第36話 夢の中へ

「ここは……」


 ジョゼは空中で目を開けた。

 すぐ目の前にノクトゥルがいる。


 眼下には街が広がっていた。

 所々崩れた日干し煉瓦の屋根と、塗装の剥げた建物が狭い路地にひしめいている。


 まるでできの悪い模型のようなごみごみとした造りには見覚えがあった。

 ここはジョゼとアンリが幼少をともに過ごした思い出の街。

 

「バルディアの王都よ! ママと住んでた下町だわ」

「本当だねぇ。変わってないなぁ……って夢だから当たり前かぁ」

「……? なんであんたが懐かしがるのよ」

「秘密」


 訝しがるジョゼには答えず、ノクトゥルはくくっと笑った。


「ここってわたしの夢の中なのよね? いつもと随分様子が違うわ」

「クローヴィスの影響があるのかなぁ? あいつの夢にも引きずられてるみたい」


 自分と鳳凰帝の夢が重なり合う場所ということか。

 風景に目を奪われはしたが、ここに来た本来の目的を忘れたわけではない。

 ジョゼは口の横に手を当てると、すうっと息を吸い込んだ。


「ベルメロー! 出てきなさいよ!」


 呼びかける声が波紋となり、さざ波のように空に広がっていく。

 だが、何の反応もない。

 ジョゼは舌打ちすると、今度はもっと大きく息を吸い込む。


「この変態夢魔ー! 勝手に人の夢の中に入り込んでないで、さっさと出てこぉーい!!」


 すると、近くで馴染みのある気配が弾けた。


「こらぁ! 人聞きの悪いこと言うなって! 夢魔じゃないって何度も言ってるだろ!?」

 

 そこに現れたのは燃えさかる炎のような髪の色をした男。 

 世界の守護者である天翔族の長、鳳凰帝クローヴィス。


 クローヴィスは人を食ったようなふてぶてしい態度のままに、にやりと笑みを投げかけてくる。


「よお、久しぶりだなぁ」


 その挨拶はジョゼではなく、隣にいたノクトゥルに向けられたものだ。


「その図々しい態度が懐かしいよ。君は本当に相変わらずだねぇ」

「てっきり愚息アンリが来るかと思ったのになぁ。なんでお前が来るんだよ?」


 ノクトゥルは憮然とした表情になると、鎖骨をぐるりと囲む赤い鎖の文様をクローヴィスに見せる。

 使い魔の証にクローヴィスが盛大に鼻白んだ。

 

「間抜け。あの野郎の使い魔なんかにされてどうする」

「五月蝿い。ジョゼの夢にこそこそ隠れてる君に言われたくないなぁ」


 二〇年前から腐れ縁の二人である。

 身分を隠して妖魔討伐に加わったクローヴィスに、狼王ロディの腹心だったノクトゥル。

 ノクトゥルにとっては、鳳凰帝は主の盟友であった男だが、だからといって決して仲が良いわけではないようだ。

 男たちの間に不穏な空気が漂い始めるのをジョゼが割って入った。


「ちょっと、喧嘩してる場合じゃないでしょ! ベルメロ、あんたのこと皆探してるのよ。さっさと出てきなさいよ。それとも鳳凰帝クローヴィスって呼んだほうがいいのかしら?」


 鳳凰帝の失踪騒ぎで天翔族は上へ下への大混乱なのだ。

 クローヴィスは舌を出した。


「ばれちまったか」

「ばれちまったかじゃないでしょ! だいたいなんでわたしの夢に? 隠れるだけなら誰の夢でもよかったじゃないの!」

「悪い。お前さんの夢にちょくちょく邪魔してたから、もともと道が繋がってたんだよな。出ていこうと思えばいつでもできたんだが、お前さんの夢の中が存外心地よくて……」

「きもっ! 気色悪っ! 勝手に人の夢を使わないで!」

「そう言うなって」


 耳の毛を逆立てるジョゼに、クローヴィスは楽しそうに笑顔を向けた。

 

「呼び方はそのままでいいぜ。お前さんが俺をベルメロ《赤》って呼んだときは驚いたよ。俺をそう呼ぶのはロディだけだったからさ」

「笑ったって誤魔化されないわよ。ベルメロ、あんた……わたしの両親を知ってたなら教えてくれてもよかったじゃない。……あんたもよ、ノクトゥル」

 

