第39話 恋の訪れは紅い実とともに

 ジョゼが浮遊島にいるのは冬の間だけという約束だ。

 地上では春の訪れとともに清涼な雪解け水が川に流れ込んでいるとの報せに、ジョゼは明日迷いの森に向けて発つと決めた。


「ジョゼ、本当に行ってしまうんですカ? ずっと浮遊島にいればいいノニ……」


 いつものように皆で夕食を食べ終えた後、メイメイがティーポットからお茶を注ぎながら名残惜しそうに言った。


 ジョゼも本当は後ろ髪を引かれる。

 でも、と思い直す。


 迷いの森には母の墓があるし、焼かれてしまった隠れ家の様子も見に行きたい。

 それに、狼王ロドルフォの配下の妖魔たちに会って父の話を聞いてみたかった。


「……帰るわ。ノクトゥルが待ってると思うから」

「セランからも手紙が来ていたみたいですケド……ジョゼ、もしや引っ張りだこですカ!?」    


 リシャード卿からは頻繁に手紙が届いている。

 どれも、セラン領をまた訪れてほしいという内容だ。


「ジョゼちゃんは人気者だね。浮遊島でも引き止められ、妖魔の友人も、人間の祖父も、皆が君を心待ちにしている。でもアンリ殿下は君の出立を許すかな?」


 揶揄するような発言はお茶を飲みに来ていたヒュベルトだ。

 ジョゼは自身の胸に視線を走らせると長い溜息を落とした。


「使い魔の契約は結局そのままなのよね……」


 そう、ジョゼはアンリとクローヴィスにまんまと丸め込まれてしまったのだ。


 ジョゼの力は今、微妙なバランスの上に成り立っている。

 聖女の力、妖魔の力、人間の力、そしてアンリの天翔族としての力が好反応を起こして、なんとかうまく力が回っている状態なのだ。

 もしも使い魔契約を解除してしまえば、残りの力が反発し合う可能性があると滾々と諭されたというわけだった。


 そのアンリはこの場にはいない。

 不在にしていた間の仕事が大量に溜まっているらしく、ここのところ執務室に籠もりきりになっている。


 明日は早朝に出発したい。

 今のうちに挨拶をしておくべきかもしれないと考えを巡らせていると、ファビオが大きな皿を片手に部屋に入ってきた。


「おい……ドゥラスで……タルトを作ってみたぞ」

「うワー、オイシそう!」


 つややかで真っ赤なタルトが目の前に置かれる。

 切り分けて一口食べてみると、シロップでコーティングされた甘酸っぱいドゥラスの果実とまろやかなカスタードクリームの甘みが口の中に広がる。


 生地はサクサクとしていてバターの風味豊か。

 それが口の中でホロッとほどけるのが格別だ。

 あまりの美味しさに、ジョゼとメイメイは二人して目を丸くして顔を見合わせた。


「…………! こんな美味しいタルト食べたの初めて……!」

「はい……! ドゥラスって酸っぱいから苦手だったんですケド、このタルトはすごく美味しいデス!! ファビオさん、アンリ様にも取っといてあげてくだサイ!」

「ふふ、アンリって小さい頃から甘い物が好きだったわ」

「……そう……思う。よく……頼まれる。作ってくれって」

 

