第27話 ありえないことほど起こるもの(1)

 雪に覆われた山の稜線が彼方に見える。

 山々と空を取り合うかのように、灰色の雲が重く垂れ込めていた。


 ここセラン領は、バルディアの北、北方の国ガロフとの国境に位置する。


 国境を守護するという責務を負うセラン領を代々治めるのは、大貴族であるセラン辺境伯家。

 広大な領地のあちこちから勇猛な若者たちが集まるため、辺境伯の住まう城には優秀な騎士が多く在席すると名高い。


 もっとも、城というよりは砦と呼んだほうがよいかもしれない。

 武に信を置くという辺境伯家の性格からか、華美な暮らしよりも質実剛健を重視している。

 物見台を兼ねた高い塔を備え、堅牢な城壁に守られた城は辺境の守備の要となっている。

 

 その城の一室で、初老の男性が窓に目を向けていた。

 セラン辺境伯こと、リシャード・セラン。


 齢は六十半ばを過ぎているが、元武人らしく身体つきはしっかりしている。

 白髪頭はきっちりと撫でつけられており、眼光鋭い薄青色の瞳は氷のようであった。


 厳しい雰囲気をたたえたリシャードだが、それでも領地の管理はすでに長男に譲り、自身は隠居のような生活を送っている。


 妻は数年前に他界した。

 独り身がわびしくはあるものの、本来ならば悠々自適の隠遁生活のはずだが、リシャードの表情は晴れない。


 そう、リシャードの心には長年抱えている大きな憂いがあった。


(ナディーヌよ……。儂を許してはくれまいな……)


 悔恨の念は、二〇年前に出奔した長女ナディーヌとのやり取りに遡る。


 ナディーヌは美しい娘だった。

 亡き妻譲りの豊かな栗色の髪に、深い紺色の瞳。

 幼い頃から強い魔力を持ち、さらにはバルディアの聖女だけが持つとされる聖なる力まで発現した。


 目立つことを嫌い、バルディア王には自分が聖女だと名乗りをあげることを望まなかったナディーヌ。

 だが当時、そうも言っていられない事態が起きつつあった。


 二〇年前、バルディアは度重なる妖魔の襲撃を受け疲弊しきっていた。 

 先代のバルディア国王の代替わりとともに、元々あった天翔族との守護契約を破棄したからだ。


 慣れない妖魔討伐に駆り出された王立騎士たちがどれほどの被害を出したか、まだ辺境伯を務めていた頃のリシャードは幾度となく王に進言したものだった。

 無論、一向に聞き遂げてはもらえなかったが。

 

 浮遊島からの援助も期待できない状態の中、妖魔との戦いに慣れぬ兵たちは次々に命を落とし、とうとう民にも被害が出るようになっていた。


 国の危機に際し、十八歳になったナディーヌは自分もセランの騎士たちとともに妖魔討伐に赴くと言い出した。

 しかも聖女として立つのではなく、あくまでもセラン領の女魔術師に一人として行くと。


(まったく、あんな頑固な娘はほかに見たことがない。いったい誰に似たのか……)


 リシャードの猛反対を押し切り、ナディーヌは戦地に発ってしまった。

 聖女だということはひた隠しにしていたつもりだったようだが、奇跡の力の噂はすぐに国中を駆け巡った。


 数月の後には見事国にはびこる妖魔を一掃することに成功したと報せがあったものの、ナディーヌはセラン領に帰ってこなかった。

 戦乱に紛れて行方知れずになったという訃報を受けたときには、セラン領全体が悲しみにくれたものだ。

 