 水色の瞳がじろりと男たちを睨みつける。 

 言おうと思えばこれまでに何度も機会はあったはずだ。

 ノクトゥルは無言になったが、クローヴィスには悪びれる様子はない。


「ナディーヌの意思を尊重したんだよ。何も知らせず、ただのびのびとお前さんを育てたかった。来な、いいものを見せてやる」


 ベルメロがこちらに手を伸ばした。

 その手を取る。

 毒食わば、皿までだ。


 ベルメロの大きな手に触れた瞬間、場面が移動した。

 そこは古くて狭いけれど、隅々まで手入れの行き届いた民家の一室だった。


「ここ、見覚えがあるわ……」

「お前さんたちが暮らしていた家だ。ほら、あそこを見てみろよ」

 

 ジョゼは、息が止まりそうになるほど驚いた。

 丸いテーブルに腰かけてにこにこと微笑んでいたのはナディーヌとハスミンだったからだ。


「っ、ママ! ハスミンおばさん!」


 駆け寄ろうとするジョゼをクローヴィスが止める。


「これは夢だ。お前さんの中にある思い出の一場面に過ぎない。ナディーヌに手を触れるなよ。触れた瞬間に消えちまうぜ」

「っ……!」


 よく見ると、ナディーヌもハスミンもぴたりと動きを止めていて、まるで時が止まったように静かで無機質だった。

 

「ジョゼ、見てごらんよぉ。彼女たちが何をしているか」


 ノクトゥルに言われ、ジョゼは母たちに触れないようにそっと観察した。 

 二人は庭先を見ている。 

 狭い家だったけれど、住人が共用で使える庭がついていたことを思い出す。

 視線の先にいたのは、外遊びに興じる幼い頃のジョゼとアンリだった。

 泥んこになりながら屈託なく笑い合う自分たちと、お喋りをしながらそれを見守っている母たち。

 ありふれた日常の一場面。

 その途方もない懐かしさに、ジョゼの胸に熱いものがこみ上げてくる。


「……セランでまだ赤ん坊だったジョゼが始末されそうになって、ナディーヌが逃げた先がバルディアの王都の下町だったんだぁ。ハスミンが一足先にアンリと下町に住んでたからね。親友同士だった二人は一緒に子育てすることにしたんだよぉ。一人は半妖の子、もう一人は半天翔族の子。子供たちには変化の術をかけてね。父親がいなくとも、少々変わり者だろうと誰も気に留めない下町でなら、それが可能だった」


 ノクトゥルが目を細めて母たちを見つめた。

 クローヴィスが言葉を繋ぐようにその後を続ける。


「ナディーヌもハスミンも、子供たちには自由闊達に過ごさせてやりたい、ただその一心だった。お前さんもアンリも、いずれ妖魔の力や天翔族の力に目覚めることはわかってた。そのときには二人の道が分かたれるかもしれないことも。それまでの短い時間でもいい。異種族でも友情や愛情を育むことができるってことを教えたかったんだよ」

「迷いの森に住んだのは……」

「異種族を異種族たらしめるものは周りの社会っていうのがよくわかったからさ。ジョゼが半妖だとばれてしまったときの人間たちの反応が激しかったことにナディーヌはショックを受けた。それで今度はジョゼをできるだけ人里から離してやっていけるかどうか試そうとした。ナディーヌって本当に極端だったから。迷惑かけたくないってハスミンにも行き先は告げなかったし、クローヴィスの助けもいらないって住処には結界を施すし。頑固だったよねぇ、彼女って」


 次々と新たにもたらされる情報に翻弄されつつも、ジョゼの中での母の姿がまた新しく変わっていく。

 

「ジョゼ、お前さんは半妖の聖女だ。天翔族でも、妖魔でも、人間でも、お前さんの真の力を知れば誰でも欲しがる」


 中途半端で危険な存在。

 すべての力に通じ、そのすべてから異端となる。

 クローヴィスの言葉に、この世界に自分だけしかいないような、ひどく孤独な気分に襲われる。


 下を向きそうになったそのとき、よく通る声が響いた。

 

「そんなことさせませんよ。ジョゼは俺のです」

 

 いつの間にかアンリが腕組みをしてそこに立っていた。


「アンリ!? どうして……」

「リシャード卿が万全の警護を整えてくれました。心配だから俺にも夢に入ってほしいって言ってね。さ、あまり時間がありません。こんなおじさんたちはもう放っておいて帰りましょう」 

