


「ごめんねぇ」

「……馬鹿!」


 下を向いて唇を噛むジョゼを、ノクトゥルはやれやれと見つめた。

 変わってないなぁ、と心の中で独りごちる。

 子供の頃から泣くのを我慢するときのジョゼの癖。

 

「……全部話して。そしたら……許してあげる」

「はいはい、わかりましたよぉ」


 ノクトゥルはジョゼの頭から手を離すと、回顧するかのようにしばし瞼を閉じる。

 やがて橙色の瞳がゆっくりと開かれると、そこにはいつになく真剣な眼差しがあった。

 ノクトゥルはジョゼをまっすぐに見つめ、恭しく跪いてみせる。


「我が主、狼王ロドルフォの愛娘ジョゼ。すべて君の望むままに」

「ノクトゥル……!? どういうこと?」

「あ……! そうか!」


 ジョゼの頭に大きな疑問符が浮かぶのと、アンリがなるほどと指を鳴らすのが同時だった。


「くくく、ガキのお守りは疲れるなぁ。兄さん、わかっちゃった?」


 ノクトゥルはお馴染みの薄笑いを素早く顔に張り付けると、あっさりと元の態度に戻る。


「あなたは狼王ロディの配下の妖魔だったんですね、ノクトゥル。ガロフで狼王が滅したときに配下たちは散り散りになったと聞いています。迷いの森にその大半が移り住んだと考えれば合点がいく」


 アンリの指摘に、「正解」とノクトゥルは手を叩いた。


「あのくそ野郎に森に棲む仲間たちを皆殺しにするって言われちゃってねぇ……仕方なく従ったのさぁ」

「不思議だったんですよ。迷いの森に暮らしながらも、ジョゼがなぜこれまで一度も妖魔に襲われたことがなかったのか……。半妖だからかなのかと思ってましたけど、そもそも皆仲間だったわけですね」

 

 ジョゼは水色の瞳を瞬かせた。

 マイア村の施療院で聞いた話が脳裏をよぎる。

 迷いの森は昔はなんの変哲もない普通の森だったのに、急に妖魔が出るようになったと……。

 

「……狼王の仲間が森にいるのなんて知らなかった。どうしてわたしの前に出てこないのよ?」

「君がいつ聖女の力に目覚めるかわからなかったからさぁ。格下の妖魔なんて危なくて近づけられやしない。代表で僕が君の側についてたんだよぉ。ナディーヌが生きてた頃は、それでももう少し交流があったかなぁ?」

「ママのこと、以前から知ってたのね。元聖女の身体を食べたかったなんて言ってたくせに」


 ひひひ、と忍び笑いがノクトゥルの口からもれる。


「そりゃあね、喰ってみたかったけどぉ。ナディーヌは聖女の力がなくても強かったからなぁ。それにあの女に手出ししたら冗談抜きでロディ様が常世から戻ってくるよぉ〜」


 気のせいか、母の話題が出るたびにノクトゥルは楽しそうだ。

 懐かしむような、それでいてどこか恋しがるような。


「全部、説明して。もちろん、グエンの倒し方も」

「いいよぉ、最初から始めようか」

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