 ナディーヌがセラン領に突然現れたのは、出立してすでに三年が過ぎようとしてからだ。

 喉元過ぎれば熱さを忘れるように、妖魔の被害から国が立ち直るにつれて、聖女の噂もだんだんと聞かなくなった頃である。


 すでに死んだものと諦めていた愛娘が帰郷したのだ。

 リシャードの喜びはひとしおだった。

 だが、ナディーヌがその胸に抱えてきた「あるもの」を見て、リシャードはそれこそ椅子から転げ落ちるほど仰天した。


 ナディーヌは出産していた。

 あろうことか、妖魔の子を。


 まだほんの赤子だったが、金の獣の耳と尻尾を持つ紛うことなきその姿に、リシャードは激しく苦悩した。

 セラン辺境伯爵家は国境を守護するバルディアの名家。

 その令嬢がよりにもよって妖魔の子を産み落とすなど、醜聞もいいところだ。

 それに、ナディーヌは聖女だったはずだ。

 妖魔と結ばれるとはいったいどういう了見なのか。

 父親はどこの誰なのか。

 ナディーヌの必死の弁解をよそに、これらのことを一方的に責め立ててしまったのだ。


 さらに、自分はもっと酷い仕打ちをナディーヌにしてしまった。

 そう、赤子を始末しようとしたのだ。


 リシャードの思惑を素早く察知したナディーヌは、帰郷してたったの数日後には赤子を胸に再び出ていき、そのまま二度とセランに戻ることはなかった。


(お父様、あなたはそれでも人間ですか……? 人に憎まれ、蔑まれる妖魔とて温かい心の持ち主はおります。この子の父親はそんな方でしたわ。まだ何もわからぬ赤子を始末しようとなさるなど到底武人のなさることとは思えませぬ……!)


 出ていく直前のナディーヌの悲痛な叫び声が脳裏にちらつき、リシャードは思わず額に手を当てた。


(辺境伯としての責任だった。仕方なかったとはいえ、儂は卑怯にも赤子を弑そうとした。おまけにナディーヌを身ひとつで追い出し、見捨てた……)


 突発的な怒りが去ったあと、リシャードの胸に去来したのは、赤子を抱えたナディーヌへの心配と、激しい自責の念だった。


 辺境伯として仕事にまい進していた頃には、忙しさを理由に考えないようにすることもできた。

 だが、隠居してからはこれまでの人生について思い出したり、あのときああしておけばよかったなどと後悔したりすることがとみに増えているのだ。


(赤子は、女児であったな……。生き延びていれば今頃十七。ちょうど戦地に赴いたときのナディーヌと同じくらいか……)


 リシャード・セランといえばかつて辺境で名を馳せた武勇の持ち主である。

 その自分が過去の過ちをくよくよ思い悩んでいるなどとは誰にも話すことはできなかった。


「父上、よろしいか?」

「マシューか」


 扉が叩かれると同時に、リシャードの長男マシューが入室してくる。

 セラン領では武人が多いからか、ほとんどの者がせっかちな性格をしており、だいたいの場合許可が出される前に勝手に部屋に入ってくるのだ。

 リシャードは慣れたもので、瞬時に暗い顔を引っ込めて、いつも通りの厳しい顔つきに戻っていた。


 長男のマシューは今年で四十五。

 武人らしく短く刈り上げた髪はナディーヌと同様、亡き妻を彷彿とさせる豊かな栗色だ。

 瞳はリシャード譲りの明るい青色をしている。

 いつもきびきびしたマシューだが、今日はなぜか口ごもっていることに気づき、リシャードは首を傾げた。


「どうしたのだ?」

「それが……父上に会いたいと、浮遊島より客人が参られました。第五皇子のアンリ殿下だそうですが」

「なんだと? なぜ天翔族の皇子が儂なぞに会いに来るのだ」


 リシャードは目を見開いた。

 天翔族が、なぜセランに? 

 

 バルディアは先の王の代から浮遊島とはほとんど交流がないはずだ。

 中央大陸の守護者として名を馳せる、いと高き存在である天翔族。

 妖魔討伐では超人的な能力を発揮し、人間の世界を守ってくれている——バルディアは除くが。


 もしも二〇年前にバルディアが守護契約を破棄していなければ、ナディーヌとて妖魔討伐に赴くことなどなかっただろうに。

 そんなひりつくような思いが、古傷を掻きむしるようにリシャードの胸を痛めた。

 

「ともかく会おう。天翔族の皇子などという貴人が来られてはお待たせするわけにはいかん」


 急いで応接の間に向かったリシャードは、これから自分を待ち受けるものをまだ知らずにいた。

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