「おい、アンリ……」

「ちょっとぉ、兄さん」


 クローヴィスとノクトゥルが非難めいた視線を向けるのにも構わず、アンリはジョゼをそばに引き寄せた。


 手を重ねられ、泣きたい気持ちが急速に影を潜めていく。

 ぎゅっと握るその手の強さから、彼がジョゼを心配していることが伝わってきて、心がぐっと温かくなる。


 アンリがいなかったことがすごく不安だったことに今さらながら気がつく。

 知らぬ間に頼りにしていたのだ。

 いつも自分の側にいてくれる存在として……。


 ジョゼはアンリの肩に頭をつけた。

 

「最初っから一緒に来なさいよ、馬鹿……」

「……すみません」


 アンリはちょっと驚いたような顔になったが、すぐに微笑んだ。

 だが優しい顔を引っ込めるとクローヴィスとノクトゥルに向き合う。


「なんなんですか、大の大人が雁首揃えて過去のことをうだうだと……。『不老の魔術師』はまだ健在です。まずは奴を倒すのが先では?」

「お前、なんか怒ってないか?」

「……父上。あなたはわざと雲隠れしましたね。俺たち皇子があなたなしでどんな行動をするのか見たかったんでしょう。そのおかげで俺は兄たちに散々仕事を押しつけられて大変だったんですよ。子の成長を思えばこそなんでしょうが、回りくどすぎます。さっさとジョゼの夢から出てってください」

 

 ずばりと指摘されてクローヴィスがうっと言葉に詰まった。

 アンリは今度はノクトゥルに対峙する。

 父に相対していたときとは異なり、その眼には楽しそうな笑みが浮かんでいた。


「帰る前にもうひとつ。ここに来てやっとわかったことがあります」

「あはは。兄さんにはもしかしてばれてる? 本当に聡いねぇ」

「おかげさまで。あなたが最初から手がかりを提示していましたからね」


 ずっと不思議だった。

 ノクトゥルが迷いの森でアンリを知っているような素振りを見せたこと。

 二〇年前の妖魔討伐のあと、ロディが滅してからもノクトゥルはずっとずっとナディーヌとジョゼを守ってきたのだ。

 そう、下町においてもまた——。


「あなたは变化の術で人間に姿を変えて、そばにいたんですね」


 くくく、とノクトゥルは笑いをもらした。

 唐突にぐにゃりと身体が歪んだかと思うと、人の良さそうな男の姿に变化する。 

 その人には見覚えがあった。

 ジョゼやアンリの家にしょっちゅう顔を出していた、面倒見のいい……。


「……あなたは、ベンジャミンおじさん!? の、ノクトゥルだったの?」

「そうだよ。子供の頃はジョゼもアンリも僕がそばにいても全然気づかなかった。二人とも僕がおしめを替えてやったこともあるんだよぉ〜、くっくっく」


 わざと言っているのだろうと思いつつも、ジョゼは顔を赤くした。

 アンリも照れた顔を隠すように眼鏡を押し上げた。


「狼王ロディ亡き後、あなたはずっと母たちの側にいて守ってくれていた。……ありがとうございました」

「なんの。主に命じられたことを実行したにすぎないよぉ。クローヴィスは鳳凰帝としての責務があるから、ジョゼやアンリを表立って守ることはできないだろうって、ロディ様はわかってたからねぇ」


 クローヴィスは苦虫を噛み潰したような顔になる。

 二〇年前、妖魔討伐に勝手に参加したあげくに大妖魔の狼王ロドルフォの盟友となったのだ。

 その後、事情を知る者には妖魔と馴れ合っていると糾弾されもした。

 天翔族と妖魔は。どこまでいっても交わることのない平行線。

 自分はそれをわずかに弛めることしかできなかった。


「言い訳はできねぇな。俺はハスミンにも逃げられちまったし、ナディーヌのこともジョゼのことも堂々と守ってやれなかった、情けない男だ」


 クローヴィスは己の手を見た。

 すでにその手からは多くのものがすり抜けていってしまったように思えた。

 

「お前はどうなんだ、アンリ。——その手で大切なものを——ジョゼを守ることができるのか?」

 

 クローヴィスはアンリを見た。

 かつて愛した女の面影を色濃く残す息子。


 妖魔と慣れ合っていると咎められたところで、クローヴィスは歯牙にもかけなかった。

 天翔族をまとめるのに必要なのは圧倒的な武力だ。

 自分にはそれがある。


 しかし、アンリはどうか。


 ほかの皇子たちは多少短絡的なところはあるが、強さを追い求める貪欲さがある。

 クローヴィスの目から見て、アンリにはそのがむしゃらさが欠けているように思えるのだ。


 だが、アンリは落ち着いて笑みを浮かべた。

 

「ええ、もちろん。俺のやり方で、ですけどね」

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