第38話 春風

「ふぅ、これでおしまいっ……と!」


 ジョゼは顔をあげた。

 整然と植え付けられた薬草を一瞥すると、満足そうに頷いて立ち上がる。


「ジョゼ! そろそろお昼にしますヨ〜!」


 メイメイの呼び声がちょうどよくかかる。

 薬草園の小屋の前まで戻ると、ファビオがテーブルと椅子を外に並べ、メイメイが料理を出すのを手伝っていた。 


「今日はいい天気だ……」

「せっかくだから外で食べようって言ってたんデス!」


 麦わら帽子を被ったミーシャ老人がにこにこしながら小屋から出てくる。

 ジョゼは身体についた泥を簡単に払ってからテーブルについた。


「ミーシャおじいさん、キーロもクロピアも植え替えはほとんど終わったわよ。もうすぐ春だし、そろそろ種まきしちゃってもいいかも」

「それはそれは、ありがとうございました。畑を休ませないで連続して植えても構わないので?」

「作物とは違うし、肥料をきちんとあげれば大丈夫よ。耕さないでそのまま植えてもいいのは、これとこれと……」

 

 「不老の魔術師」グエンとの対決を終えて浮遊島に戻ったジョゼは、冬の間中薬草園に足を運んでいた。

 昼食の席でミーシャ老人と薬草談義に突入するのがここのところのお決まりの流れだ。


「そういえばアンリ殿下がそろそろご帰還されると小耳に挟んだのですが……」

「ワオ! ミーシャおじいさんって情報通ですネ!」

「ほ、ほ。年の功ですな。なんでも妖魔との交渉を進めていらっしゃるとか」


 そうなのだ。

 妖魔と不可侵条約を結ぶというアンリの提案は、水面下で着々と進んでいた。

 準備のためにアンリは浮遊島をしょっちゅう留守にしていて、ジョゼはもう三月も彼を見ていない。


「ミーシャおじいさんったらなんで知ってるの?」


 今はまだ、アンリとノクトゥルだけで内々に計画している段階のはずだ。

 ジョゼが首を傾げていると、天宮の方角から誰かが飛んでくる。


「……ひえぇ! あ、あれハ……!」


 メイメイとファビオはたちまち畏まる。

 地上に降り立ったのは、鳳凰帝クローヴィスに近衛軍のヒュベルト。

 ジョゼはナプキンで口を拭うと訪問者たちをちらりと一瞥した。


「何しに来たの?」

「そうつれなくするなよ、ジョゼ。今日はそっちのじじいに用があってきただけだ」


 クローヴィスはジョゼたちへの挨拶もそこそこに、ミーシャ老人の前に進み出る。


「よお、畑仕事に精が出るな。そろそろ天宮に帰って来ないか、ミハイル?」


 どこかで聞いたような名だ。

 するとヒュベルトが老人に対して勢いよく跪いたのでジョゼたちは目を剝いた。


「お迎えにあがりました、ミハイル宰相閣下」

「ミハイル宰相!?」 


 麦わら帽子を被り直すミーシャ老人を、ジョゼたちは呆然として見つめた。

 浮遊島でのアンリの役職は宰相補佐だ。

 つまりミーシャ老人はアンリの上司にあたる。


 確か身体の具合がよくないと聞いた気がするのだが、老人はどう見ても健康そのものだ。

 腰も曲がっておらず毎日元気に畑仕事に性を出している。


「……身体の具合が悪いんじゃなかった?」

「いやはや、寄る年波に勝てませんでな。そろそろ後進に道を譲ろうかと思っていたところですじゃ」

「はあ……」


 ミーシャ老人の白々しい主張に頷く者はいなかった。


「ドリューゲルトの馬鹿がお前を突き飛ばしたそうだな。あいつは近衛軍の任を解かれた。来季の妖魔討伐では一兵卒として前線送りにする」

「ほ、ほ。彼の方では生き残れないやもわかりませんが……」

「そうであれば、それまでの男だったということ」


 一同の背筋がひやっとする。

 クローヴィスの息子たちに対する厳しさは、獅子が我が子を千尋の谷に落とすという東方の逸話を連想させる。


 さらにゾフィー皇女はほとぼりが冷めるまで蟄居を命じられたらしく、ヒュベルトはお守りの任を解かれてご満悦だ。


 ミーシャはそれを当然とばかりに微笑んだ。


「これまで陛下は少々皇子殿下たちを甘やかしすぎましたからな。アンリ殿下は例外のようですが……」


 アンリであれば甘やかそうとしてもそれを良しとしないだろう。

 クローヴィスはまんざらでもない様子で笑うと、今度はジョゼに向き直った。


「あいつ、帰ってきてるぜ」


 それが誰かは明白だった。

 アンリが帰ってきた……!