 甘いものを食べて幸せそうにするアンリを想像して、なんとなく胸がほっこりしてしまう。

 だが、次の瞬間はっとなってぶんぶんと頭を振った。

 今のはなしにしよう。

 アンリが甘いものを好きだろうが嫌いだろうが、自分にはどうでもいいはずだ。


「あと……アンリ殿下……は酒も好きだ。そうだ、ドゥラス酒を……仕込んである。青い実を漬け込んで作る果実酒……。美味いぞ、飲むか?」

「え! 飲みたいわ!」


 甘い物ももちろん好きだが、ドゥラスの果実酒などという珍しいものを試さないわけにはいかない。

 青い実を漬け込んだ酒には色がなく、ファビオは細長いフルートグラスに透明の液体を注いだ。

 メイメイが好奇心に目を輝かせる。


「いいですネ〜。私でも飲めますかネ?」 

「……子供は……やめとけ……」

「エー、ずるいデス! ジョゼと私じゃ、そんなに歳変わらないじゃないですカ」


 頬を膨らませるメイメイに、ファビオが微妙な視線を向ける。


「ドゥラス酒は……ガロフでは……『恋の薬』って呼ばれている」 

「『恋の薬』?」

「よく……わからんが、そう……伝えられてる。意中の相手とその酒を酌み交わすと恋人になれるとかなんとか……。お前さんには早いだろ……」


 ファビオによると、ガロフではドゥラスは珍しい果物ではないらしい。


「ドゥラスってガロフが原産なのかしら?」

「おそらく……。ガロフでは……人間から妖魔まで食べる……と言われてる」

「興味深いわね」

「ただの逸話だがな……実際は弱い酒だぞ……。ガロフでは、満月の晩に飲むと……されている」

「満月って今日ですネ! アンリ様がその話を知ったら、何がなんでもジョゼとドゥラス酒を飲みたがりそうデス!」


 うっとジョゼは怯んだ。


 大切な幼馴染であり、いつも自分を助けてくれるアンリ。

 やたらと自分をかまいつけてくるけれど、きっとそれは恋なんかじゃない……と思う。

 

 面倒見の良い彼が、偶然が重なって使い魔にしてしまったジョゼに責任を感じてやたらと気にかけてくれているだけ。 

 きっとそうだ。

 

 だいたい、明日には浮遊島を去るのだ。

 恋の酒とやらを酌み交わしたところでどうにかなるとは思えないが、面倒事は避けておくべきだろう。

 

「……わたしもやめておくわ」


 アンリに対する色々な感情がない混ぜになって、どうにも奇妙な顔になってしまうジョゼである。

 

(アンリはただ優しいだけだもの。変な勘違いをしないように気をつけなきゃ……)


 ドゥラスのタルトの残りをメイメイと一緒に頬張っていると、奇妙なことに気がつく。

 口を押さえているとファビオが心配そうに訊ねてくる。


「どうした……。不味いのか? 味がどこか変か?」

「えっ、ううん。すごく美味しい。でも、なんだかさっきよりすごく甘いなぁって」

「エー? そうですかァ? 甘いというより酸っぱいですヨ」


 そうよね、と言いつつジョゼはタルトの上のドゥラスだけを食べてみる。


 やっぱり甘い。

 一口目を食べたときにはかなり甘酸っぱいと思ったのに、今はとろけるような甘さしか感じない。

 それに先ほどから真っ赤な果実が妖しげにきらめいているように見えるのは気のせいだろうか。


 味覚の変化に戸惑いつつも、ジョゼの手は止まらなかった。

 まるで何かの中毒になってしまったかのようにドゥラスの実が美味しくてたまらない。


「おい、嬢ちゃん! どうした?」

「ジョゼ、大丈夫ですか? なんだか顔が赤いみたいですヨ!」

「…………え?」


 言われて顔に触れると、確かに頬が熱い。


「あ……。あんまり美味しかったから食べ過ぎちゃったみたい。もうやめておくわ。ごちそうさま、ファビオ」

 

 なんだか自分が自分でなくなってしまったような不思議な感覚だった。

 水を飲もうと近くにあったグラスを手に取し、中の液体を一気に飲み干した。


「……っ! これって……」


 あんまり慌てていたからか、間違えてドゥラス酒を飲んでしまった。

 途端にかっと身体が熱くなる。

 

「おい、ここにあった酒、飲んじまったのか……?」

  

 ファビオが心配そうにしているので、ジョゼはつい強がってみせる。


「だ、大丈夫よ。ちょっと暑くない? 窓、開けましょうか」


 窓辺に寄ってカーテンを開けたとき、大きな満月が目に飛び込んできた。


(あ、あれ……? なんだか身体がもっと熱くなってきたような……)


 慌てて窓辺から離れたジョゼにメイメイが明るい声で提案する。


「そうだ、ジョゼ。せっかくだからアンリ様に一切れ持って行ってあげたらどうですカ?」

「あ……そうね。ついでに挨拶もしてくる。明日の朝は早くに出立するから」


 つとめて冷静を装いつつ、皿に取り分けられたタルトを受け取る。

 身体の変調に一抹の不安を覚えながらも、ジョゼはアンリの執務室に向かった。

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