第40話 甘い香りに惹かれて

 日が落ちてきたことに気がつき、アンリは顔をあげた。

 執務室は暗くなってきていて、もう書類の文字が読みづらい。

 手燭の灯りを用意しようとしたところで、カタッと小さな音が聞こえた。

 

「……ジョゼ?」


 いつの間にか、扉のそばにひっそりとジョゼが佇んでいた。


「どうしたんです? 声をかけてくれればよかったのに」

「……仕事中に邪魔しちゃ悪いと思って」


 ジョゼははい、とアンリの手にタルトが載った皿を押しつけた。

 

「おー、わざわざすみません。ちょうど甘い物が食べたい気分でした……ん? なんだかすごく甘い香りがしますね」


 アンリは鼻を動かした。

 タルトの香りではない。

 ケーキなんかよりももっとずっと甘い——とろけるような香りがどこからか漂ってくる。


「あれ……? なんだか顔、赤くないですか?」


 暗がりでよくわからなかったが、ジョゼの様子がおかしい。

 もしや風邪でもひいたのかとおでこに手を伸ばすと、ジョゼは飛びすさった。


「今、わたしに触っちゃだめ!」

「ええ? なんでですか?」

「……いいから! あのね、アンリ。わたし明日迷いの森に帰ることにしたから。今までありがとう。それだけ!」

「えっ、明日!? ちょっと待ってください!」


 アンリは慌ててジョゼの腕を掴んで引き寄せる。

 その途端、甘い香りがぶわっと部屋中に満ちた。 

 

「っ! この香り……あなたですか? どうしちゃったんですか」

「わかんないの……。さっきから身体が熱くて……胸も苦しい」


 アンリはどきっとした。

 薄闇の中、ジョゼの瞳が妖しく光っている。


「そのタルトを食べてからなんかおかしくて……。間違えてお酒も飲んじゃったし」

「お酒!? ジョゼ、酔っぱらってるんですか?」

「違う……。もっと、まずいことになっちゃったのかも……」

「どうしたんですか!?」


 ジョゼの本能が告げている。

 そのときが来たと。


「その……来ちゃったみたい。発情期が……」


 アンリはぴしりと固まった。

 年若き宰相補佐の頭は真っ白になる。


「なななななんでですか!?」

「たぶん……ドゥラスの実……? いえっ……ちがうわね。きっとぉ、あのおしゃけ……?」

「……!」


 呂律が回っていないジョゼが無防備すぎて、アンリは気が狂いそうになった。

 脳内に「おしゃけ」という舌足らずの声がわんわんと反響する。


 その間にも甘美な芳香が室内に充満していく。

 アンリは、自分の内から情欲が沸きあがってきていることに気がついた。

 

 気を抜いたらすぐに理性が吹き飛ばされてしまいそうだ。

 まるで花の蜜に引き寄せられる蜂のように、雌の甘い香りが雄を狂わせる。


「……アンリ」

「だだだだめです、結婚前の男女がふしだらなことをしては! そういう行為はですね、しかるべき手順をもってしかるべき時にされなければ……!」

「ば、馬鹿! 誰もそんなこと言ってないでしょ! もういい。誰か、別の人のところに行くから……」


 ジョゼはアンリの手を振り払おうとした——が、逆に思い切り引っ張られる。


「——それは絶対だめです」

「っ……!」


 アンリに抱きかかえられ、執務室の机の上に座らされてしまう。

 逃げられないように、ジョゼの両手の上にはアンリのそれが重ねられていた。


「本当に困った人ですね。俺にどうしてほしいですか?」

「どうもしてほしくない! 離して……」

「ほかの男のところに行くと言われて離すわけないでしょう! まったく……」


 アンリはジョゼの手を痛いくらいに握りしめる。 


「ジョゼ……。俺の妻になる意思があるんですか?」

 

 ジョゼの目が見開かれる。


「つまっ……? な、なんでそんな話に……!?」

「しょうがないでしょう!? 男には責任ってやつがあるんです。あーもう、順番がめちゃくちゃになっちゃったじゃないですか! 俺はもっと時間をかけたかったのに……」

「責任なんて取ってもらわなくてもいいわよ! どうせ明日には出ていくんだから!」

「……『一夜限りの恋』を望んでいると!?」


 ジョゼは躊躇いつつも頷いた。

 身体の火照りはどんどんひどくなるばかりで、自分でもどうしたらいいかわからない。


 一夜限りの恋なんて本当は望んでいないのに、つい肯定してしまった。

 アンリ以外の人のところに行くなんて、嘘だ。

 そんな相手はいないし、もしも適当な相手がいたとしても、それはアンリじゃない。



 