 尻尾が震えそうになるのを必死に抑えていると、ヒュベルトが神妙な顔で口を開く。


「実は悪い報せが。急いだほうがいい、ジョゼちゃん。アンリ殿下は大怪我を……」

「っ! それを早く言いなさいよ!」


 言うなり走り出す。

 高波のような不安がジョゼの心に押し寄せていた。



 ジョゼが風のように走り去って行ったあと、クローヴィスははて、と首を傾げた。


「おい、ヒュベルト。俺はアンリの奴が怪我したなんて報告を受けちゃいないがな」

「そうですね。俺は『大怪我をしたかもしれない夢を見た』と言いたかっただけです」

 

 表情ひとつ変えずにそんなことを言う。

 ミーシャ老人が高らかに笑う中、メイメイとファビオは、高貴な人々が一体何を考えているのかわからずに目を見合わせるのみだった。





 

 久しぶりに屋敷に戻って来たアンリは、執務室の机に積まれた書類の山を見て辟易していた。

 一番上の書類に手を伸ばしたところで、ジョゼが風のように飛び込んでくる。


「アンリ!!」

「ジョゼ! ただいま戻りました……って、わぁ!」


 ジョゼに勢いよく飛びつかれて、驚いたアンリの手から書類がばさばさと落ちていく。


「け、怪我は……!?」


 薬草園から一度も休むことなくアンリの屋敷まで駆け戻ったため、ジョゼの息は切れ切れだった。

 心配が高じて泣きそうになりながら聞いているのに、アンリは「へ?」と気の抜けた声を出す。

 ジョゼも「え?」と聞き返した。


「怪我なんてしてませんけど……」

「え、だってヒュベルトが……」


 そこまで言ってはたと思い当たる。

 いたずら好きのあの男のことだ。

 ジョゼを慌てさせようと嘘を吐いたのに違いなかった。


「ばっ……馬鹿! アンリの馬鹿!」

「ええええ!? 帰ってきていきなりそれですか?」

 

 途端に情けなそうな顔になるアンリだが、ジョゼの顔が真っ赤になっているのに気づくと苦笑する。


「……ジョゼ。俺のこと心配してくれたんですか?」

「……してない!」


 そっぽを向いてアンリのほうを見ようとしないジョゼが、たまらなく愛おしい。


「怪我したと思って、駆けてきてくれたんですよね?」

「そんなことない! アンリなんかもう知らない……!」


 アンリは「はいはい」と返事をして、肩を怒らせるジョゼを後ろからそっと抱きしめようとした。

 けれど、勘違いをした恥ずかしさに耐えられず、ジョゼはその手を振り払い逃げようとする。


「逃げちゃ駄目です」


 部屋を飛び出そうとしたジョゼを、アンリはあっさり捕まえてしまう。

 身体ごと壁に押し付けられ、手の指と指が絡み合うようしっかりと握られる。


「……離して」

「誰が離しますか。こっちは三月もあなたに会えなかったんですからね。飛んで火にいるなんとやらです」


 アンリの指から伝わってくる温かさにどきっとしてしまう。

 手を離したいけれど、ぎゅっと握られていてはそれもできない。

 気が張り詰めすぎて、逆にだんだん力が抜けてきてしまう。


「ジョゼ……」

  

 身体を寄せられ、ジョゼの心臓は弾けそうになる——。


「アーンリ殿下! お帰りなさーい!」

「————っ!?」


 執務室の扉が音を立てて開かれたのはそのときだ。


 ジョゼは耳の毛を逆立てて飛び退る。


 扉の向こうには、にやけ顔のヒュベルトが立っていた。

 さらに後ろに隠れるようにしてメイメイとファビオ、そして呆れたような顔のクローヴィスと、苦笑をかみ殺したミーシャ老人までいる。


「おいおいなんだぁ!? ジョゼを追って来てみたら……。おっとすまんアンリ、取り込み中だったか?」

「見てわかりませんか? はー、もう……」


 クローヴィスのわざとらしい演技にアンリは心底うんざりした。

 名残惜しそうに視線を向けてくるが、すでにジョゼは大きく距離を取っている。


 アンリは仕方なく仕事用の顔になると、クローヴィスの前に跪いた。


「陛下、ただいま帰還いたしました」

「おう、報告は受けてたぜ。で、どうだった?」

「ノクトゥルはすでに迷いの森と周辺の妖魔たちを掌握しました。狼王ロディの元配下たちは当初は俺の提案を狂人の戯言と思っていましたが、時間をかけて対話を続けるうちに少しずつ興味を持ってくれています」

「そうか……。成りそうか?」

「可能性はあると思います。時間はそれなりにかかると思いますが……」


 クローヴィスは満足気に頷いた。

 一日にして成らないのは織り込みずみだ。


「それで来季の妖魔討伐はどうなさる、アンリ殿下?」


 ミーシャ老人の麦わら帽子姿に若干戸惑いつつも、アンリは口を開いた。


「妖魔討伐は引き続き行います」

「ですが、妖魔の国興しを手伝うと言ったその口で妖魔を討伐なさると?」

「従来どおり前線の指揮は兄皇子殿下たちにお任せします。俺は戦闘要員じゃないので、さほど妖魔の恨みを買ってないんですよね。妖魔との交渉を担当しても『お前誰?』って感じでしたよー」

 

 だから平気じゃないでしょうかとにこやかに言うアンリに、ミーシャ老人は驚きの目を向ける。


「なんと……。これまで前線に出なかったのは、かねてからこの状況を見越されていたのですかな?」

「いやー、俺は弱いんで。たまたまそうなっただけですよ」

 

 嘘つけ、とその場にいた誰もが思った。


「あ……春風……」


 開け放たれた窓から一陣の風が舞い込んでくる。

  

 柔らかく、ほんのりと暖かな風が春の訪れを告げていた。

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