第10話 使い魔契約
空気を切り裂くような不快な叫び声が、「不老の魔術師」の喉から発されるのをアンリは聞いた。
顔を抑えながらジョゼの側からよろよろとした足取りで離れると、瀕死の体になりながらも空間をひずませ、その中に素早く逃げ込んでいく。
ノクトゥルも唸るような叫び声を上げ、同じひずみに飛び込んで消えていった。
その間にも、圧倒的な白銀の輝きが周囲に満ちていく。
凄まじい光量に、アンリは堪らず顔を背けた。
まるで白い太陽と見紛うばかりの強烈な光の洪水の中、ジョゼの身体に絡みついた黒い触手が消し飛ぶ。
さらに、隙を見て飛びかかろうとしていた蝙蝠たちも次々に消滅していった。
「この光……!!」
光の奔流はしばらく続き、やがて————何事もなかったようにすうっと消えた。
地面にはジョゼが倒れていた。
アンリがすぐに駆け寄り、顔に手を当てて呼気を確認する。
息がない。
「くそっ……!」
心の臓も止まりかけていて、その鼓動は限りなく弱々しい。
このままでは命の火が消えてしまうのは時間の問題だった。
「ジョゼ、すみません。俺がついていながら……!」
アンリはジョゼを抱き起こした。
少しでも目を離すべきではなかった。
だが、後悔してももう遅い。
アンリは回復術が使えない。
今ジョゼを助けるために使えるのは、別の術だけだ。
「こうなっては仕方ありません。あなたを俺の——……にします」
ごく小さいアンリの呟きは誰に聞かれることもなかった。
やがて顔を上げたアンリの金の瞳には、決意の光が浮かんでいた。
洞窟に放たれた火は小さくなってきてはいたが、ここにいては危ない。
煙の来ない場所まで移動し、もう一度ジョゼを地面に横たえると、アンリは自身の剣で左腕を傷つけた。
真っ赤な血が吹き出し、生気のないジョゼの身体に降りかかる。
流れる血をそのままに、今度はジョゼの腕を取り、剣を押し当てた。
何ごとかの呪文を唱えながら、薄く傷をつけると一筋の血が垂れる。
すると意思を持ったかのようにアンリの血が動き出し、ジョゼの血に向かっていく。
「——汝とここに血の契約を結ぶ。使い魔となり、我が命に従い給え——」
アンリの言葉に呼応するように二人の血液が金色の光を放ちながら交わり、踊るように飛び跳ねる。
やがてそれは二本の線となり、鎖のような形に編み上げられていく。
一端はジョゼの胸を、反対側の端はアンリの胸を、鎖が刺し貫く。
魂同士を繋ぐ、血の鎖。
妖魔を従属させる使い魔の契約である。
「くっ……」
痛みはない。
だが、鎖の触れている胸の奥が熱い。
燃えさかる炎のように揺らめく血の鎖が、輝きをはなちながらそれぞれの体内に入っていったかと思うと、唐突に消えた。
光が消えたときには、土気色だったジョゼの顔にはうっすらと赤みが戻っていた。アンリの腕の傷も消えている。
「よかった……。これでもう大丈夫です」
アンリは大きな息を吐き、意識のない半妖の少女をまじまじと見つめた。
先ほどの白い光。
あれは「聖なる光」に間違いない。
だが、邪を滅する聖なる力は、世界が窮地に陥ったときに現れるという伝説の聖女だけが持ち得る力のはずだ。
世界の守護者たる天翔族の力に匹敵するとも、それを上回るとも言われる特別な力。
先ほどのジョゼとノクトゥルの会話は、アンリの耳にも届いていた。
「ナディーヌおばさんが、聖女だった……?」
アンリの呟きは誰に届くこともなく、煙の残滓に満ちた森に静かに吸い込まれていった。
ジョゼは目を開けた。
澄み切った青色の空と、遥か下の紺碧の海が眼前にゆっくりと広がっていく。
「ここは……」
例の夢の中にいるとようやく気がつく。
「……ベルメロ、いるの?」
「ここだよ」
燃えさかる炎のような髪の色をした男、ベルメロが現れる。
いつものように人を食ったような表情を浮かべていたが、ジョゼを一目見るなり顔をしかめた。
「煙と血の臭いがするぜ。何があった?」
「煙……。わたし、死んだの?」
ノクトゥルに捕まって、「不老の魔術師」と会話してからの記憶がぼんやりとしてうまく思い出せなかった。
もしかしたら、この夢は死後の世界に繋がっているのだろうかと訝しんだのだが、ベルメロは首を振った。
「いいや? こうして俺と会ってるってことは生きてるんだろうさ。どうしたんだ?」
ベルメロの問いに、ジョゼは力なく肩を竦めた。
「隠れ家が燃えちゃったの。ママの本も、何もかもなくなっちゃった……」
洞窟にあったものなど、取るに足らない物ばかりだったのはわかっている。
それでもジョゼにとっては母と過ごした思い出が残る大事な場所だったのだ。
あくまでも気丈に振る舞おうと試みるが、語尾がわずかに震えてしまう。
不意に、頭に手をポンと置かれた。
「……悪かったな」
「どうしてあなたが謝るのよ?」
「助けてやれなかったからさ。つらかったな」
「そんなの……」
あなたに関係ないでしょ、と言いたかったが言葉にならない。
じわりと涙が滲みそうになり、慌てて下を向いて踏みとどまる。
夢の中で夢魔に隙を見せるわけにはいかない。
ベルメロの手を振り払うと、頭をぶるんと振った。
「仕方ないわ。燃えちゃったもんはしょうがないでしょ?」
あくまで弱さを晒そうとしないジョゼを見やり、ベルメロは苦笑を浮かべた。
たが、何かに気がついたのか顔色がさっと変わった。
「おい! お前さん、それ……!」
「え?」
ベルメロの視線が集中している場所——ワンピースの胸がはだけた場所を見下ろすと、鎖骨の下あたりに奇妙な文様が浮かんでいた。
小さな輪っかが組み合わさったような形で、繋がった鎖を連想させる。
痣でもなく、入墨でもない。
血のように赤い鎖の文様は、まるで首輪のようでもあった。
「え……何これ?」
「おまっ、それ! 誰にやられた!?」
「え?」
血相を変えた赤毛の男を、ジョゼは驚きを持って見た。
この男がこんなふうに取り乱す姿を見たのは初めてのことだ。
だが、ベルメロの次の言葉はジョゼをもっと驚かせた。
「それは、使い魔の証だぞ!!」
「えっ!?」
嘘でしょ……! という言葉は声にならなかった。
ジョゼの意識は急速に現実に引き戻されていた。
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