 ……アンリじゃないと、嫌だった。


 苦しさを我慢しながらジョゼは顔を上げ——びくっとその身を強張らせる。

 金の双眸がジョゼを睨みつけていた。 


「——あんまり男を煽ったらだめです。狼の妖魔でも、本当に男が狼になったらどうなるか知らないでしょう?」 


 そう言うと、アンリは乱暴に眼鏡を取り払った。


「え……あ……」


 口づけが、まず頬に落とされる。  

 あっと思う間もなく、口づけは移動していく。

 アンリの唇がジョゼの口の端に軽く触れると、甘い香りが強くなった。

 堪らない、とアンリは欲望に負けそうになる心を叱責する。


 だんだんと強くなる衝動を懸命に抑えながら、アンリは優しい口づけを何度も落とした。

 細い身体を抱きしめる腕に、つい力が入る。


「…………幼馴染だから、こうやってしてくれるの……?」

 

 薄闇で光るジョゼの瞳は潤んでいた。

 アンリは優しくて、責任感が強い。

 いつもトラブルばかりの自分に同情してくれているのかもしれなかった。


「何言ってるんですか、ジョゼ……。好きだからに決まってるでしょう!?」

「————え?」

「本当に気づいてなかったんですか?」


 アンリは苦笑しながらジョゼを抱きかかえた。

 優しい光を湛えた瞳を見た瞬間、アンリへの切ない気持ちがジョゼの胸に溢れた。


 種族が違うから。

 身分が違うから。

 まだ自分には恋はわからないから。

 どこかで必死にそんな言い訳をしていた自分にようやく気がつく。



 アンリのまっすぐな視線が自分に注がれる。

 尋常ではなく顔が火照るのを感じて身をよじるが、アンリの腕にとらわれて、どこにも逃げ場はない。

 

「俺は、あなたが好きです」


 言葉を発せないでいるジョゼに、優しいキスの雨が降る。


「……ジョゼは、俺のことどう思ってるんですか?」 


 問われて、自分の気持ちも伝えなくてはと言葉を探す。


 けれど、目の前のアンリがあまりにも急に男の人に思えて、どうしても怯んでしまう。


 そうこうしている間にもキスは降ってくる。

 何度目かの口吻の後、とうとうこらえきれなくなったジョゼが音をあげた。


「んー! アンリ、もうやだ……!」  

「……もう降参って早すぎませんか?」

「だって、いつもと全然違う。知らない男の人みたいでっ……」

「あなたが煽るのが悪い」

「……っ……!」


 アンリはジョゼの獣の耳に頬を擦り寄せた。

 そのまま口づけを落とそうとするが、焦ったジョゼの口に牙が見えているのに気がついて苦笑する。


「俺を囓るつもりですか?」

「うぅん……これ以上されたら、噛んじゃうかも……」


 ジョゼは自分の秋波に自分で酔ったのか、目を回しかけていた。


 ジョゼになら噛まれてもいいという少々歪んだ考えすら浮かぶのを、アンリはなんとか頭の隅に追いやる。

 腕の中でくたっとしている少女を、どうにか抱き潰さないように必死で堪えた。

 

 やがてアンリは深い深い溜息をひとつ落としてから、ジョゼを抱きかかえる。

 

 どう考えてもジョゼは完全に酔っ払っていた。

 これが一世一代の機会かもしれない、とも思う。

 それでも酒の勢いで、というのはどうにも躊躇われた。


 気合いと根性を総動員させてやるせない気持ちを心の奥底に沈めると、アンリはジョゼを彼女の寝室に連れて行った。

 寝台に寝かせてやると、すぐに子供のようにすう……と寝息を立て始める。

 

「……俺はね、子供の頃からあなたが好きだったんです。一夜限りになんてできませんよ」

  

 欲しいのはジョゼの心だ。

 一夜でもいいから身体の火照りを静めてほしいなどと言われたら、かなり、いや死ぬほどぐらりと来るし、勢いに身を任せてしまいたい気持ちはある。

 けれども、同時にショックでもある。


 誰でもいいというのは、とりもなおさずジョゼに幼馴染以上に思われてないということではないか。

 それでは駄目なのだ。


 自分でなければ嫌だと。

 自分だから欲しいのだと、そう言わせたい。


 遠回りになってしまってもいい。


 いつか必ず惚れさせてみせる、とジョゼの心の内を知らぬアンリは固く誓うのだった。

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